夢に現れる
夢に現れるふたりの少女のことを思うと、やはり私はいつまでも抜け出せなかった。鎖のような呪縛が、私をずっと放さない。
目が覚めたその日は、曇り空だった。雨もちらちら見える。空から降りていくのを眺めていると、私の心まで温度が低下して、冷たいアスファルトの上でその心は報われなくなってしまうような気がしたのだった。
美容室は九時半開店だったので、私はまだかなり時間的に余裕があるなと思った。時計の針は七時をさしていた。家から職場の美容室までは、徒歩で十五分もあれば足りる距離である。
窓のそとには、もちろんその細い雨が少し映っていた。雨声はないに等しい。雲は、私の住む街の頭上にだけ滞在しているようで、東の空も、西の空も、混じり気のない浅い紺色に染まっていた。空気は澄んでいて、些細な雨雲さえ、あってないようなものだと感じられた。
その日、店に私の顧客は来ず、やってきた誰もかれも、他の従業員の顧客か新規ばかりであった。私は、他の従業員の手伝いをしていても、ほとんど上の空であったように思う。
私のあたまの中には、あの子の姿が色濃く残っていたのだ。いくら髪をきっても、彼女がうんともすんとも言わず、ただじっと美容椅子に座ったまま、人形のように黙り込んで、じっと鏡越しに私の顔を見つめているような、そんな光景が頭に浮かんで離れなかった。
私は、鋏を洗ったり、染料の入れ物や小道具を整頓しながら、私の今の心境を名付けるのだとしたら、一体なんと名付けるべきなのかをひたすら自問自答していた。
恋という言葉を当てはめてみても、しっくりこない。愛と考えてみても、胸にすっと入ってこず、どこか突っ張っているような印象がある。
それに、私が思うに、この感情には、なにやらもっと複雑な趣きがある。
一つの個体が、また一つの見知らぬ個体に触れるだとか、二つの気持ちの接触がどうであるとか、そう細々とした事を指し示すよりも、はるかに気高く、確固とし、傷付きやすいものなのではないだろうか。傷付きやすいくせに、見栄をはるようにして壁をつくっているのだ。
床に散らばった髪を箒で掃きつつ、私は深く考え込んでいた。
この、切られ、落ちた髪というのは、切られる以前には、持ち主の人間に手厚く愛されていた。風呂場で洗髪をさせられ、洗面台で乾かされ、櫛で梳かれたりしていたはずである。整髪料やヘアピンでもって形作られ、持ち主と共に数限りない視線を浴びてきたはずである。
学生時代、髪という漢字を覚えるときに習った語呂合わせ・「髪は、長い友だちである」という語呂の指すとおり、髪はもう何十年も、私や、あやちゃん、言ってしまえば、この世を過ごす誰しもに関わりを深く持ちあわせてきた存在である。
引っぱれば抜けてしまうこともあるだろうし、鋏など用いられたらその存在は急に危ぶまれるわけだが、往々にして髪は人の無意識下に滑り込んでくるし、私達はその本来持っているありがたみに気がつけず、日々を送っているようにさえ思われる。
これが私には、何か世の中に見え隠れしている、茫漠な一種の対比においての、いわば陽極に思われてならなかった。
対するは、陰極であるけれど、どういった道筋から辿ってみても、終局的に思われるのは居酒屋で騒いでいたあの女達である。あるいはつい先日、やましくも肩を預け合ったり、睦言を交わし合ったりした、あの一人の女である。
女の化粧荒れした素肌には、漫然としていながら、たまらない哀愁だって見えるのに、そこに同情という言葉を置くことは、どうしてかちょっとためらわれる。目の前に佇む一人の女が、美しさを欲するがゆえにあれやこれやと手をだして、人智の用意した泥沼におぼれていくのだ。その姿は俗臭芬芬、いつからか、自分を華やかな孔雀とあやまり、むやみに長くしだれるほどの羽根を広げているありさまにしか思われない。救われない泥の痕跡を、昔みずみずしかった頬に残して、女は気取りながらも気取らない女であろうとする。
美容室へやってくるお客の顔を何人うかがっても、皆申し合わせたように化粧へ依存している。それは、ほぼ例外なく思春期をおおよそ境にして、依存し始める。自分を美しく見せようとするためなのだろうが、私はその主張を聞いて、耳が痛くて、痛くて、いやなのだ。自分でもなぜなのかと思うことがある。私は、私が私のことを一番よくわかっていないのかもしれないとさえ、思う。確かに、頬に散った雀斑や、若年特有のにきびなどにコンプレックスを抱いてしまうのもわかるのに、その、生まれてからこれまで一度も人の手の及んだことのなかった肌に、人工的なものを差してしまおうとする精神に、どうして幼児期から培った精神から咎められないのか。
女の化粧を考えていると、もう店を閉める時刻になって、今日のところは終業してしまった。機械的に仕事を尽くしてしまっていたので、今日来たお客の顔さえいまいち思い出せなかった。
帰り道に改めて考えてみると、この事柄は、ほとんど無限に近く、読み取ることの出来るものであるように思われた。
どうして、成熟した女は化粧をするのだろう。
その夜、空にまた月が出ていた。しかし今夜の月は、橙色のあかりをその輪郭にたたえていたので、見るからに不気味な印象だった。いつものほの白さとは一転、焼け爛れた頬のような姿だった。形状は小望月で、半月よりは少しだけ肥ってみえる。まだ夜が浅いからか、東の山の袖にふれそうである。
