第104話 魔界の村にて
「さて。これを食べるがよい」
イリスが差し出したのは、深い紫色をした果実だった。
表面はつやつやと輝いており、まるでクリスタルでできているかのよう。
「え、これ食べられるの? 石じゃない?」
「果物だ。人間でも食べられるはずだ」
シャルが不思議そうに果実を手に取る。透き通った実の中で、何かが渦を巻いているように見える。
私も一つ受け取る。手に持つと、かすかに脈動しているのを感じた。
「ラクルベアルと言う。人間界で言うところの朝食として、よく食されている」
イリスはそう説明すると、自分も一つ手に取った。
その仕草には気品があり、まるで高級なワインを口にするような優雅さがある。
「そら、こうして――」
イリスが犬歯で果実に小さな穴を開ける。
すると中から紫色の蜜のようなものが零れ出てきた。
甘い香りが漂う。それはたしかに、人間界の果物に似ていた。
「へぇ~。じゃ、いただきまーす!」
シャルが真似をして果実に穴を開け、一気に中身を飲み干す。相変わらず豪快だなぁ。
私はおそるおそる真似してみる。
液体が喉を通る感覚は不思議なもので、まるで炭酸水のような刺激があった。
味は……甘くて、少しスパイシー?
「む、口に合わぬか?」
イリスが心配そうに私を見る。私は首を振る。
むしろ、意外なほど美味しい。ちょっと辛いけどね。
「そうか。魔界の食事が人間に合うとは限らんと思っていたのだが……何よりだ」
イリスは安心したように微笑む。
その表情は昨夜よりも柔らかく、どこかお姉さんのような雰囲気さえ感じる。
「よーし、朝ごはんも食べたし出発する?」
「待て。その前に心得ておくことがある」
イリスはシャルの勢いを制すると、窓の外を指差した。
そこには、クリスタルが生い茂る荒野が広がっている。
朝日を受けて、無数のクリスタルが七色の光を放っていた。
昨夜の不気味さは消え、代わりに神秘的な美しさが漂う。
「魔界の地を行くには、幾つかの決まりがある。まず、クリスタルの生えている場所を外れてはならん」
イリスの声が、朝の空気に響く。
「なぜなら、クリスタルは魔力の集まる場所にしか育たぬ。つまり、そこを外れれば魔力の薄い危険地帯となる」
確かに、クリスタルの生えていない場所は、どことなく生気が感じられない。
暗い色をした地面は、まるで大地が腐っているかのようだ。
「魔力が薄いと危ないの?」
「そうだ。そこに生息しているのは魔力がない過酷な状況でも生存できる特殊な魔物。
もしくは、入り込んだ生物を捕食して魔力を補充してきた魔物の生息地だ」
少し寒気がした。なるほど……。
つまりクリスタルがないところには危険な魔物がいるということらしい。
「次に、荷物は最小限に。我は威厳を持って旅をせねばならぬ」
そう言って、イリスは小さな布袋を手に取る。
なんか路銀すらほとんど入ってなさそうなんだけど……。
「えー? でも食料とか着替えとか」
「魔王が荷物持ちのように旅をする姿を見て、誰が恐れをなすというのだ」
イリスの言葉に、シャルは「うーん」と唸る。
「とはいえ、お前たちは人間だ。最低限の装備は持って構わん」
私とシャルは顔を見合わせる。
私の荷物はそもそもほとんどない。服と杖、翠玉の鏡くらいだ。
なにしろ、突然魔界に転移してきたわけだし……。
シャルも同じ。大剣と勾玉。あとは一応財布を持ってるっぽい。
「ま、いっか。とりあえずはこれで行こうか」
「よし、では参るぞ。我が案内する」
イリスが先導し、城の出口へと向かう。
その足取りには、昨夜の弱々しさは微塵も感じられない。
まるで本当の魔王のように、威厳に満ちていた。
■
「右を見よ。あれが命の結晶だ」
イリスの声に、私たちは目を向ける。
大きなクリスタルの群生地が、朝日に照らされて輝いていた。
青や紫を基調とした結晶は、まるで花畑のように広がっている。
「命の……結晶? ただのクリスタルじゃないの?」
シャルが首を傾げる。イリスは足を止め、クリスタルに手を触れた。
すると、触れた場所から淡い光の輪が広がっていく。
「魔界の生命は、死してクリスタルとなる。そしてそれは新たな魔力となり、やがて大地に還っていく」
イリスの説明に、私は思わず息を呑む。
つまりこのあちこちに生えたクリスタルは、かつて生きていた魔族の名残……?
