第103話 魔王と過ごす夜
……眠れない。
寝返りを打つたびに、豪奢なベッドが軋むような音を立てる。
天蓋から舞い落ちる埃が、月明かりに照らされてきらきらと輝いている。
隣からはシャルの寝息が聞こえてきた。
彼女はこんなことの直後だというのに、すぐに眠りについてしまった。
相変わらずの図太さというか、たくましさというか……。
3つの赤い月の光が、窓からぼんやりと差し込んでいる。
その不気味な光のせいで、部屋の中の影が通常よりも濃く見える。
クリスタルの柱が、まるで誰かが立っているかのような影を作り出していた。
(魔界の空気、重いなぁ……)
人間界とは違う、粘り気のある空気が胸に重くのしかかる。
呼吸するたびに、金属のような味が口の中に広がる気がする……。
埃を避けるための状態異常無効の魔法は効いているものの、この生温かい空気だけは防げない。
寝室の調度品は、かつての面影を残しつつも、長年の歳月を物語っていた。
クリスタルに覆われた壁には、色あせた絵画が掛けられている。
埃で曇った鏡には、3つの月の光だけが薄っすらと映り込んでいた。
……キィン。
ふと、どこか遠くでクリスタルの音が響いた。澄んだ音色が、静寂を破る。
続いて、かすかに歌声が聞こえてくる。
(イリス……?)
私は起き上がり、音の方へ耳を傾ける。
確かに、どこからともなく歌声が漏れ聞こえてきている。まるで風の囁きのような、儚げな歌声。
ベッドから降りると、冷たい床を素足が感じる。
その感触は人間界の石とは違う。
クリスタルが混ざった床は、まるで凍った湖を歩いているかのよう。
……ほんとに凍ってたらこれどころじゃないだろうけどね。
そっと扉を開ける。重たい扉がギィと軋んだ音を立てた。
廊下に出ると、より鮮明に歌声が聞こえてくる。
崩れた城壁の隙間から吹き込む風に乗って、イリスの歌声が廊下を漂っている。
壁から生えたクリスタルが、その歌声に呼応するように淡く光を放っている。
その光が私の行く手を照らしてくれている。
廊下の先には大きな窓がいくつも並んでいた。
崩れた窓枠の向こうには、赤い月に照らされた魔界の荒野が広がっている。
遠くには尖った山々が、黒い影絵のように並んでいるのが見える。
そこに、イリスの姿があった。
彼女は倒れた柱の上で、微かな歌声を響かせていた。
その声に導かれ、崩れた城壁のクリスタルがゆっくりと這い上がっている。
けれど、その成長は遅く、か細い。
イリスの肩は小刻みに震え、歌声も時折途切れがちだ。
(魔王なのに、こんな時間まで一人で……)
「……来ていたのか」
突然、イリスが振り返った。
月明かりに照らされた横顔が、一瞬人間の少女のように見える。
「眠れぬのか?」
イリスの声には疲れが滲んでいた。それでも、どこか優しさのある声。
「……う、うん……」
「仕方のないやつだ。こちらへ来るがいい」
イリスが手招きする。私は静かに、彼女の元へと歩み寄った。
足音が廊下に響く。
それに合わせて、クリスタルが共鳴するように音を立てる。
イリスの隣に腰を下ろす。
冷たいクリスタルの感触が、薄手の服を通して伝わってくる。
「この場所からは、かつての我が城下が一望できたのだ」
イリスの目線の先には、月明かりに照らされた荒野が広がっている。
所々に生えたクリスタルが、赤い光を反射して不規則に瞬いている。
「……かつての?」
「ああ。千年前、この城はもっと美しく、ここには街があった」
イリスの声には深い懐かしさが滲んでいた。銀髪が風に揺れる。
「クリスタルの螺旋が天まで伸び、その先端は雲をも突き抜けていた。
月の光を受けて七色に輝く様は、まさに幻想的な光景だった」
イリスは、まるで目の前にその光景が広がっているかのように、虚空を見つめている。
その目には、懐かしさと共に深い哀しみが浮かんでいた。
「父上――先代魔王は、大いなる力を持っていた。指一本で城を造り変え、声一つで大地を覆す」
イリスの声が震える。
クリスタルの輝きが、その震えに呼応するように揺らめいた。
「しかし父上は、突如として現れた人間の英雄に敗れた。そして我もまた、封印の術をかけられてしまった」
(人間の……?)
