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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

BL

夏休み

作者: 相沢ごはん

pixivにも同様の文章を投稿しております。


(ゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります)

 小学校二年生の七月、おかあさんに連れて行かれたのは、知らないおじさんの家だった。

「種。今年の夏休みは、ここで過ごすのよ」

 と、おかあさんは言った。ぼくは、

「うん」

 とうなずいた。おかあさんといっしょに、ここで夏を過ごすのだと思ったからだ。こういうことは珍しくなかった。おかあさんは家政婦兼介護士のお仕事をしているので、派遣された家が、ぼくたちの家から遠い時は、ぼくもいっしょにその家に行くことが時々あったのだ。うちにはおとうさんがいないので、派遣先の家のひとの「ごこうい」でそういうことを許してもらっていた。だから、今回もそういうことなのだと、ぼくは思ったのだ。なのにおかあさんは、

「じゃあ、あめちゃん。よろしくね」

 と、おじさんに言って、ぼくには、

「じゃあね、種」

 と笑顔で手を振って行ってしまった。

 なにかの冗談かな、と思ったのだけれど、おかあさんは、通りの先でタクシーを拾い、それに乗って、本当の本当に行ってしまった。ぼくはどうしたらいいのかわからなくて、目の前のおじさんの顔を見上げた。おじさんは、ぼくを見てはいなかった。おじさんは、おかあさんがタクシーを拾った通りのほうを、ぼけっとした顔で見ていた。

「あいかわらず、勝手だなー」

 おじさんは、そう呟いた。そして、初めてぼくの顔を見た。とろんと眠たそうなタレ目を細めて、

「あんまり似てないね」

 おじさんは言った。おかあさんとぼくのことだとわかった。

 ぼくは、おかあさんの本当の子どもではない。おかあさんの友達の子どもだった。だけど、ぼくを産んだほうのおかあさんは、ぼくを産んですぐに死んでしまった。おかあさんには、身寄りがなかった。どちらのおかあさんにも。おかあさんも、ぼくを産んだおかあさんも、施設で育ったそうだ。本当なら、ぼくも施設に行くはずだった。だけど、おかあさんがぼくを育ててくれた。養子手続きというのは難しくていろいろと条件があるらしく、おかあさんは、ぼくの里親ということになっている。だから、ぼくの名字とおかあさんの名字は、実は違うのだ。だけど、ややこしいので小学校では、ぼくはおかあさんの名字を名乗っていた。先生も、そうしたほうがいいと言っていた。そういうこともあって、ぼくは「おかあさんと似ていない」と言われることが、とても嫌だった。

「いけないことですか」

 ぼくはおじさんに言った。

「うん?」

 と言って、おじさんはぼくを見下ろし、少し首をかたむけた。それから、「ああ」と納得したように言った。「ちがう、ちがう」と。

「雪美姉ちゃんとあんまり似てないなって思ったの。どっちかって言ったら、若葉姉ちゃんのほうに似てるから、おもしろいなーと思って」

「おじさんは、ぼくのおかあさんたちの知り合い?」

 ぼくは、少し警戒を解いて聞いた。雪美というのは、ぼくを産んだおかあさんの名前で、若葉というのは、ぼくを育ててくれたおかあさんの名前だ。おじさんはぼくとおかあさんたちの関係を詳しく知っているみたいだった。そして、どうやら、ぼくと若葉おかあさんが似ていると言ってくれているようだった。

「うん、友達。みんな、いっしょに育ったんだよ。姉弟みたいなもんだね」

 おじさんは言った。

「ていうかさ、僕おじさんじゃないんだけど」

 そう言って、おじさんは、初めて笑った。


「あめちゃん」

 おじさんじゃないと言われたので、さっきおかあさんが呼んでいたみたいに呼んでみた。

「うん?」

 テーブルに麦茶の入ったコップを置きながら、あめちゃんは少し笑ってぼくを見た。あめちゃんは、笑うと目が細くなって、タレ目がますます下がる。あめちゃんの、さらさらした茶色い髪の毛が、開け放しになっている窓から入ってきた風に少しゆれた。その窓は、窓というよりもガラスのドアみたいで、庭に直接下りられるようになっている。あめちゃんの家には、庭があるのだ。あめちゃんの家は二階がなかったけれど、でもちゃんとした家で、ぼくとおかあさんの住んでいるアパートよりも、ずっとちゃんと家らしかった。窓を開けていればそれだけでじゅうぶん涼しい。畳の敷いてある居間に、あめちゃんはぼくを通してくれた。最初は正座をしていたのだけれど、しんどくなって、すぐに崩してしまった。あめちゃんはなにも言わない。