怪しい月影を見ながらも、私は駅前のスナック街をぶらついた。財布の金ももう誇れるほどないが、しかし足が病的に通うのである。会社帰りの、スーツを着た男たちや、作業着を着た工夫のような男、皺くちゃな開襟シャツを着た、頬の痩せこけた男などが、やはり夜蛾のようにそれぞれの軒に触れ回っていたり、行き交っている。
蛾か、などと思っていると、やはりどうしても、学生の頃よく喋ったあいつの今頃を想う。連絡先も聞かず、私達は離れ離れになってしまった。きっと、もう会えはしないのだろう。
胸にいやな曇りがたちこめるのを感じた私は、煙草をまた一本吸って、その汚いスナック街の夜道をすすんだ。
いくら進んでも人の数は減らないように思われた。この街路にも、終わりがないように思われた。
それでも、ただ重たい足取りで道を進んでいると、丁度、軒先に出ていた呼び子のお姉さんに声をかけられた。
ねえ、ねえ、そこのお兄さん。私のお店、すごく楽しいところだよ。それに、お財布にも優しいし、ね、うちに来ないかしら。同伴も全然出来るの。などと言われる。よく見ると、なかなか整った顔立ちであるし、化粧もさほど濃くなく、悪くない。さっぱりした短い茶髪に、唇はいやらしげに厚ぼったい。その色香は、すでに通りすがりの男を何人も手玉にしてきたというような、不敵な誇らしさに満ちていたようである。
煙草を捨てて、火を靴で揉み消していると、続けて声をかけられた。
みんなお喋りも上手だし、聞くのも上手よ。それに、ふふっ、下のほうもね、お上手。好きでしょう? お兄さん、そういうの。新規のお人はお試しで一時間無料なんだけど、どうかしら?
私がその呼び子の肩越しに、店の電光板を見ていると、
「平塚?」という声が後ろからした。
ふり返ると、そこにいたのは学生時代、散々薀蓄や見識を語っていた旧友・井波であった。
おお、井波か! と驚いて反応する間もなく、彼は私の前に立っていた呼び子の女に声をかけた。
「ああ、ぼくはお姉さんとお話がしたいなあ。……どうだろうか、ぼくと一杯、ひっかける気はないか」
あなたは、そちらのお方のお友達? ふたりともハンサムだから、もっといい子についてもらえるわよ。呼び子なんかより、もっといい子。私が手配してあげよっか。
「うんうん。なら、ぜひに」
井波とふたりでそのお店に入ることになった。井波はそれから、席に着くまで始終無言であった。私は初め、あの、女に相当弱かったはずの井波が、そのような言動をとったことにいたく驚いたものだった。いや、成人してから、彼は苦手を克服する努力をしたのかもしれない。
「お二人様ですか?」
「ええ。私もこいつも、初めてなので、……お試し、というのでお願いします。あとから延長とかもできますよね?」
「もちろんです。ただ、女の子達が途中で入れ替わることもありますが。では、どの子にします?」
受付の男は、料金表と、女の顔写真が並んだ、金縁の額を見るよう手で促した。
私も井波も、結構じっくりとその顔写真や、料金表の金額を見ていた。女は、誰もかれも、ケバケバとしていて、見るからに派手で、写真から狙ったような艶めかしさが感じられた。
「どの子も、かわいいな、井波は決まったか?」
井波は右手で耳たぶをいじりながら、写真をしげしげと眺めている。一呼吸おいて、私の質問にそっと答える。耳たぶをいじるのは、学生のころからの彼の癖であったので、私はそれがなんだか懐かしく、見ていて、胸に郷愁とも名付けたいような気持ちがわいていた。
井波は、受付に聞こえないよう、ほとんどこそこそと話しだしたのだった。
「こういう写真、きれいに映されてるのがほとんどさ。何も写真だけじゃない、ともすれば歳も、さば読んでいるかもしれない。いやいや、きっと読んでる。……蓋を開けてみたら残念賞なんてのもありえる」
「まあ、無難に性格のよさそうな子を選んでおけばいいんじゃないか?」
私達がこそこそと話している姿を、受付の男は少々訝しげな面持ちで待っていたが、しばらくすると、そばに呼び子をしていたあの女がやってきた。女は何事かを受付に伝えると、私達のほうを向き
「五番の子と、十二番の子が、私のお勧めですよ、お二方」と言った。
「五番? 十二、番?」
井波が女の声に反応して、写真の上にふられていた番号からそのふたりをさがす。
「うん。こいつはいいかもしれない。うん、いいな。お姉さんが勧めるくらいだ、なあ平塚。上等な女だこいつは」
井波が番号のふたりの顔を見ている間、私は十二番の子の隣の、十三番の顔写真が、いつか見たことのある顔だという事に気が付いた。
それは先日電車で出会ったあの女であった。
「呼び子の姉さん、悪いが私はこっちの子にさせてもらおう」
「悪いなんて、そんな。私はお勧めをいっただけで、強制もなにもないんだから。やあね」
「なんだい、急に。そんなうらなりの娘がいいのか?」
井波は私の選んだ十三番を見ると、つまらなそうな顔をした。
「これが、無難ていうもんじゃあないかと思ってな」
私にはそのうらなりが、私という男にとっての「無難」であると、そう思ったのだった。
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