「驚くか? 我々にとって、これは自然な摂理だ。むしろ誇りとすべきことだぞ」
イリスの言葉には確かな誇りがあった。
クリスタルの輝きが、その表情を一層気高く見せる。
「死して魔力となり、また新たな命を育む。我々はそうして魔界の力を紡いできた」
歩みを進めながら、イリスは語り続ける。
私たちは荒野を縫うように進んでいく。足元のクリスタルが、歩くたびにキィンキィンと澄んだ音を響かせる。
「だからこそ、クロムウェルの所業は許されん。魔族の力の源を、私物のように扱うなど」
イリスの声が低く沈む。
クリスタルの音色も、その感情に呼応するかのように翳りを帯びた。
「それにしてもずいぶん広いね。目印とかないの?」
シャルが周囲を見回す。確かに、クリスタルの群生地は果てしなく続いているように見える。
「心配には及ばぬ。クリスタルの音を聞け」
イリスが立ち止まる。私たちも足を止めると……耳に微かな音が届いた。
キィン、キィン、と響くクリスタルの音色。
よく聞くと、その音には方向性があるような気がする。
「古くからの道筋ほど、クリスタルの反応が強い。つまり、この音が我々の道標となる」
なるほど。だから道を間違えることはないのか。
……いや、私には全然わかんないけど。イリスには音の違いがわかるのだろう。
「うわ! 出た!」
突然、シャルが大きな声を上げた。
振り返ると、黒い影が私たちに襲いかかってくる。羽音が風を切る。
「チッ、虫けらどもが」
蛾のような姿をした魔物の群れ。人の顔のような器官が、不平不満を零している。
「クソッタレェ! なんで俺がぁ~!」
「めんどくせぇよぉ……生きるのがよぉ」
「相変わらずうるさいなー、こいつら」
シャルが剣を構える。その刀身が、朝日に照らされて輝く。
「待て。剣を抜くには及ばぬ」
イリスは一歩前に出ると、静かに歌い始めた。
その声に呼応し、周囲のクリスタルが鋭い光を放つ。
魔物たちは、その光に驚いたように距離を取った。
「こ、この……ギイィィィッ!」
「キシャアアアア……!」
魔物たちは散り散りに逃げていく。その姿が、赤く染まった空に溶けていった。
「ふん。愚かな輩どもよ」
イリスは冷ややかな目で魔物たちを見送る。
シャルは剣を収めながら、感心したように笑う。
「すごーい。イリスの歌、やっぱ効くんだね」
「当然であろう。我は魔王なのだからな。魔力に触れるだけで、下級の輩どもは逃げざるをえんのだ」
イリスは誇らしげに胸を張る。
その姿は確かに威厳があったが、どこか可愛らしくも見えた。
「さて、行くぞ」
私たちは再び歩き始める。
遠くでは赤い山々が、その尖った頂を空に突き刺していた。
クリスタルの音が、私たちの足音に合わせて響いていく。
キィン、キィンという澄んだ音色が、魔界の朝に溶けていった。
魔族の命で輝くクリスタル。その命の循環が、魔界の営みを支えている……。
私は歩きながら、キラキラと輝く群生地に見とれていた。
不思議だ。最初は不気味に感じた魔界の風景が、今は神秘的な美しさすら感じられる。
イリスの銀髪が風になびき、シャルの赤い髪が朝日に輝く。
私たちの影が、クリスタルの上に長く伸びていた。
「あ、あれ見て! なんか建物がある!」
シャルが指差す方向に目を向けると、確かにクリスタルの群生地の向こうに小さな集落が見えた。
建物は全て黒っぽい石でできており、壁や屋根にはクリスタルが生えている。
遠目には廃墟のようにも見えるが、煙突から立ち上る紫色の煙が人の気配を感じさせる。
「ふむ。もしやここが『夜穿村』か……」
イリスが懐かしそうに呟く。その目には、どこか切なさが浮かんでいた。
「イリスの知ってる場所?」
「ああ。かつては盛んな交易地だったのだが……」
言葉の途中、集落から人影が現れる。
彼らは、一見すると人間とよく似ていた。けれど、肌は青白く、瞳は黒目がちで大きい。
服装は簡素だが、どことなく上品な雰囲気がある。
「あ、あれは……まさか……」
魔族の一人が私たちに気付き、目を見開いた。
その声に、他の魔族たちも次々と顔を上げる。
「あの輝く銀髪……イリス様!?」
「本当に封印が解かれたのか!?」
「魔王様が、魔王様がお戻りになったぞ!」
歓声が上がり、魔族たちが次々と集まってくる。
しかしイリスは一歩前に出ると、静かに手を上げた。
その仕草には威厳が満ちており、まるで本当の女王のよう。
魔族たちは一斉に動きを止め、緊張した面持ちでイリスを見つめる。
「やはり、噂は広まっているようだな」
イリスの声が響く。凛とした声に魔族たちは息を呑む。
「我の封印が解かれたことを、お前たちは既に知っていたのだろう?」
「は、はい! クロムウェル様の城から、そのような噂が……」
魔族の一人が震える声で答える。その言葉に、イリスの表情が僅かに曇った。
クロムウェルの名を聞いた途端、周囲の空気が張り詰める。
「……様、か」
イリスの声は低く、冷たかった。その声に、魔族たちが身を縮める。
「待ちなさい。そこの者」
新たな声が響く。年老いた魔族が、杖を突きながらゆっくりと歩み出てきた。
その姿に、イリスが目を細める。
「ラオス……お前まだ生きていたか」
「はい。千年もの長き時を経て、こうしてまたお目にかかれること……」
老魔族――ラオスは、目に涙を浮かべながら、深々とイリスに頭を下げる。
……しかし、その時。
「待て! なぜ彼女に頭を下げる!?」
若い魔族が叫ぶ。彼の目には激しい感情が浮かんでいた。
「我らの主君はクロムウェル様だ! 彼こそが正統な魔王だろう!?」
その言葉に、場の空気が凍る。
魔族の一人は彼を睨み、剣の柄を掴みさえする。一触即発……!? なんで急に!?