「おかあさんは、どこへ行ったの?」

 そう聞くと、

「え、聞いてないの?」

 あめちゃんは驚いたような声を上げた。

「おかあさんは、そういう連絡をしょっちゅう忘れるんだ」

 ぼくが言うと、あめちゃんは納得したように笑った。

「ああ、言ったつもりになっちゃってんだね」

 そして、

「おかあさんは、合宿に行ったんだよ」

 と教えてくれた。

「がっしゅく?」

 聞きなれない言葉だった。

「泊まり込みで、自動車の運転免許証を取りに行ったの」

「それ、何日もかかるの?」

「んーと、二週間くらいかな。だけど、おかあさんの運転が上手じゃなかったら、もうちょっとかかるね」

「そっか」

 ぼくは、納得した。運転免許証を取るのは時間がかかる。だから、その間、ぼくを友達に預けることにしたのだ。納得したところで、目の前のひとのことを知りたくなってきた。

「あめちゃんは、何歳?」

「種くんのおかあさんの八つ下だよ。二十二歳」

 おかあさんの八つ下、ぼくよりも十四こ上、と頭の中で計算する。

「もしかして、ぼくのおとうさんになる?」

 思い付いて、そう聞いてみた。ぶほっと音をさせて、あめちゃんが麦茶を吹いた。

「なんで?」

「ちがうの?」

「その予定はないよ」

 そう言って、あめちゃんは、手の甲で口許を拭った。それを見ながら、ぼくも麦茶を飲む。

「種くん、夏休みの宿題持ってきた?」

 あめちゃんが言う。

「持ってきた」

「じゃあ、明日いっしょにやろっか」

「あめちゃんも宿題があるの?」

「たくさんあるよー」

「大人なのに?」

「うん。大人なのにね」

 あめちゃんは、おかしそうに笑った。

 その夜、あめちゃんはお好み焼きを食べに連れて行ってくれた。あめちゃんは、大人なのでビールを飲んだ。ぼくにはオレンジジュースを頼んでくれた。ぼくは本当はコーラが飲みたかったのだけど、言えなかった。

 あめちゃんの家のお風呂は、きれいな青や水色のタイルが貼ってあって、なんだか小さな銭湯みたいでわくわくした。「いっしょに入ろうか」と、あめちゃんに言われたけれど、ぼくはもうひとりでお風呂に入れるので、そう言って断った。クラスの友だちの中には、まだおかあさんとお風呂に入っているひともいる。だけど、ぼくはもうひとりで入れるのだ。

 ぼくは居間に布団を敷いてもらって眠った。あめちゃんは自分の部屋で眠った。ぼくはいつもおかあさんと同じ部屋で眠っていたので、少し寂しかった。


 次の日、ぼくは六時に起きて布団をたたみ、顔を洗って歯をみがいた。パジャマを着替えて、それから六時半には庭に下りて、持ってきた携帯ラジオでラジオ体操をした。ハンコを捺してくれるひとがいないので、自分でラジオ体操カードの今日のところに鉛筆でまるを描いた。

 あめちゃんの朝は遅かった。あめちゃんが起きてきたのは、九時を過ぎて、すっかり暑くなってからだった。あめちゃんは黒いティーシャツとパンツ一枚という姿で居間に現れた。あめちゃんは会社に行かなくていいのかなあ、と不思議に思う。

「おはよう。種くん、早いね」

「おはよう、あめちゃん」

 あめちゃんは、前髪をゴムでちょんまげみたいに括っていた。あめちゃんは、そのまま顔も洗わず髭も剃らずに、お味噌汁とたまご焼きをふたり分作った。それから炊飯器からお茶碗にごはんをよそってテーブルに置いた。

