第110話 氷姫リリアン(後編)
がらん、と小さな音。
私の手から杖が滑り落ち、氷の床に転がる。
水晶の先端が床に当たり、澄んだ音が響く。
その音は、凍てついた空間に空虚に響き、氷の結晶の間を音が何度も反射していく。
「ふふ、よろしい♪」
リリアンの腕の中で、私の意識はますます朦朧としていく。
耳元で囁かれる甘い声が、まるで羽のような軽さで私の心を包み込む。
その声は氷の壁に反射して幾重にも重なり、まるで魔法の呪文のよう。
全身が内側からくすぐられるようで、力が抜ける。
(ダメ……シャルが……イリスが……)
微かに聞こえる二人の戦いの音。雷撃と氷の砕ける音が、遠くから聞こえてくる。
でも、それすらだんだんと遠くなっていく。深い氷の底に沈んでいくように。
「もう大丈夫。何も考えなくていいの」
リリアンの声が、氷の壁に何重にも反射する。
その度に、意識が溶けていく。彼女の長い髪が、私の頬をくすぐる。
でも――。
床に転がった杖の水晶が、かすかに光を放っているのが見えた。
その光は弱々しく脈打ち、私を呼んでいる。
(そう、だ……)
私は、最後の意識を振り絞る。頭の中の靄を必死に払いのける。
この寒さは不自然なものだ。リリアンが魔法で作り出した、歪んだ環境。
氷の結晶が作る迷宮全体が、自然の摂理に反している。
この空間全体が、ある意味一つの「傷」なのだ。
(環境……回復、魔法)
私の意識が杖に向かって伸びる。水晶の中で、温かな光が大きく脈打つ。
その光は次第に強さを増し、まるで小さな太陽のように輝き始めた。
「あら?」
リリアンの声が変わる。
その腕の力が、僅かに緩む。彼女の瞳に、かすかな不安の色が浮かぶ。
そして――。
「な……これは!?」
氷の城全体が、温かな光に覆われる。
杖から放たれた魔力が、まるで波紋のように広がっていく。黄金の波紋が氷の壁を染め上げていく。
それは単なる回復魔法ではない。歪められた環境そのものを、本来の姿に戻す力。
春の訪れのように、光が氷の城を溶かしていく。
氷の結晶がろうそくのように溶けていく。
鏡のように輝いていた壁面が曇り、その向こうにシャルとイリスの姿が見えてくる。
氷の中に閉じ込められた二人の姿が、少しずつはっきりとしてくる。
「こ、この魔法は……!?」
リリアンの腕から逃れ、私は数歩後ずさる。
頭がクラクラする。足元がふらつき、冷たい床に触れる。でも、意識ははっきりしてきた。
氷の城が溶け始める。天井から雫が落ち、床が融けていく。
氷の造形が崩れ、その破片が光を受けて輝く。
リリアンの作り出した人工の寒気が、魔法の力で消えていった。
「まさか、空間全体を回復の対象にしたとでも……!? ありえない……ありえませんわ、そんな!」
リリアンの声には明らかな狼狽が混じっていた。
彼女の杖が青く輝き、必死に氷を再生しようとする。
しかし、追いつかない。溶ける速度に対して、氷が形成される速度が足りていない。
青い光が空しく瞬き、作られた氷がすぐに崩れ落ちる。そして――。
「そんなの無駄だよ!」
シャルの剣が、氷の壁を粉砕する。雷撃が走り、溶けかけた氷がさらに砕け散る。
破片が宝石のように輝きながら、空中を舞う。その奥から、無傷のシャルが現れた!
「さて。小賢しい真似をしてくれたな、リリアン」
イリスの放つ赤い光が、氷の残骸を蒸発させていく。
蒸気が立ち昇り、幻想的な光景を作り出す。
「くっ……まさか、こんな小娘にわたくしの完璧な盤面を覆されるなんて……!」
リリアンの周りにはまだ氷の結界が残っていた。
青く輝く六角形の氷の壁が、彼女を守るように取り囲んでいる。だが、それも徐々に溶けていっていた。
リリアンは氷の翼を形成し、天井の隙間へと飛翔しようとする。
その氷の翼は、月明かりを受けて美しく輝いていた。
結晶の模様が、羽のような繊細な模様を描いている。
「逃がすと思うなよ」
イリスの魔法が手から放たれ、逃げようとするリリアンの翼を焼き切る。
赤い光が氷を貫き、翼が砕け散る。
彼女はなんとか優雅に着地すると、私たちを睨みつける。
その紫水晶の瞳には怒りが宿り、真紅の唇が歪む。
「ふふ……。確かにやられました。でも、これで終わりだと思わないことですわね」
リリアンの周りに、新たな氷の渦が生まれる。
今度は、より濃密な魔力を帯びているのが感じられた。
青白い渦が彼女を中心に回転し、その中で無数の氷の結晶が形作られていく。
「本当の戦いはここからよ……! 四天王の力、甘く見ないことね!」
私は床から杖を拾い上げる。水晶が温かな光を放ち、私の手のひらを優しく包み込む。
まだ戦いは終わっていなかった。氷の城の残骸が、これから始まる戦いを見守るように輝いている。
氷の渦が広がり、リリアンの周囲に無数の氷の結晶が形成される。
それぞれの結晶は鋭く尖り、それぞれが武器のようだった。
「さぁ、わたくしの本気をお見せしますわ」
リリアンの杖が青く輝く。
氷の結晶が一斉に私たちめがけて飛来する。その数はとても数えきれない。
「くっ!」
シャルが剣を振るい、結晶を粉砕していく。
しかし次々と新しい結晶が生まれ、まるで雨のように降り注ぐ。
イリスの赤い光も同じように放たれ、氷の結晶を溶かしていく。
だが、溶けた氷は蒸気となって視界を遮る。白い霧が辺りを包み込んでいく。
「ミュウちゃん、気をつけて!」
シャルの警告に頷く。この霧は視界を塞ぐためのものだ。なら……。
(状態異常回復魔法)
温かな光が広がり、「状態異常」をもたらす不自然な霧を晴らしていく。すると――。
「そこです!」
リリアンの氷の矢が、シャルの死角を突く。
だが、彼女の青白い雷光が勝手に矢を粉砕した。オート防御!?
