第102話 魔王の戦い
「――では、行くぞ。ついてこい、人間たちよ」
イリスの声に、埃っぽい城の空気が震えた。
その声には、私が今まで聞いたことのない威厳が込められている。
シャルが窓に駆け寄り、外を覗き込む。彼女の赤い髪が、夜の闇に映える。
「うわ……デカっ! あれヤバくない!?」
私も窓際まで歩み寄り、外を見た。
粘性のある空気が、動くたびに肌に張り付くような感覚を残す。
そこには――人型の巨大な魔物が立っていた。
全身が黒いクリスタルで覆われた、その姿は優に100メートルはあるだろう。
建物の10階分くらい……? いや、もっとあるかもしれない。
空に浮かぶ3つの赤い月を背景に、まるで暗い影絵のように聳え立っている。
その存在感は圧倒的で、見上げているだけで首が痛くなる。
表面にはクリスタルが不規則に生えており、それが月明かりを反射して無数の赤い光を放っている。
その姿はどこか神々しささえ感じさせた。
まるで古い絵本に出てくる巨人のような……。
「クロムウェルの刺客のようだな。我の封印が解かれたことを察したのだろう」
イリスが小さく笑う。
その表情には、まるで子供の悪戯を見るような余裕が浮かんでいた。
銀色の髪が、城内を漂う埃っぽい空気の中でも輝いている。
しかし、封印が解かれたことを……?
イリスの封印が解けたのは結構最近なのだろうか。
「ねえ! 逃げたほうがいいんじゃない?」
シャルの声が少し震えている。
さすがの彼女も、このサイズは予想外だったようだ。
「心配には及ばぬ。この程度の者なら――」
ドゴォォン!
言葉の途中、巨人が一歩を踏み出す。
地面が大きく揺れ、窓ガラスが軋むような音を立てる。
その振動で、天井から細かな埃が降ってくる。
「っ、くしゅんっ」
巨人はゆっくりと、しかし着実に城に近づいてくる。一歩一歩が重く、その度に大地が震える。
その手には巨大な剣のようなものが握られており、それもまた黒いクリスタルでできているようだった。
剣身が月光を受けて不気味に輝いている。
「見ているがいい。我が容易く片付けてくれる」
イリスが静かに目を閉じる。
彼女のドレスが、風もないのにゆらゆらと揺れ始めた。
生暖かい魔界の空気が、急に冷たく感じられる。
「えぇ!? イリス一人で戦うの!?」
シャルが驚きの声を上げる。その声が響いた瞬間、イリスがシャルを一瞥した。
その目には、今までに見たことのない威厳が宿っていた。
「案ずるな。力が封印されようと我は魔王だぞ」
イリスの言葉と放たれた魔法に、私とシャルは息を呑む。
長い銀髪が宙に舞い上がり、全身から淡い光が漏れ出す。
その光は月の光よりも柔らかく、見ているだけで心が落ち着くような不思議な輝きだった。
部屋中のクリスタルが、イリスに呼応するように輝き始めた。
キィン、キィンと澄んだ音を立てながら、光の強さを増していく。
その光は次第に大きくなり、やがて部屋全体を包み込んでいく。
「見ているがよい。これが、魔王の力」
そう言って、イリスは歌い始めた――。
それは人の声とも、楽器の音とも違う。
まるで澄んだ水晶を指でなぞったような、繊細で透き通った音色。
その声は、城内に満ちたクリスタルと共鳴するように、優しく空気を震わせていく。
「これは……」
シャルが小声で呟く。
彼女の緑の瞳が、部屋中で次々と成長を始めるクリスタルを追いかけている。
クリスタルは、イリスの歌に導かれるように、みるみるうちに大きくなっていく。
壁から生えた結晶が、まるで蔓のように伸び、やがて螺旋を描くように絡み合い始めた。
それは私たちが人間界で見てきた建築物とは全く別物だった。