「いただきます」

 あめちゃんが手を合わせて言った。

「いただきます」

 ぼくも、ひよひよと動くあめちゃんのちょんまげを見ながら同じようにする。

 お味噌汁もたまご焼きも、おかあさんが作るのと同じくらいおいしかった。

「あめちゃんは、料理がじょうずだね」

 ぼくが言うと、

「料理は、できないよりもできたほうがいいからね」

 あめちゃんが言った。おかあさんも、よく同じことを言う。

「女の子にモテるから?」

 ぼくはそう尋ねた。おかあさんが、いつもそう言うからだ。あめちゃんは、ぶほっとお味噌汁を吹いた。

「それ、おかあさんが言うの?」

「うん」

 ぼくがうなずくと、あめちゃんはタレ目を細めて笑った。

「食べるっていうのは、一生のことだからね。だから、自分でおいしいもの作れるひとって、強いんだよ」

 あめちゃんは、そう言った。

「じゃあ、あめちゃんもおかあさんも、給食センターのひとも、強いんだ」

 ぼくが言うと、

「うん、強いよー」

 あめちゃんは力強くうなずいた。ぼくは、女の子になんて別にモテなくたっていいと思っていたから、今までおかあさんの手伝いをあまりしていなかった。だけど、今度からちゃんと手伝うようにしようと思う。ぼくは、強くなりたいから。

 食器を片付け終わったら、もう十時を過ぎていた。

「宿題やろっか」

 あめちゃんが言った。

「うん」

 ぼくは、リュックサックから計算ドリルを出す。

「僕も持ってこよ」

 そう言って、あめちゃんはひたひたと居間を出て行き、しばらくしてちゃんとズボンをはいて戻ってきた。髭もちゃんと剃っている。あめちゃんは、髭がないほうがかわいい顔をしていると思う。茶色い髪の毛も、ちゃんと梳かすとさらさらしてきれいだと思う。あめちゃんは、ごちゃごちゃといろんなものを持ってきた。