「ちっ!」
リリアンの舌打ちが聞こえる。彼女の表情が僅かに歪むのが見えた。
「甘いぞ、リリアン!」
イリスの赤い光弾が、リリアンの方へと放たれる。
彼女は氷の壁を展開し、それを防ごうとする。
だが、光弾は壁を貫通。リリアンは間一髪で身を躱す。
「ふふ……やはりお強いですわね、イリス様」
リリアンは氷の翼を形成し、高く飛び上がる。その姿は優雅だが、どこか演技めいていた。
「時間稼ぎか!? 逃がすと思うな!」
イリスの声に、シャルが反応する。
彼女は剣に雷を纏わせ、リリアンめがけて跳躍した。
「させませんわ!」
リリアンは氷の矢を連射する。
シャルの攻撃を阻もうとするが、その矢は彼女の剣を止められない。
雷が飛来する矢を打ち払い、彼女の体は無傷のままだ。
「どおりゃあっ!」
シャルの剣が、リリアンの氷の翼を切り裂く。
彼女は落下――するかに見えて、氷の階段を形成し、そこを滑るように後退していく。
「ふん! もはや手加減なしですわよ!」
リリアンの周りに、巨大な氷の結晶が形作られる。
それは彼女の背後で巨大な扇のような形となり、月明かりを受けて妖しく輝く。
「イリス様。貴方の力が戻っていないうちが、わたくしのチャンス……!」
「ほう。力が戻っていなければ魔王に敵うとでも?」
火花を散らす二人。
氷の扇から無数の破片が放たれる。それは谷中を埋め尽くさんばかりの量だ。
しかし――。
(寒冷回復魔法……!)
私の魔法が放たれ、氷の破片が溶けていく。
それを見たリリアンの表情が、一瞬だけ緩む。まるで、そうなることを期待していたかのように。
「やはり、あなたの力は厄介ですわね」
彼女の声には諦めが混じっている。
だが、その目は常になにかを探るように動いていた。
「はあっ!」
シャルの剣が再びリリアンに迫る。雷を帯びた刃が、彼女の結界を粉砕していく。
「この……!」
リリアンは新たな氷の城を作り出そうとする。しかし、私の回復魔法がそれを許さない。
氷が形成される前に、温かな光がそれを溶かしていく。
「もう逃げ場はないぞ。覚悟を決めよ」
イリスの言葉に、リリアンは僅かに目を細める。
「フフ……本当にそう、でしょうか?」
その瞬間、リリアンの体の色が変わる。
見る見るうちに色が消え、白く濁っていく。……その体は氷の結晶となって砕け散った。
……偽物!? 分身!?
「なっ!?」
どこか遠くから、彼女の笑い声が聞こえてくる。
「お楽しみいただけましたか? では、これにて失礼を!」
青い光が谷の向こうで瞬く。リリアンの気配が急速に遠ざかっていく。
「追いかけよう!」
「いや、もう遅い。分身を使って時間を稼ぎ、十分に離れたらしい。……だが」
イリスが手のひらに赤い球体を浮かび上がらせる。その表面に、青い光の粒が点滅していた。
「魔王は一度戦った相手を決して逃さん。ヤツの居場所は分かっている。一度体制を立て直し、追撃するぞ!」
「おっけー。つまり休憩ってことね」
「……まぁ、そうだ」
……威厳のない感じに言い換えられ、イリスはバツが悪そうだった。
私は深くため息を吐く。とにかく、なんとか彼女を撃退はできたということだ。
ああ、心臓に悪い戦いだった……。
「でもさー、ミュウちゃん」
シャルが、意地の悪い笑みを浮かべながら近づいてくる。
その目は、子猫を見つけた猫のように輝いている。
「なんかすっごい困ってたよね? 最初のほう。リリアンに抱きしめられて、顔真っ赤にして……」
「……っ!」
思い出したくもない記憶が蘇る。顔が再び熱くなるのを感じる。
「あはは! やっぱ真っ赤! もしかしてミュウちゃん、ああいうの初めて? 大人の色気に触れたの?」
「……!!」
「からかいすぎるなよ。それに、サキュバスの魔力に惑わされなかったのは、むしろ立派なものだ」
「ごめんごめん! ミュウちゃんの反応が面白可愛かったからさ!」
シャルは私の頬を突っつく。私は頬を膨らませて対抗した……!
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