しかしイリスは静かに目を閉じると、ゆっくりと歌い始めた。
その声は、私たちが今まで聞いたどの歌よりも透明で力強かった。
まるで魔界の歴史そのものを歌っているかのような重みがある。
すると、集落中のクリスタルが一斉に光を放ち始めた。
青く、そして紫に輝くクリスタルの光が、集落を幻想的に染め上げる。
澄んだ音色が、まるでイリスの歌に和音を重ねるかのように響いた。
「……! この魔力……」
「これが……魔王の、歌……?」
魔族たちが息を呑む。若い魔族の表情も驚きに染まっていた。
イリスの歌が終わると、場は深い静寂に包まれた。
誰もが、魔王の力をまざまざと見せつけられたのだ。人間にはよくわからないが、魔族にとってはわかりやすい証明になるのだろう。
「我が何者か、分かったか?」
イリスの声が、静寂を破る。
魔族たちは一斉に跪いた。
……それから集落の広場に、急ごしらえの椅子が用意される。
そこにイリスが座ると、魔族たちが次々と報告を始めた。
「クロムウェル様は、いや、クロムウェルは苛烈な統治を行っています」
ラオスが震える声で語る。その老いた目には、深い憂いが浮かんでいた。
「魔族の力を制限し、自らの配下にある者以外には『核』の力を分け与えません。そのため、多くの集落が力を失い、衰退の一途を辿っているのです」
イリスはじっと耳を傾ける。その横顔は厳かで、まるで昔の肖像画のよう。
魔族たちは、その姿に畏怖の念を抱きながらも、確かな希望を見出しているように見えた。
「かつてのように、魔力を自由に扱える者はほとんどいません。我々のような小さな集落は、ただ細々と暮らすことしか……」
「ふむ……」
イリスの声は低く、重い。
私は彼女の横顔を見つめる。その表情には怒りと悲しみが混ざっていた。
シャルもまた、真剣な面持ちで話を聞いている。彼女はそっと私に耳打ちした。
「たぶんアレかな……魔族にとっての魔力って、あたしたちの水みたいなモン?」
「……!」
そう考えると、ことの重大性が理解できる気がする。
自らの配下以外には水を与えず、それ以外の魔族は皆苦しんでいる。そのやり方がいかにまずいか、直感的に理解できた。
「イリス様、どうか我々をお救いください」
「魔王様の力があれば、きっと……!」
魔族たちの声が重なる。
その願いは切実で、イリスの肩に重くのしかかっているように見えた。
「約束しよう。必ずや事態を正す」
イリスの声は、迷いのない強さを持っていた。
その言葉に、魔族たちの目が希望に輝いたように見えた。
それからしばらくして、出発の時が近づいてきた。
村を出ようとする私たちに、数人の魔族が食料の詰まった袋を差し出してくる。
「イリス様。どうかこれを」
紫色の果実や、クリスタルのような輝きを放つパンのようなものが見える。
「……そのような施しは我には……」
「いいじゃん! いただきまーす!」
イリスが断ろうとした瞬間、シャルが袋を受け取る。
彼女は屈託のない笑顔で、魔族たちにお礼を言った。
「お、おい……」
「いいじゃんいいじゃん! 貰えるものは貰っとこうよ。ありがとね皆! これはなんて食べ物?」
イリスが困惑した表情を見せる。
が、シャルは意に介した様子もなく、魔族たちと談笑を始めていた。
「シャルという人間は、なかなかに図太いな」
イリスが小さくため息をつく。でも、その口元には微かな笑みが浮かんでいる。
私も思わず、クスッと声を漏らしてしまった。シャルはいつもこうだ。
「よし、そろそろ参るか。おい、シャル」
「はーい、オッケー! じゃあね、魔族の皆~!」
「イリス様、どうかご無事で!」
「人間もまた来いよ!」
「我々はここでお待ちしております!」
魔族たちの声を背に、私たちは集落を後にする。
シャルは大きく手を振り、私も小さく頭を下げた。
イリスは最後まで凛とした態度を崩さなかった。
けれど、その背中には確かな決意が宿っているように見えた。
遠ざかる集落を振り返ると、魔族たちがまだ見送っている。
クリスタルの群生地の向こうで、彼らの姿が小さく揺れていた。
「クロムウェルめ……魔族の民になんたる仕打ちを」
イリスが歩きながら呟く。その声には、怒りよりも深い悲しみが漂っていた。
「大丈夫だよ。なんとかなるって!」
シャルが力強く言う。その声にはいつもながら、不思議な説得力があった。
私も杖を強く握り直す。
この旅の先で、なんとしても人間界に帰らなければ。シャルと一緒に。
私たちの魔界の旅は、まだ始まったばかりだ。
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