「なにそれ」

 ぼくは驚いて尋ねる。

「僕の宿題の道具」

 あめちゃんは言った。

 紙と、鉛筆や見たこともないペンがたくさん刺さったペンたてと、黒や白の小さな瓶。あと、いろんな形をした定規みたいなものや、ペラペラした透明なシート。

「大人の宿題って、こんなにたくさん道具がいるの?」

「大人のっていうか、僕の宿題はね」

 あめちゃんは言った。ぼくは、自分の宿題の道具を見る。鉛筆と消しゴムと計算ドリル。なんだかシンプルだ。

「あ」

 あめちゃんがテーブルに置いたままにしていたぼくのラジオ体操カードを手に取った。

「そっか。種くんはラジオ体操があるんだ」

 あめちゃんが言った。

「このまる、自分で描いたの?」

 ぼくはうなずく。自分でまるを描くなんてズルだと思われないかなと心配になる。

「でも、ちゃんとしたんだよ、ラジオ体操。本当だよ」

「わかってるよ」

 あめちゃんは言った。そして、少し首を傾けて、ペンたてから赤ペンを取り、カードに何かを描き込み始めた。

「なにするの」

 少し慌ててしまう。

「待って。悪いことにはならないから」

 あめちゃんは言う。ぼくは待つしかない。

「はい」

 赤ペンをペンたてに戻し、あめちゃんがぼくに差し出したカード、今日ぼくが描いた鉛筆のまるの中に赤い金魚の絵が描かれていた。

「金魚」

 思わず呟くと、

「うん。ハンコのかわり」

 あめちゃんは言った。

「ありがとう」

 ぼくは言う。

「ありがとう、あめちゃん」

 うれしい気持ちがうわっと身体中にひろがったような気がした。赤い金魚はかわいかった。なんだか急に顔が熱くなって、汗がどっと出た。

「ありがとう、あめちゃん。ありがとう」

「うん。そんなによろこんでもらえるとは思わなかったな」

 あめちゃんは言った。

「ラジオ体操したら、ハンコのかわりに描いてあげるね」

「毎日するよ、ぼく」

 実は、涙も出そうだった。だけど、ぼくはもう二年生なので、泣かないのだ。


 あめちゃんの宿題というのは、漫画を描くことだった。あめちゃんは漫画家らしい。漫画家だから、会社に行かなくてもいいのだ。

 ぼくとあめちゃんは、居間のテーブルで毎日いっしょに宿題をした。

「漫画家って、すごいよね。かっこいい」

 そう言ったぼくに、あめちゃんは、

「でも、人気はないんだ」

 と言った。

 あめちゃんが鉛筆で下描きをしている手もとを覗き込むと、目の大きな女の子が描かれていた。セーラー服を着ていて、おっぱいがまるくて大きい。

「それ、どんな話なの」

「んーとね、普通の男子高校生が可愛い女の子にモテまくる話」

 男の夢だねー、とあめちゃんは言った。

「その男子高校生は、料理ができるの?」

「できないね」

「できないのにモテるの?」

「あのね、種くん。本当にモテる男っていうのは、料理ができなくてもいいんだよ」

「なんで?」

「女の子が作ってくれるから」

「じゃあ、あめちゃんはモテないから、料理を自分で作るの?」

 あめちゃんはタレ目をしょぼしょぼさせてぼくを見た。

「種くん。そんなことを言われたら、僕は悲しくなっちゃうよ」

 あめちゃんは言った。

「ごめんなさい」

 ぼくは素直に謝った。悪いことを言ってしまった。あめちゃんは、きっとモテないんだ。

 お昼になったら、宿題をきっぱりとやめる。ぼくの宿題は午前中だけだ。あめちゃんはお昼からも宿題をすることがある。宿題の道具を一旦片付けたあめちゃんは、汗を流しながらそうめんを茹でる。ぼくは、お皿とめんつゆを用意する。

 お昼ごはんは、毎日そうめんだった。本当に、毎日毎日そうめんなので、だんだん飽きてきたのだけど、せっかく作ってくれるあめちゃんに、そんなことは口が裂けても言えなかった。

 そうめんを食べたあとは、眠くなる。あめちゃんは、また宿題を始める。

 眠ってしまったぼくのお腹に、あめちゃんはバスタオルをかけてくれる。ぼくは本当は起きている。ぼくが眠っていると、あめちゃんは時々、

「やーめた」

と呟いて、ぼくのとなりで自分も横になる。ぼくはそれがうれしいので、眠ったふりをしてあめちゃんがバスタオルをかけてくれるのを待つ。

 ぼくは、寝返りをうって、あめちゃんの身体にくっついてみる。あめちゃんの胸のあたりに顔をくっつけて、すんすんと匂いをかぐ。雨上がりの畑みたいな緑色の匂いがする。あめちゃんはぼくの頭を軽くなでる。

「寂しい? 種くん」

 あめちゃんは小さく言う。別に、寂しいわけではなかったのだけど、ぼくは今は眠っているので、ちがうとも言えない。あめちゃんはまた、ぼくの頭をなでる。あめちゃんは、もしかしたら、ぼくが起きていることに気付いていたのかもしれない。

 ぼくのラジオ体操カードには、毎日、金魚や風鈴や朝顔やかき氷や扇風機の小さな絵が、あめちゃんの手で描かれていった。ぼくは、あめちゃんに絵を描いてほしくて、毎日ラジオ体操をした。

 おかあさんが、初心者マークをつけた黄緑色のレンタカーに乗って迎えにくるまで、ぼくとあめちゃんの毎日は続いたのだ。



 あめちゃんの名前が、田宮雨彦というのだとちゃんと知ったのは、中学に上がってからだ。俺は、あの夏以来、毎年夏休みはあめちゃんの家にお世話になっていた。

 小二の夏、かあさんが迎えにきた最後の日、俺はあめちゃんと別れるのが寂しくて、わあわあ泣いた。

「種くんが泣いたの、初めて見た」

 と、あめちゃんはかあさんに言った。

「滅多に泣かないのよ。あめちゃんちの居心地が、よっぽど良かったんだ」

 かあさんが言った。

「そっかー」

 と、あめちゃんは笑って、

「泣かなくていいよ、種くん。来年もおいで」

 と俺の頭を撫でながら言ってくれた。今になって思うと、俺を泣き止ませるための方便だったのかもしれない。だけど、俺はそれを真に受けた。次の夏休みも、その次の夏休みも、俺はあめちゃんの家に遊びに行ったのだ。

「大きくなったね、種くん」

 と、あめちゃんは毎年言う。だけど、今年は少し違っていた。

「うわっ。種くん、どうしちゃったの!?」

 と俺を見るなり、あめちゃんは言った。中二になってから、俺の身長は急激に伸びた。その夏、俺はとうとうあめちゃんの身長を追い越してしまったのだ。

「うわー、本当に種くん?」

「うん」

「うわー、声まで変わって」

 あめちゃんは、うわーうわーと言いながら、俺を居間に通して、麦茶を出してくれた。

「一年でこんな変わるかな。成長期こわいわー。すっかりかっこよくなっちゃって」

 あめちゃんは、まだ言っている。だけど、さらっと言われた、かっこいいという言葉が、俺の心臓を金魚みたいにびくんと跳ねさせた。

「モテるでしょ、種くん」

 あめちゃんは言った。

「ううん」

 俺は首を横に振る。

「本当? 種くんの学校の女の子たちの目は節穴だね」

 あめちゃんは、確か今年で二十八歳になるはずだ。いくら身長が伸びても、年齢は追いつけない。十四歳の差は、どうしても埋まらない。あめちゃんは、あの夏から俺よりもずっとずっと大人で、それは、これからもずっと変わらない。

