天使の誘惑
「───あ、雑誌、読んでる途中だった」
三人組の男に絡まれたり、見知らぬ不思議なぼーやに話しかけられたりとイベントが続いたせいで、手に持つ雑誌を読んでいたという事を漸く思い出した。
もう一度読んでいたページまでパラパラと捲り、文字を目で追う。
が、先程出会ったぼーやの事が気になってしまい、内容が全く頭に入ってこない。
何度も読み返しているせいで、おねえさんは書かれた内容など読み返さずとも覚えてしまっている。
────かなりの魔力を消費するため、並大抵の魔導師では扱えない、無から自然現象を起こす魔法、自然魔法。その一種である風魔法を容易く操る魔導師がサムエルという街の魔導師ギルドに在籍している。その風魔導師には名前が無いため『風神』と呼ばれている。───
おねえさんは奴隷として売られる以前、とある村に暮らしていた。
その村では『風神』と呼ばれる現人神を信仰していた。
村は閉鎖的で多くの時間をその風神と過ごし、心を救われてきた。
おねえさんが村で暮らす事が難しくなった際、出奔の手助けをしたのも風神だった。
いつかまた、彼に会いたいと願いながら村を出た少女はその後すぐに奴隷にされるため捕まえられ、十年近く使役される。
そこでの生活の酷さは、もう一度風神に会いたいという願いをさらに大きくさせた。
奴隷として使役されていたのその場所は、神殿を作っていたが政府の介入で主人の夢半ば、取り壊しとなった。
どうしてそうなったかの経緯は村より外の知識がないおねえさんには分からなかったが、それをきっかけに沢山の奴隷達が解放され、おねえさんもその恩恵を受けた。
そして、胸の中で燻っていた想いを抱き、ただ会いたいという想いのままに歩き続けた。
道中拾ったこの雑誌に載っていた『風神』という文字を知り、おねえさんはサムエルまでやってきた。
その風神が所属しているという魔導師ギルドは。
────天使の誘惑
その天使の誘惑という魔導師ギルドが、サムエルのどこに構えているのかも知らないが、とにかく歩くしかない。
──────────
「アンタ奴隷だろう?そんなヤツが入るギルドなんて無いよ、主人に怒られる前に帰りな!」
髪を全て一緒くたにして、頭の頂点で結い上げた、ふくよかな婦人はおねえさんへ、手をしっしっとはらって追い出す。
場所は変わり、ここはサムエルのギルド案内所。
ここに来ればサムエルに存在するギルドの情報や、自分がどのギルドに合っているか見てもらえる。
しかし、ここの受付である婦人は、おねえさんの格好を見るなり碌に話も聞こうとせず、現在に至る。
おねえさんはもう奴隷では無くなったと訴えるが、何度も追い返されている。
未だに外すことのできない首輪は、呪いのようにおねえさんを苦しめる。
「お嬢さん、お困りみたいですね」
入口の受付で門前払いを受け、それ以上入ることも出来ず立ち尽くしていると、おねえさんより少しだけ高い位置から声が聞こえる。
そちらを見れば、膝より長い丈の黒いコートに身を包んだ、色素の薄い髪をハーフアップにした男。
「はい。ギルドに入りたいんですけど、話も聞いてくれなくて」
物腰柔らかく話しかけてきた男だが、眉を下げて悲しげに俯くおねえさんを見て、手を口にあてがう。
「失礼ですが、お嬢さん。その、奴隷は主人の許しが無くてはギルドに入る事は難しいかと。」
言葉をオブラートに包もうとしたのか、男は少し言葉を遅らせながら頭を働かせて話す。
「だから、私はもう奴隷じゃないんです!」
男も格好だけで奴隷だと身分を決めつけることに、おねえさんは深い緑の瞳を吊り上げて怒る。
「そうなのですか?少し、その首輪を見せてもらっても?」
男はおねえさんに確認をとると、首輪にぶら下がった一つの鎖を手に取って、眺める。
奴隷は足や手、首等に枷をつけられた際、それを繋ぐ一番目の鎖に主人へ従事する旨の契約魔法を刻まれる。
男はきっと、それを確認しているのであろう。
「───本当だ。契約の刻印は魔力を発していない。これは実に都合がいい。」
見ただけでなく、男は契約の刻印にある魔力の流れを視た。
そして、微笑む。
おねえさんは何が都合いいのかと、首を傾げる。
「ああ、そういえば。貴女はどこのギルドに入りたいか、もう決めていたりしますか?」
おねえさんの疑問には答える気など無いのだろうか、さらに彼女へ質問をする。
「魔導師ギルドなんですけど、天使の誘惑って言って」
「君、魔法が使えるのか!?」
おずおずとギルドの名前を出すと、男は食い気味で魔法が出来ることに驚き、尋ねた。
あまりにも突然の反応に、おねえさんは少しの間フリーズしてしまうがすぐ我にかえり、こくこくと頭を縦に振って頷く。
男はまた、手を口元にあてがうと黙り込んで何かを考える。
数秒の沈黙を気まずく感じ、おねえさんはギルド案内所の天井を見上げたり、内装を見たり、そわそわと視線をあちこちへ飛ばす。