どちらかというと、それは植物の動きに近いように思える。
クリスタルは互いに呼応し合うように光を放ち、その度に甲高い音を響かせる。イリスの歌に和音を重ねているかのように。
窓の外でも同じことが起きていた。
城の外壁から無数のクリスタルが成長を始め、それは次第に巨大な鎧のような形を作り上げていく。
月明かりを受けて、それは紅色に輝いている。
「驚くな。我が力の一端を見せてやろう」
歌の合間に、イリスがそう告げる。その声には余裕すら感じられた。
しかし、その表情には微かな緊張の色も浮かんでいる。
おそらくこれだけの規模でクリスタルを操るのは、相当な負担がかかるのだろう。
「お城が……変わっていく!」
シャルの声に、イリスは小さく頷いた。
彼女の銀髪が、クリスタルの放つ光を受けて美しく輝いている。
壁から生えたクリスタルは、まるで氷の城のように美しく、しかし冷たい輝きを放っていた。
だが一方、イリスの呼吸は少しずつ荒くなっているように見える。
巨人は、そんな城の様子を高みから見下ろしている。
その姿は相変わらず威圧的で、暗い夜空に浮かぶもう一つの城のようだ。
「グルルルル……」
低い震動音と共に、巨人が剣を構える。
その動きは、大きな体に似合わず滑らかだった。
クリスタルの剣が月明かりを受け、不吉な輝きを放つ。
その光は、私たちの周りのクリスタルとは違う、冷たく鋭い色をしていた。
「くっ……」
イリスの声が途切れる。歌声が止まった瞬間、クリスタルの成長も止まってしまった。
「イリス!?」
シャルが心配そうに声を上げる。私も杖を握り締める。
しかし、イリスは私たちの心配をよそに、再び歌い始めた。
今度の歌声には、先ほどよりも強い力が込められている。
その声に呼応するように、クリスタルの成長が再開する。
まるで氷が張っていくように、結晶が次々と広がっていく。
「下がっていろ。助けなどいらぬ」
イリスの声が響く中、城は完全に姿を変え始めていた。
まるで、クリスタルの要塞とでも言うべき姿に。
――ドォォォン!
轟音が鳴り響く。
最初の一撃は、予想以上に強かった。
巨人の剣が、クリスタルで強化された城壁を打ち砕く。
衝撃で私たちの体が宙に浮くほどの振動が城に走る。
砕け散るクリスタルの破片が、赤い月明かりを受けて無数の光の粒となって降り注ぐ。
「やばっ! 立ってられないって!」
シャルの声が聞こえる。彼女は剣を鞘に戻し、近くの柱に掴まっていた。
私も転びそうになりながら、イリスを見る。
彼女は相変わらず歌い続けている。
その声に導かれ、砕けたクリスタルの城壁が次々と修復されていく。
ガシャガシャという音と共に、クリスタルの破片が宙に浮かび上がり、新たな形を作り始める。時間が巻き戻るかのようだ。
しかし、巨人の攻撃は止まらない。
ドン、ドン、という重い音と共に、次々と剣が振り下ろされる。
その一撃一撃が、城を大きく揺らしていく。
そのたびにイリスは歌声を強め、クリスタルを操って防御を固めていく。
巨人の剣が光を放つたび、イリスの作り出すクリスタルが盾となって迎え撃つ。
金属音とも、氷の砕ける音ともつかない激しい音が、城中に響き渡る。
「すごい……あれだけの力を、イリス一人で」
シャルの声に、私も頷く。でも――
(イリスの呼吸が、荒くなってきてる)
歌い続けるイリスの表情に、疲労の色が見え始めていた。
銀髪が汗で僅かに濡れ、肩が小刻みに震えている。
そして、ついに歌声が途切れた。
その瞬間、クリスタルの動きが止まる。生命力を失ったように、輝きが薄れていく。
「ちょっ! このままじゃ城が!」
シャルの叫び声。私は迷わず杖を掲げる。
(体力回復魔法!)