 中学に入った頃から俺は、自分のあめちゃんへの気持ちに気付いてしまった。あめちゃんが好き。俺の胸の奥には、あの夏、あめちゃんが描いた金魚が、きっと焼印みたいに捺されている。

「宿題持ってきた?」

 あめちゃんが言う。

「うん」

 俺は頷く。

「じゃあ、明日いっしょにやろうね」

 夏休みに宿題を出されているうちは、まだまだ子どもだ。俺はあめちゃんが飲み干した麦茶のコップを、じっと見る。


 あめちゃんが、ちょっとエッチな漫画を描いていると知ったのも、中学に上がってからだった。エッチな漫画と言っても、性描写があるわけではなく、女の子が下着姿になる程度のものなのだけど、中一だった俺には、とんでもなくショックなことだった。だけど、相変わらず人気は出ないのか、あめちゃんの家にアシスタントのようなひとが出入りする気配はない。そのかわり、去年の夏は俺が手伝った。なぜだかわからないけれど、珍しく忙しかったらしい。その時、目の前に置かれた原稿を見て、あめちゃんの漫画の内容を初めて知ったのだ。

 あめちゃんは、こんな漫画を描いていたのか。俺は、おっぱいの大きな女の子のブラジャーの鉛筆の線を消しゴムで消しながら、思い切り動揺していた。あめちゃんは、いつも、こんなエッチなことを考えていたのか。あめちゃんの頭の中は、こんななのか。女の子のおっぱいが大きいのは、あめちゃんの好みなのだろうか。動揺しすぎて涙が出てきた。原稿を汚してはいけないので、俺は慌てて原稿から離れ、ティッシュの箱を抱えて、めそめそと泣いてしまった。隠れて泣いていたつもりなのに、すぐにあめちゃんに見つかって、あめちゃんをものすごく驚かせた。

「種くん、どうしたの」

 あめちゃんは焦ったように言った。

「あめちゃんの漫画、エッチだ」

 正直にそう言うと、あめちゃんは、

「え」

 と声を上げた。それから、

「ごめん。びっくりしちゃったんだね」

 そう言って、俺の頭をよしよしと撫でた。子ども扱いされている。だけど、仕方がない。女の子の下着姿に驚いて泣いてしまうなんて、子どものすることだ。

「あめちゃんはエッチだ」

 そう言って、俺はめそめそと泣いた。あめちゃんは俺の言葉を否定しなかった。ただ、俺をあやすように頭を撫で続けた。あめちゃんはエッチなんだ、と俺はまた泣いた。


「あめちゃん、漫画忙しい?」

 夜、ごはんを食べながらあめちゃんに聞くと、

「そこそこだねー」

 と返事があった。

「種くん、煮びたしおいしいよ」

「うん」

 茄子の煮びたしは俺が作ったのだ。

「俺、また手伝うよ」

 そう言うと、あめちゃんの動きが止まった。俺の顔をじっと見る。

「大丈夫?」

 あめちゃんが言った。

「僕の漫画、去年よりもちょっとハードになってるよ」

 動揺した。

「種くんには、まだちょっと刺激が強いかもしれない」

「だっ、だいじょうぶ!」

 そのくらい大丈夫にならなければ、大人にはなれないような気がして、俺はこくこくと頷いた。

 ハードになっているという言葉を、俺は下着姿の女の子が全裸になっているくらいにとらえていたのだけれど、実際に目の前に置かれた原稿には、軽く性描写があった。結合部分こそ描かれてはいなかったが、俺は去年以上のショックを受けた。

「う」

 俺は思わず口許を手で押さえる。なにこれ。気持ちわるい。涙が出そうだったけど、去年みたいなことになったら情けないので我慢する。あめちゃんの頭の中はどうなっているんだろう。あめちゃんも、女の人とこういうことをするのだろうか。