イリスはそこで言葉を切り、深いため息をつく。
夜風が吹き抜け、彼女のドレスを揺らす。
「千年の時を経て、ようやく目覚めた我が見たものは……」
イリスは自分の手のひらを見つめる。
その手には、かすかに魔力の光が宿っている。けれど、その光はとても弱々しい。
「この姿よ。かつての力は失われ、城は朽ち果て……。クリスタルを操る小手先の魔法すら、まともに使えぬ」
そう言って、イリスは再び歌い始める。
その声に導かれ、崩れた壁のクリスタルが少しずつ伸び始めた。
けれど――すぐに歌声が途切れ、イリスが咳き込む。
銀の髪が乱れ、整った横顔が苦痛に歪む。
「くっ……この程度の魔法にすら息が切れる。なんという屈辱か」
イリスの拳が震える。爪が手のひらに食い込み、血が滲んでいるのが見えた。
「……あ、あの……回復魔法を……」
私は静かに声をかける。
イリスは一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに小さく頷いた。
青白い光が彼女を包み込む。傷が癒え、彼女は整った息遣いを取り戻していく。
「ふむ……。確かに体力は回復する」
イリスは手のひらを開き閉じする。血の跡はもう消えていた。
「だが、これはただの体力の問題ではない。魔力そのものが、かつての我とは比べ物にならないほど弱くなっているのだ」
「……どうして?」
「封印の影響か、あるいは千年という時の流れか」
イリスは首を振る。
「いや、それだけではない。魔界の『核』――我々魔族の力の源が、クロムウェルによって独占されているせいもあるのだろう」
彼女の声には苦々しさが滲んでいた。
私にはその意味が完全には理解できなかったけれど、イリスにとってはとても重要なことなのだろう。
「……いっそ殺されていた方が、この無力さに苦しまずに済んだのかもしれんな」
そう呟いて、イリスは再び歌い始める。
その声は儚く、まるで月明かりのように頼りない。
けれど、彼女は歌い続けた。たとえその声が途切れようと、また歌い始める。
まるで、自分に言い聞かせるように。
クリスタルはその懸命な歌声に応えるように、ゆっくりと、だが確実に成長を続けていく。
私は黙ってその様子を見つめながら、時折回復魔法を使う。
言葉は必要なかった。ただそばにいることが、私にできる精一杯の励ましだ。
赤い月の光が、二人分の影を城壁に映し出していた。
イリスの歌声は、夜が更けるにつれて少しずつ力強さを増していった。
私の回復魔法を受けながら、彼女は何度も歌を紡ぎ出す。
その声に導かれ、クリスタルは着実に城を修復していく。
ガシャガシャという音と共に、砕けたクリスタルの破片が宙に浮かび上がる。
それは月明かりを受けて、まるでガラスの蝶のように輝いていた。
破片は歌声に合わせて踊るように回転し、やがて城壁の形を作り始める。
一片、また一片と、クリスタルが積み重なっていく。
イリスの歌に合わせて、私も杖を振るう。
彼女の体力が尽きないよう、絶え間なく回復魔法を送り続ける。
キィン、キィンという澄んだ音色が、静かな夜に響き渡る。
それは不思議と心地よい旋律となって、魔界の夜を彩っていった。
「……ふむ」
イリスが歌の手を休める。その横顔には、小さな達成感が浮かんでいた。
窓枠の修復が終わり、あたりは見違えるように綺麗になっている。
月明かりがクリスタルの窓を通り抜け、廊下に美しい模様を描き出していた。
赤い光がクリスタルによって七色に分けられ、幻想的な風景を作り出す。
床に映る光の模様が、まるでステンドグラスのよう。