青白い光がイリスを包み込む。
彼女の体から疲労が消え、背筋が伸びる。瞳に再び力強い光が宿った。
「ふむ……これは見事な回復魔法だな。これなら――!」
イリスの歌声が再び響き渡る。
今度の声には、先ほどまでとは比べものにならない力が込められていた。
クリスタルが一斉に青く輝き、その光は巨人をも包み込んでいく。
イリスの歌声に合わせて、クリスタルが新たな形を作り始める。
今度は防御のためではない。無数の結晶が巨人の周りで渦を巻き、やがて巨大な檻のような形を作り上げていく。
巨人は剣を振るって檻を破壊しようとするが、砕けたクリスタルはすぐに再生し、さらに強固な檻となって巨人を締め付けていく。
「グォォォォ……!」
巨人が苦しげな呻き声を上げる。
その声が城を揺らし、窓ガラスが軋むような音を立てる。
クリスタルの檻は次第に小さくなっていき、巨人の動きを完全に封じ込めていく。
まるで蛹のように、巨人の暗い岩肌のような全身を包み込んでいった。
そして――
「我が力を受けよ。ブラッドメイデン!」
イリスの叫び声と共に、クリスタルの檻が一斉に変形。棘となり内側へと刺さる。
「ガアアアァァ――!」
巨大な破壊音と共に、巨人の体が砕け消えていく。
砕けた剣から、黒いクリスタルの破片が夜空に舞い上がる。
それは、まるで黒い雪のようだった。
勝利の歓喜に沸く間もなく、イリスの体が大きく傾いた。
銀髪が宙に舞い、その姿は一瞬、散りゆく花びらのようだ。
「イリス!」
シャルが駆け寄る。私も慌てて杖を構える。
杖の水晶が、イリスの体を包み込むように淡く光る。
が、イリスは小さく手を上げ、それを制した。その指先が、わずかに震えている。
「心配には及ばぬ……! 少し疲れただけだ。騒ぐな」
そう言いながら、イリスはゆっくりと膝をつく。
その仕草には気品があったが、明らかに体力の限界を感じさせた。
銀髪が汗で濡れ、整った顔立ちにも疲労の色が見える。
魔界の生温かい空気が、彼女の息遣いをより苦しげに感じさせる。
「やはり、今の我では長く戦えないようだな……クソっ」
イリスの声には明らかな苛立ちがあった。以前の自分とのギャップを感じているようだ。
窓の外では、巨人の血の雨と黒いクリスタルの破片がまだ宙を舞っている。
それは赤い月明かりを受けて、不気味な輝きを放っていた。
「イリスの力、すごいね。規模がデカイっていうか」
「……かつての我ならば、歌など必要なかったのだがな。指先一つでこの程度はできたのだ」
口惜しげに呟く声。イリスは立ち上がると、崩れた城壁に目を向けた。
「この城も、少しは修復せねば」
再び歌声が響き始める。
だがその声は先ほどまでとは違い、か細く、力のないものだった。
クリスタルは、その声に呼応してゆっくりと動き始める。
崩れた箇所に向かって這うように伸び、少しずつ城を元の形に戻していく。傷を癒やそうとする生き物のように。
……が、すぐにイリスの歌声が途切れた。彼女の肩が大きく上下し、咳き込む。
その姿は、先ほどまでの威厳ある魔王の面影を感じさせない弱々しいものだ。
(……体力回復魔法)
私は急いで回復魔法を使う。青白い光がイリスの体を包み込んだ。
彼女は背筋を伸ばし、肩を回す。疲れが取れたようだ。
「ふむ……。確かに体力は回復する。だが、今の私には根本的な問題があるようだ」
イリスはため息をつきながら私たちの方を向いた。
その表情には、今までに見たことのない弱々しさが浮かんでいる。
高貴な魔王の仮面が少しずつ剥がれ落ちていく。
「明日からの旅路が思いやられるな、まったく」
「え? そうなの?」
「この程度の刺客一体を倒すのにも苦戦する身では、クロムウェルの城までは到底辿り着けまい」
イリスの言葉に、シャルは少し考え込み、強く首を振る。
「大丈夫だよ! イリスすっごく強いし、あたしもミュウちゃんもいるし!」
「……ふん、人間に励まされるとは。我も落ちぶれたものだ」
自嘲気味に笑うイリスだったが、その目は優しかった。なんか若い子を見るような目だ……。
「よかろう。お前たちの力を当てにさせてもらうぞ」
そう言ってイリスは窓の外を見やる。
3つの赤い月が、相変わらず不気味な光を投げかけている。その光は、彼女の横顔を赤く染めていた。
「今宵は休む。明日からは長い旅路となる、お前たちも休むがいい」
イリスの言葉に、私とシャルは頷いた。
……が、一つ気になる。この崩れかけた城で、一体どこに?
「どこで休んだらいい? ベッドとかある?」
「ああ……こっちだ」
イリスはいくつかの扉を開き、私たちを寝室に導く。
古びた扉は、開くたびに重々しく軋む音を立てる。
寝室に入ると、そこには埃まみれの大きなベッドが2つ。
柱のように伸びたクリスタルの間に、かつての豪奢な調度品が並んでいた。
天蓋付きのベッドは、その生地が埃で灰色に変色している。
……状態異常無効魔法!
それなりのMPを使い、私は自分と、苦笑しているシャルに魔法をかける。
状態異常無効。病気になりづらくなったり毒を無効化したりする魔法。
……つまり、くしゃみが止まる魔法だ。
「ではな。我は他の部屋で寝る。また明日だ」
イリスは部屋を出ていった。その足取りは少しふらついているようだった。
銀髪が揺れ、やがて闇の中に消えていく。
私たちは取り残された寝室で、明日からの旅路に思いを馳せるのだった。
「魔族ってもしかして、埃に忌避感とかないのかな」
「……かも」
あと埃にも思いを馳せるのだった。
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