「あめちゃんも、こういうことするの?」

「え」

 あめちゃんは手を止めて、驚いたように俺を見た。そして、

「そっか。種くんは、もう中学二年生だもんなあ」

 と言った。こういうことに興味が出てくる年頃だ、と。俺が興味があるのは、あめちゃんがこういうことをするのかどうかということだけなのだけど、そんなことは言えないので黙っていた。

「あめちゃん、彼女いるの?」

「いないよー」

 あめちゃんは、作業に戻って言った。

「エッチなことも、ここ数年はご無沙汰だね」

「ご、ご無沙汰ってことは、したことあるの?」

「うん、あるよ」

 あめちゃんがあっさりと頷いた瞬間、目に涙が盛り上がり、全身にふつふつと鳥肌が立った。そんな俺の様子に気付かないあめちゃんは、「初めてが高三の時で」などと、原稿に視線を落としたまま生々しい話を始めようとする。

 聞きたくない。自分から話題を振っておいてあれだけど、聞きたくない。

「ぐ」

 吐きそうだ。俺は口を押さえ、這いずるようにしてトイレに向かい、げえげえ吐いた。

「大丈夫? 種くん」

 気が付くと、あめちゃんが背中をさすってくれていた。

「ごめんね。まだ早かったね」

「あめちゃん」

 俺は言う。

「あめちゃん、セックス好きなの?」

 俺の質問に、あめちゃんは言葉に詰まったようだった。好きなんだ、と俺はまたショックを受ける。

「あめちゃんのばか! 色魔!」

 言い捨てて、やっぱり我慢できずに俺は泣いてしまった。滅多に泣かないことに定評のあった俺だけど、あめちゃんのことになると情けないくらいに泣いてしまう。

「色魔って、種くん。よくそんな言葉知ってるね」

 あめちゃんは困ったように笑っていた。


 結局、昨日は夜遅くまであめちゃんの漫画を手伝った。無理しなくていいと言われたけれど、あれくらい平気にならないといけない。あの漫画はあめちゃんが描いたのだ。あめちゃんの頭の中から生まれてきたものなのだ。だったら、俺はそれに真正面から向き合いたい。

「だいぶ捗った。ありがとう、種くん」

 と、あめちゃんがうれしそうに言ったので、俺もうれしかった。

 夜更かしをしたせいか、今日は昼にそうめんを食べたあと、すぐに眠たくなってしまった。いつものように昼寝の体勢で横になる。俺は相変わらず眠ったふりをし続けていた。あめちゃんは、俺が中学生になっても、お腹にバスタオルをかけてくれる。だけど、今日は本当に眠ってしまった。

 夕方、目が覚めると、お腹にバスタオルがかけられていて、隣にあめちゃんが眠っていた。俺は起き上がって、自分にかけられていたバスタオルを、あめちゃんのお腹にかける。あめちゃんの茶色い髪の毛を撫でてみた。さらさらと指から逃げるみたいにあめちゃんの髪の毛は落ちていく。

「あめちゃん」

 小さく呼んでみた。

「なあに、種くん」

 あめちゃんは小さく返事をした。

「起きてたの?」

 驚いてあめちゃんの髪の毛から手を離す。

「寝てるよ」

 あめちゃんは目を閉じたまま言った。

「種くんの真似」

 そう言われた瞬間、じわじわっと顔が熱くなった。やっぱり、あめちゃんは俺が起きていることを知っていたのだ。ずっと。

 あめちゃんは目を開けて、横に座る俺の顔を見上げる。

「今日は、甘えてこないの」

 あめちゃんは言った。蝉の声も聞こえない、やけに静かな部屋に、扇風機の回る音だけが響く。

「いつもみたいにしないの」

 いつもみたいに。だって、あれは眠っているていだからこそできたことだ。俺は今、起きている。そんな素面の状態であんなこと、できない。

「しないの」

 あめちゃんは寝転がったまま、俺に向かってゆるく両手を広げた。俺は、おずおずと自分も寝転がり、あめちゃんの胸のあたりに顔をくっつける。あめちゃんが頭を撫でてくれる。

 これは、どういうことなのだろう。子ども扱いされているのか、それとも、もっと別の意味があるのか。俺はわけがわからないまま、すんすんとあめちゃんの匂いをかぐ。あめちゃんはなにも言わず、俺の頭を撫でている。