「ずいぶんと手伝ってくれたな」
イリスが私を見下ろす。その目には子供を見るような優しさが浮かんでいる。
彼女の銀髪が、クリスタルの放つ七色の光を受けて美しく輝いていた。
「人間といっても様々なようだ。勇者のような野蛮なものもいれば、お前のような癒やし手もいる」
イリスの声は柔らかく、今までの高慢さは微塵も感じられない。
疲れているせいか、それとも心を開いてくれただろうか……。
私は小さく頷く。言葉で返す必要はないと感じた。
イリスもまた、それ以上は何も言わなかった。
……コミュ障的には敵だと思っていたけど、案外話しやすい人だ。
遠くの山々が、少しずつ輪郭を帯び始めている。
夜が明けようとしているのだ。空の色が、僅かに変化し始めた。
「さて、もう少しだけ続けるか」
イリスが再び歌い始める。その声が夜明け前の空気に溶け込んでいく。
クリスタルが光を放ち、城は着実に本来の姿を取り戻していく。
それは遅々とした歩みだが、確実な変化だった。
私は黙って回復魔法を送り続ける。
杖から放たれる青白い光がイリスの体を包み込む。
夜明け前の風が吹き抜け、私たちの髪を優しく揺らす。
空気の粘性もあるが、この時ばかりは少しだけ心地よく感じられた。
「おはよー! って、ええっ!?」
シャルの声が突然響いた。振り返ると、彼女が目を見開いて辺りを見回していた。
窓の外にあるのは、昨日までの崩れた城とは違う光景。
クリスタルの城壁は美しく修復され、廊下にまで幻想的な光が満ちている。
赤い月の光は未だ残っているものの、そこにほのかな朝焼けが重なり始めていた。
クリスタルが両方の光を受け、さらに鮮やかな輝きを放つ。
「すっごい! いつの間にこんな……って、もしかして徹夜でやってた!?」
シャルは廊下を駆けてくる。その足音がクリスタルに反響して、澄んだ音を響かせる。
「まぁな。だが、これでもまだ昔の面影には及ばぬ」
イリスがそう言って遠くを見やる。
そこには、魔界の大地が一面に広がっていた。
荒野に生えたクリスタルの群生が、朝日を受けて輝き始めている。
それは昨夜とは違う、穏やかな輝き。
夜の景色はいかにも恐ろしかったが、ここもまた幾多の命が住む「世界」なんだと実感できる。
……それだけに、ホントに帰れるのだろうかと不安にもなるけど。
けど、くよくよしても仕方ない。何よりシャルもいるんだし、きっとなんとかなるはずだ。
外を見るイリスの瞳に、新たな決意の色が宿るのを見た気がした。
私はそんなことを考えながら、大きくあくびをする。
やっぱり、徹夜は疲れる……。
「あれ、ミュウちゃん眠そう? あー、そっか! ずっと起きてたんだよね! よしよし」
シャルが私の頭を撫でる。ワシャワシャと。……頭がぐわんぐわん揺れるぅ~。
「客人を徹夜させてしまったか。すまんな」
「ミュウちゃん、例の魔法は禁止だからね! ちゃんと寝るんだよ」
「……!」
な、なんで! アレで回復しようと思ってたから寝なかったのに……。
シャルはそんな私のことを見抜いているように視線を合わせてくる。
「やれやれ。寝られぬのなら我が寝かしつけてやろうか?」
「……!?」
「あー、ずるい! あたしもミュウちゃんを寝かせるからね!」
「……!?!?」
そ、そんな歳じゃないんだけど……!
私は拒否しようとするが、なんと言っていいかもわからない。
気付けば二人に引きずられ、またベッドに寝かされることになった……。
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