「あぁ、なんて喜ばしいんだろう。俺は天使の誘惑の魔導師なんだ。ほら、紋章もここに。」
考え事が終わるなり、男はもう一度物腰の柔らかい態度と笑顔を浮かべる。
そして、コートの中のインナーをたくし上げると、右脇腹に天使の誘惑のギルド紋章が刻まれていた。
「えっ、えっ、そんな!私も天使の誘惑の方とは知らなくて、すみませんっ。」
突然目の前に舞い降りた幸運に、おねえさんはひととき言葉を失う。
そしてすぐさま今までの言動を振り返り、天使の誘惑の魔導師とは気が付かなかった事に頭を下げる。
突然畏まるおねえさんの態度に驚いた男は、眉を下げて笑い飛ばす。
「気にしなくていいですよ!そうだ、俺はシュベロって言います。ギルドまで私の船で送りますので、色々と話を聞かせてください。」
少し遅れた自己紹介をするシュベロに、おねえさんはもう一度頭を下げた。
「私はカンナって言います!ぜひ、お願いします!」
さっそく、彼女が探し求める『風神』の手がかりである天使の誘惑への道が明るくなり、おねえさんはニヤけた表情を頭を下げて隠した。
──────────
「やっぱり君はツキビト族なんだね!」
はじめは敬語で話していたシュベロも、おねえさんと会話するうちに、自然と砕けた口調になっていった。
シュベロが案内した船とは、魔法によって空を飛ぶ舟のことだった。
内装は高級ホテルの一室を思わせるような絵画やソファなどの家具、足で踏む絨毯でさえおねえさんが今まで使っていた布団よりもふかふかしており、かなり豪奢なつくりとなった空間で、二人は会話をしていた。
勿論、おねえさんはこのような豪華絢爛の場に居合わせたことが無いため、乗船直後は緊張と期待でガチガチになっていたが、シュベロの巧みな話術によって自然な笑顔が溢れるほどに打ち解けていた。
その会話のなかで、シュベロはおねえさんの鮮やかな緑の髪、両の横髪を縛った特徴的な髪型から、彼女がツキビト族ではないかと推察し、尋ねた。
おねえさんも、自身がツキビト族の産まれであることを隠しているわけではないため肯定として頷き、正解した事への喜びなのか、シュベロが無邪気な笑顔を浮かべて、現在。
「でも不用心じゃないかな。君たち希少なツキビト族を捕まえて金にしてやろうって考えを持つような悪いヤツも居るのにどうして隠さないんだ?」
ツキビト族であることを隠そうとしない髪型、そして、尋ねられて素直に肯定するその態度。
おねえさんのそのあまりの不用心さに、シュベロは呆れたように眉を下げる。
そこで、シュベロは机に置かれたワインが入ったグラスを手に取り、口の中へ流し込む。
おねえさんもシュベロの言葉に村を出てすぐの事を思い出した。
まだ手足が短い時、ツキビト族の村を飛び出る形で外の世界に出た。
それまで村から一度も出たことがなく、外がどのようなところで、また外の人間達がツキビト族にどのような思いを抱いているかなど知らなかった。
無知で、希少価値のある少女が騙され、奴隷として売り飛ばされるのに時間はかからなかった。
その日以来外すことが出来なくなった首輪。
「横髪は、私達が信仰するかみさまへの想いの現れです。なので、これはどのような状況にあっても変えられません。簡単に肯定してしまったのは、シュベロさんだから、ですかね。」
横髪を縛った髪型に込められた想い。それはこれから会えるかもしれない『風神』へのものだ。これは、おねえさんに限らずツキビト族皆が抱いている。
普段ならば、ここまでありのままを喋る性質ではなかったおねえさんだが、これから風神に会えるという喜びで舞い上がっているためか、尋ねられた事に全て調子よく答えてしまう。
それがなんだか恥ずかしくて、今度はおねえさんがシュベロへと質問する。
「そういえば、シュベロさんは、どうして首輪に魔法が刻まれてることを知っていたんですか?」
ギルド案内所でのこと。
おねえさんは、首輪の一番目の鎖に、契約の刻印があることなど話してもいないのに、シュベロは知っていたかのように迷わずその鎖を確認した。
改めて自身の首輪について想いを馳せると、先程のその行為が疑問となって返ってきた。
「ああ、それはね。」
ぐにゃり。
まさに、その言葉がそのまま可視化したかのような世界。
唐突に、世界の色は、色が混ぜられたパレットのように、ぐちゃぐちゃと歪む。
頭痛が襲ってくる、ような気がするのに、意識はぼうっとして、気持ちがいい。
まるで眠りに入る前の、暖かな繭に包まれているようでいて、胃の奥は悪心を覚えるほどに気持ちが悪い。
「ぁ、うぁ─────」
言葉にもならない、ただ母音を喉の奥から出すのみで、虚ろな瞳を閉じて、おねえさんは柔らかなソファへ倒れ込む。
「俺が、ツキビトみたいな珍しい奴らを売り飛ばす、悪いヤツだからだよ。」
シュベロの悪意に満ちたその返答を聞くまで、おねえさんは意識を保つ事が出来なかった。