 高校二年生の夏休み、俺はやっぱりあめちゃんの家へ遊びに行った。

「種くんは、毎年かっこよくなるね」

 と、あめちゃんは言う。俺はそれを聞いて、くすぐったい気持ちになる。

 眠ったふりの昼寝は、まるで小学生だった頃のラジオ体操のように習慣になっている。あめちゃんは、どういうつもりで、俺にあれを許すのだろう。大人じゃない、だけど、もう子どもでもない俺に。

 あめちゃんの漫画は、年を追うごとに過激になっていく。あめちゃんの漫画は、ひとつだけ、ぽんと飛び抜けて売れた。中二の夏休み、俺が手伝った漫画だった。ちょうどいい具合のエロさだったらしい。だけど、売れたのはそれだけで、あめちゃんは今年もやっぱりアシスタントのひとを雇わず、ひとりで漫画を描いている。俺は、もうあめちゃんの漫画を読んでも驚かない。どんなエッチな場面も受け入れてやる。

 そんな意気込みで挑んだ手伝いだったのだけど、今回、目の前に置かれた原稿には、女の子がひとりもいなかった。その漫画は、小学生くらいの男の子と、二十代くらいの男の人の話だった。ふたりはいっしょに住んでいて、とても仲良しだ。男の子は男の人のことが大好きだし、男の人も男の子のことを大事思っている。血は繋がっていないけれど、家族なのだ。そんなふたりの、ゆるやかに流れる日常を、あめちゃんはまるで観察日記のように淡々と描いていた。

 俺は、男の人の、カラーにしたらおそらく茶色いのであろう頭にトーンを貼りながら、なんだか泣けてきた。原稿を汚してはいけないので、ティッシュの箱を持って部屋の隅に移動し、そこでめそめそと泣いた。

「種くん」

 あめちゃんが俺の背後に立っている。

「種くん」

 あめちゃんは、しゃがんで俺の頭を撫でる。

「俺、もう子どもじゃない」

 俺はいやいやをするように頭をゆるく振る。

「大人でもないじゃない」

 あめちゃんは言った。

「あめちゃん、もうエッチな漫画描かないの?」

「描かないわけじゃないよ。描けって言われたら描く。仕事だから」

 あめちゃんは言った。

「だけど、今回は自分が描きたい話をネームに起こして、それにゴーサインが出たんだ」

 そう言って、タレ目を細めて笑うあめちゃんは、もう三十一歳だ。俺が年を重ねるのと同じだけ、あめちゃんも年を重ねていく。この年齢差は、どうしても埋まらない。なにか他のもので埋めようにも、なにで埋めたらいいのかわからない。だから、俺はずっと眠ったふりをしていた。

「種くんが甘えてくると、僕はとっても気持ちがいい」

 あめちゃんは言う。

「種くん、全身から、あめちゃん好きだ! って、言葉にならない声がダダ漏れてんの、自分で気付いてないでしょう」

 言われて、心臓がびくんと跳ねた。

「そういうふうに好きだって態度を隠そうともせずにそこにいられたらさ、こっちはもう、すっごくうれしくなって気持ちがよくなっちゃうの」

 俺は、あめちゃんの言う言葉の意味を、必死で考える。つまり、つまり、どういうことだ。

「種くんは、背も伸びて声変わりもして、どんどんかっこよくなっていくけど、僕は毎年毎年変わんなくて、毎年毎年売れないエッチな漫画を描いていて、年ばっかり取っちゃって、伸びしろなんてひとつもなくて。だから、ずっと気付かないふりをしてたら、いつの間にか、種くんが初めて僕を呼んだ時みたいに、本当におじさんになっちゃってた。だから、もういいかと思って」

 そう言って、あめちゃんは立ち上がり、ペンたてから赤い油性マジックを取ってきた。

「手かして」

 あめちゃんは、俺の左手を取ると、その甲に金魚の絵を描いた。

「ラジオ体操のカードに描いてあげたことあったよね」

 あめちゃんは言う。

「あの時、種くんすごくよろこんでくれて、僕は本当にうれしかった」

「俺も、うれしかった」

 慌てて言う。

「あめちゃんが、ハンコのかわりに絵を描いてくれて、すごくうれしかった」

「うん」

 あめちゃんは笑う。

「種くんと僕は、同じだね」

 俺は、その言葉の意味を考える。



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