第100話 魔王の降臨
「はぁっ!」
シャルの剣が、蛾型の魔物の翅を捉えた。
鋭い金属音が響き、半透明の翅が氷のように砕け散る。
破片が地面に落ちる音が、クリスタルの共鳴音と混ざり合う。
だが、その傷は致命的ではなかったようで、魔物は更に苛立たしげな声を上げた。
まるで機械のような感情のない声。
「クッソぉぉぉ……いてぇなぁぁー……」
「あんたらが襲ってきたんでしょーが!」
シャルの剣が再び閃く。今度は胴体に深い傷を負わせ、魔物は重たい音を立てて地面に落ちた。
倒れた魔物の体からは、腐った果実のような甘ったるい匂いが漂う。
シャルの動きは鋭く、スピードも衰えていない。
私の体力回復魔法で万全の状態を保てている。
しかし、倒れた一体の後ろから、新たな魔物の群れが次々と現れる。
翅の羽ばたく音が、暗い空気を震わせる。
「もう、湧いてくるの早すぎでしょ!」
シャルの声には焦りはないが、いつもの余裕は消えていた。
周囲を見回すと、既に十体以上の魔物が私たちを取り囲んでいた。
クリスタルの不気味な光に照らされた翅は、まるで毒々しいステンドグラスのように輝いている。
「ふざけんなよ……」
「なんでこんなことに……」
「腹立つ……嘘だろ……」
魔物たちの不満げな呟きが重なり合い、異様な合唱のように響く。
その声は人間のようでいて人間ではなく、聞いているだけで寒気が走る。低く唸るような声が、胸に響いてくる。
「くっ!」
シャルが一瞬の隙を突かれ、腕に傷を負う。
鋭い結晶が彼女の肌を引き裂いた音が、私の耳を刺す。
赤い血が滴り、その匂いが魔界の淀んだ空気に混ざっていく。
(小回復魔法!)
私は即座に回復魔法を発動させた。青白い光がシャルを包み込み、傷が瞬時に塞がっていく。
シャルは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに戦闘態勢に戻った。その表情には安堵の色が浮かぶ。
「ありがと! ちゃんと効くんだね、この世界でも!」
魔物たちも一瞬その光に驚いたように動きを止めた。が、それも束の間。
むしろ、より激しい形相で襲いかかってくる。
暗い空気を切り裂く風切り音が重なり、不協和音のような騒音となる。
「なんだよアレ……」
「気に食わねぇよぉ~……」
「ほんと嫌……」
シャルの剣筋は正確で、動きも冴えわたっている。
彼女の足さばきは軽く、剣の動きにも無駄がない。
傷を負っても私の魔法ですぐに回復し、疲労も感じないはず……なのに、彼女の表情は徐々に真剣さを増していく。
額には汗が浮かび、呼吸が荒くなっている。
(あ……包囲網が、狭まってる……!)
私は杖を強く握り、警戒を強める。冷たい杖の感触が、手のひらに伝わる。
魔物の数が増えすぎて、シャルの剣が届く範囲内に入ってくる敵が多すぎる。
後方からも新たな魔物の群れが現れ始め、私の安全な位置取りが難しくなってきた。
翅の羽ばたく音が四方八方から聞こえ、まるで私たちを取り囲む壁のよう。
「ちょっとー! これじゃどこを守ればいいのかわかんないってー!」
シャルの声には焦りはないが、状況は明らかに不利になりつつあった。
私たちの息遣いが荒くなり、汗が背中を伝う。
倒した魔物は地面に溶けるように消えていくが、新たな魔物がすぐに現れる。
まるで湧き水のように、途切れることなく現れ続ける敵の群れ。
――そのとき、地面が大きく揺れ始めた。
「え?」
シャルの声が聞こえる。足元から、ゴゴゴという低い振動が伝わってくる。
まるで大きな生き物が目覚めたかのような震動。
魔物たちも一瞬動きを止め、きょろきょろと周囲を見回した。
その人面の表情には、人間のような困惑の色が浮かんでいる。
次の瞬間、私たちの目の前で地面が大きく隆起した。
亀裂が走り、灰色の大地が持ち上がっていく。
砕ける岩の音が響き渡り、土埃が舞い上がる。
「ミュウちゃん、今のうち!」
シャルが私の手を掴み走り出す。彼女の手のひらは温かく、力強い。
魔物たちが混乱している隙を突いての撤退だ。
不規則にクリスタルが立ち並ぶ道を、全力で駆けていく。
足元の苔を踏むたびに、赤く変色していく地面が後ろに残されていく。
しかし――。
「あ」
シャルの声が途切れる。私たちの行く手を遮るように、深い谷が口を開けていた。
底が見えないほどの深さで、かすかに赤い光が漂っている。
背後では魔物たちの羽音が近づいている。翅が空気を切り裂く音が、次第に大きくなる。
私たちは完全に追い詰められていた。
「ミュウちゃん、悪いけど後ろに立ってて!」
「!?」
シャルが私を庇うように立ち、剣を構える。彼女の背中から、筋肉の緊張が伝わってくる。
服地越しに伝わる体温が、この状況で唯一の安心材料だった。
魔物たちの羽音が次第に大きくなり、私たちを取り囲むように近づいてくる。
甲高い羽音と共に、不平不満の声が重なり合う。
(た、たしかに囲まれづらいかもしれないけど……でも、下は……)
私は後ろの崖を振り返る。深い闇の底から、不気味な赤い光が漂っている。
まるで大きな生き物の瞳のようで、見つめられているような錯覚を覚える。
崖から吹き上げる風が、私たちの髪をなびかせる。
そのとき突如、耳に届いたのは――歌声だった。
「……!?」
シャルも驚いて顔を上げる。彼女の赤い髪が、風に揺れる。
透明感のある、美しい歌声。
魔界の淀んだ空気を切り裂くように、澄んだ声が響いてくる。
