おねえさん
高い高い青空、そんな景色に映える赤レンガの街並み、がたがたと進む馬車、豪奢なドレスの女やシルクのタキシードに身を包む男、声をあげて客を呼び込む店主たち。
賑やかで明るい、人、人、人。
ここはヨハン王国の街、『サムエル』
豊富な店の種類だけでなく、ギルドと呼ばれる総合職業案内施設も多数存在し、サムエル内外の人で賑わう大きな街。
このような明るい街を裸足で歩く、一人の少女が居た。
齢は十八ほどだが、灰を被ったような薄汚れたワンピース一枚に、首元には決して外れる事のない鋼鉄製の首輪。
しかし、彼女の髪はこの街の木々よりも鮮やかな緑をしていた。
「たぶんここがサムエルだと思うけど」
靴すら履いていない少女は立ち止まり、唯一の持ち物である雑誌をパラパラと捲った。
道中拾ったその雑誌を、この街に来るまでに何度も何度も読み返したせいで、かなりボロボロになってしまった。
彼女が目で追う内容は、一人の魔導師について。
『前代未聞の風魔導師、風神現る』
───魔法とは偉大でありながら、身近なものです。それは貴方達の生活を助けてもいるし、困らせることもあるでしょう。魔法によって知識を広げる者、生活の幅を広げる者、力を誇示するもの、秩序を正す者、秩序を乱す者。様々な種族が暮らすこの国では、当然のようにそれぞれの思考によって使役される魔法です。さて、魔法といっても常人ではろくに扱う事も出来ないものがありますが、それらはどのようなカテゴリーに属するでしょうか?そうです、無から自然現象を産み出す、『自然魔法』とよばれる─────
「ねぇ、君さ、こんなとこで何してるの?」
壁に体重を預け、もう何度目か分からない冒頭を読んでいると、突然話しかけられる。
視線を直ぐに上げ、声の主を確認する。
少女には見覚えもない、男の三人組だった。
「邪魔でしたか?すみません、場所を変えるので──。」
さすがに道端で読むのはまずかったか、と退散するために少女は踵を返す。が。
「違う違う、そんな酷い事は言わないよ。たださ、なんか暇そ〜だったから、良かったら俺たちと暇を潰さない?って。」
少女の手首を掴み、独りでにぺらぺらと語り出す。
乱暴に引き止めているわけでもなく、暴言をはいているわけでもないが、その三人の笑みはなんとも言えない不快感を少女に与える。
「ごめんなさい、私、その。人を探してるので。」
少女が掴まれた手首を引く抜くように軽く力を入れるが、逃がすまいとさらに強く握られる。
「だからさ、探してるご主人様に会う前に俺たちの相手をしてけよって言ってんだよ、奴隷のおねえさん。」
取り繕ったような笑みの上から、思い通りにならない苛立ちを顔に乗せた男はさらに少女へ詰め寄る。
髪色と同じ、萌える葉のように鮮やかな瞳を揺らした少女は、今の自身の格好を振り返りそう見えても仕方ないと納得する。
みすぼらしいぼろぼろの服に、土で汚れ硬くなった足、忌々しい首輪。
どれもがあの場所から逃げ仰せた時のままなのだ。
「分かりました。」
諦めたのか、少女は声を落として抵抗をやめる。
少女はただただ、弱さとは虐げられるものだと唇を噛んだ。
「私は、なんて弱い」
ぽつりと独りごちる彼女の言葉など、誰も聞いていない。
ただ男は手首を離し、その厚い掌を少女の肩に乗せて路地裏へ誘導する。
促されるまま路地裏の奥へ進むと、建物に遮られ暗く、ひんやりとした場所で男たちは立ち止まった。
少女もそこで立ち止まり、ワンピースの裾を自らの手でゆっくりとたくし上げ、白い脚を晒していく。
男たちは何だ、嫌がっておいて乗り気じゃないか、など思い思いに、それも自分たちに都合の良い解釈を垂れる。
「弱いから。これに頼って抵抗する事を許してください。」
少女は太ももにつけた黒いベルトを顕にする。
そこには、剣のない刀の柄だけが装備されていた。
今度ははっきりと聞こえた少女の言葉に、諦めたのは態度だけで、抵抗する意思は潰えていないことに警戒するが、肝心の刃が無い柄を見て思考を止める。
「───はっ、それで一体何をするつもりだ」
一人の男が鼻で笑い、指をさした。
素早く身をよじり、肩を抱いていた男の領域から離れ、柄を手に取り左足を後ろに下げ、そのまま柄をもった右手を男たちに突きつける。
一瞬にして隙のない姿勢と間合いを作った少女は、かなり戦闘慣れしている事が伺える。
「面倒だ、三人で囲んで大人しくさせるぞ」
少女へ積極的に話しかけていた男は、後ろに控えているだけだった二人にそう告げる。
そして言葉通り、二人は左右へ分かれ、同時に動くことで緊張感を与えながら、少女を囲い込むことに成功する。
「手を貸して────天地芸術」
男三人に囲まれるのをそのまま見届けるなり、少女は目を閉じて祈る。
そして、何かを呟いたと男たちが認識した途端、彼女の周囲に幻想的な淡い緑色の粒子が漂い始める。
男たちは理解した。
この粒子は魔法を使役する際に可視化する魔素であることを。
そして、彼女が呟いた言葉は詠唱の第一節であることを。
「まずい──ッ!」
少女が詠唱を唱え切る前であれば、なんとかなる。しかし、唱え切られてしまえばどうなるか分からない。
男達による三方位からの悪意。それに堕ちるが早いか、唱えるが早いか。
ふと、優しい風が四人の間をすりぬけた。
「"風"」
少女は口元を綻ばせて、柄だけの刀を握りなおした。
そこには、先程まで無かったはずの刃が現れる。
詠唱を終えられたこと、武器を手にされたこと、それらを理解しても、脊髄で飛び出した身体を止める術は無かった。
ただ慣性の法則のままに、彼女のもとへ飛び込んだ三人は、風の刃の応酬で舞うように身体を回転させ肉を刻まれる。
男たちの悲鳴、枯れた声が空へ響く。
いくら身を守るとはいえ、やりすぎたかもしれない、と少女は足を止めて男たちから距離を置く。
「てめぇっ、奴隷の分際で、お前の主人を突き止めて、金を、払わせて、やるッ」
膝をついて痛みに背を丸める一人の男が、息を切らしながら彼女に呪詛を吐く。
致命傷になるほど深くは与えていないが、ここに立ち止まっているとまずい。どちらが被害者だったのか分からない状態になってしまっているからだ。
路地裏で幸いだったと、少女は周りに視線が無いことを確認すると、男へ口を開いた。
「ごめんなさい、それも叶わないと思うわ」
柄から伸びた風の刃は魔素へと戻り、空中で溶ける。そして刀をまたワンピースの裾の中へと隠すなり、少女は男にそう言って立ち去った。
少女は、もう主人などに捕らわれる奴隷では無くなったのだ。
彼女は片手に雑誌を握りしめたまま、自身の行きたい方向へ足を伸ばす。
逃げるように立ち去る足取りは、軽い。暗くて寒くて湿っぽい路地裏の地面を、足の裏で感じ取る。
しかし、目の前には明るい街並みの光が満ちている。
「おねえさん」
路地裏を抜けて呼吸を整える少女に、呼び止める声が背後から投げかけられた。