その声は、まるで水晶のベルを鳴らしているかのよう。聞いているだけで心が洗われていく。
するとそれまで私たちを追い詰めていた魔物たちが、一斉に動きを止めた。
翅の羽ばたきが乱れ、空中で停滞する。
「この声……ギイィィッ!」
「ケェェェ……」
魔物たちの呟きが変化する。
さっきまでの人の声が消え、より魔物らしい威嚇するような音に変わる。
それは動物の悲鳴のようで、どこか苦しそうだった。
クリスタルが反応するように、淡く光を放ち始める。
その光は波紋のように広がり、まるで道を示すかのように連なっていく。
それぞれのクリスタルが共鳴し、キィン、キィンという音を奏でる。
歌声は魔物たちを苦しめ、この異界の空気そのものを浄化するかのようだった。
私の中の不安も、少しずつ和らいでいく。
「きれい……」
シャルの手から力が抜けかける。その剣先が、僅かに下がる。
まるで魔法にかけられたように、彼女の表情が柔らかくなっていく。
私も思わず目を閉じそうになる。歌声には、心を落ち着かせる不思議な力があった。おそらく本当に魔法によるものなんだろう。
その声は心の奥まで染み渡り、緊張を解きほぐしていく。
クリスタルの光は、まるで星座のように繋がり、私たちの行くべき道を照らし出す。
それは崖に沿って伸びる細い山道を示していた。先ほどまでは暗くて気づかなかった道。
「ミュウちゃん、あれ……!」
シャルが指を差す。歌声の方向に目を向けると、建物らしきものが見える。
尖塔のような建造物が、紫がかった空に浮かぶ三つの月を背景に浮かび上がっていた。
「あそこ、行ってみる……?」
周囲の魔物たちは苦しんだ挙げ句、どこかに飛び去ってしまった。
翅の羽ばたく音が、次第に遠ざかっていく。
「……うん。道、わかんないし……」
私は小さく頷く。他に選択肢もないし、この歌声には何か惹かれるものがある。
息を呑むような美しい歌声は、まだ続いていた。
それは私たちを誘うように、時に強く、時に優しく響いてくる。
まるで子守唄のような安らぎと、オペラのような壮大さが混ざり合った声。
クリスタルの光に照らされた道は、まるで天の川のように美しく輝いていた。
その光は淡く揺らめき、私たちの足元を優しく照らす。
シャルと顔を見合わせ、私たちはゆっくりと歩き始める。
足下の苔を踏むたび、赤く変色していく。でも今はそれすら、不思議と気にならない。
クリスタルの輝きと歌声に導かれ、私たちは細い山道を登っていく。
歌声は次第に大きくなり、その透明感はより鮮明になっていった。
シャルは剣を鞘に収めていたが、その手はまだ柄に添えられたまま。
さすがに状況が状況だけあって、彼女も警戒しているみたいだった。
やがて道は開け、私たちは小さな広場のような場所に出た。
そこには、一人の女性がいた。
「よく来たな」
赤色の月光を背に佇む女性。おそらくシャルより少し年上くらい。
月の光を受けた赤い輪郭は、まるで幻のよう。
まず目に飛び込んでくるのは、その銀色の髪。光を纏ったかのように輝いている。
長い髪は腰まで届き、所々で小さな三つ編みにされ、青い宝石の飾りで留められていた。
肌は透き通るように白く、儚げな印象を与える。だが、その紅色の瞳には強い意志が宿っていた。
瞳の色は血のように鮮やかで、空の月を思わせる。
薄紫のドレスは、裾に向かって暗い色に変化していく。
胸元と袖口には、クリスタルを模したような装飾が施されている。
おそらく、かなりのお金持ち……なんだろうか。貴族とか、王族のような雰囲気だ。
彼女の周りには、淡い光の粒子が漂っていた。先ほどの歌の魔法の名残らしい。
その光は、彼女の銀髪をより一層輝かせていた。
「我の歌を聴いて来た……ということは、少なくとも邪心を持つ者ではないらしい」
彼女の声は、歌声と同じように澄んでいる。それでいて、どこか遥か上から見下ろすような響きがあった。
話す時の仕草は優雅で尊大。偉い人なんだろうか……。
つまり、コミュ障的には苦手なタイプと見た。警戒レベルアップ!
周囲のクリスタルが、彼女の言葉に呼応するように淡く光を放つ。共鳴音が響く。
「えーと、あなたは……?」
シャルが一歩前に出る。その声には警戒心が残っているが、敵意はない。
「我の名は、イリス」
イリスと名乗った少女は、小さく会釈する。その仕草は宮廷で育った貴族のよう。
ドレスの裾が、風に揺れて小さな音を立てる。
「イリスか、よろしくね! あたしはシャル。こっちはミュウちゃんだよ」
「ほう、名を持つ者か……なれば高名な魔族なのか? その割には……」
イリスの言葉と品定めするような目に、私は少し身を縮める。高名な魔族……?
そうしてしばらく私たちを見続けていたイリスは、急に目を見開く。
彼女の瞳に映る赤い光が、一瞬強くなった。
「……お主ら、よもや人間か!」
そう言って、イリスは私たちに近づいてきた。
その足音は驚くほど軽く、まるで地面に触れていないかのよう。
彼女が歩くたびに、ドレスの裾が優雅に揺れる。
「人間かって……え? じゃああなたは?」
そんなシャルの問いかけに、イリスは唇を歪める。腰に手を当て、胸を張る。
「我か? 我は『魔王』。魔王イリスである……!」
「えっ?」
「……!?」
「ま……魔王ー!?」
シャルの驚きの声がこだまし、クリスタルを揺らした。
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