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暗中の夢

 そうしてまた、暗中、夢に囁かれた。



 しばらくして、バスはおばあ様の家がある町に着いた。嬉々として降車するアイさんのあとから、俯いたコイさんが現れる。


「ほら、しゃんとしてよコイさん。おばあ様のお家はもうすぐなんだからね」


 降りたこちらの町の空は、ほとんどむらなく晴れ渡っていた。むらがあるとしたら、西の彼方にみえる薄雲くらいのものだったが、それは空色にうまく混ざり合っていて、風にさえ流せないのではないかと思える。


 陽射しも程よく差し、バスが停車してくれた通りに並ぶ健やかなユリノキから、道には、心地良い木漏れ日がおち散らされてある。

 コイさんの手を構わず握り締めると、アイさんはコイさんをなかば引っ張るような形で、どんどんと並木道を進んでいった。この陽射しのなかであれば、コイさんの服も自然に乾くだろうとアイさんは思った。


 コイさんは、ほとんど無意識的にユリノキの影踏みをしながら、アイさんにぐいぐいと手をひかれていた。頭では、おばあ様の事を考えていたのだが、おばあ様のお顔がよく思い出されない。以前会ったのがいつ頃であったのか、彼女はそれさえも忘れてしまっていた。顔ははっきりしないけれど、きっとおばあ様なら、自分の見た夢の話を、真摯になって聞いてくれるだろうと夢想した。アイさんのように、私の話を嘲笑するような事はないはずであると信じていた。

 おばあ様のお顔はぼやけてしまっていたが、おばあ様の優しさはしっかりと記憶されていたのだった。


「見えてきたわ」


 古い煉瓦造りの家が視界に入ってきた。バスの止まった大通りから、小道にはずれて約十分ほどの距離であった。

 家には小さな前庭が設けられてあり、そこには、おばあ様が趣味で育てているいくつもの植物達が、主張しすぎない程度に花開き、太陽の光を浴びてきらめいていた。


 少女達は、それまでのいざこざに揺さぶられていた気持ちをどこかに置き忘れ、純粋に花の形容・芳香に心をうたれていった。花の彩りの瑞々しさからは、普段、どれほど、おばあ様がその花々に愛情をそそぎ、手間暇をかけているのかが知れるようであった。


「おばあさま? おばあさま?」


 玄関口でアイさんが呼びかけた。

 おばあ様は奥からゆっくりと出てきたが、そのお顔は霞がかっていて、私にはよく見えなかった。少女達には、おばあ様のひさしいお顔がよく見えているらしく、アイさんも、コイさんも、嬉しさのあまり、その小さな瞳のふちに涙を湛えている。


「二人とも、ひさしぶりだねえ。あら、どうしたの? 涙なんか流して、誰かにいじわるでもされたの? どこか、身体をわるくしているの?」


 おばあ様は、孫の涙目に微笑みかけ、ゆっくりと二人の華奢な肩を、その肉の厚い、優しさに満ちみちた手で抱き寄せた。


「ううん。……なんでも」「……そうよ、誰も。何も」


 おばあ様は、うんうんと、ただ、頷いてあげるのみであった。ふたりの少女の目もとに湛えられた涙は、あの花々のように太陽の光をうけて、うんときらめいていた。




 私は、その霞がかったおばあ様の顔を拝見したいと強く望んだばっかりに、夢からぱちりと目覚めてしまったのだった。

 時計は、朝の六時半前を示していた。

 今日はもちろん出勤しなければいけなかった。


 私は、寝ぼけまなこを擦りながら、三日も一つの夢を見続けたことを奇跡だと思っていた。

 身体を起こすと、いくらか身体も頭も重たいことに気がついた。昨夜、たいして酔っていないと思っていたのに、軽度の二日酔いであるらしかった。


 その日、美容室に、娘が入院していると言っていたあの若い奥さんと、ファッション誌に愚痴を漏らしていたあの女子大生が来た。二人ともおよそ二ヶ月ぶりで、予約の電話を入れてくれていたのだった。


 いざ二人がやってくると、私は奇妙な気持ちに心を絡めとられた。

 彼女たちの髪を切っている最中でも、髪を洗っている最中でも、昨夜想像したあの彼女らの酔態が、脳裏にちらついてたまらないのである。それに、今こうして鋏で切られている髪の持ち主が、切り手の脳のうちで酩酊に被られているかと思うと不思議だった。


 それにしても、やはり女の酔う姿は甘美であり、艶容であると思った。私は、昔学生時代に読んだ三島の小説の一節を思い出した。「女の体を、性欲抜きにして、私達男はそれを美しいと思うことができるだろうか」と、そのような旨の一節であったと記憶しているが、私はその問いかけに自信がなかった。


 今、私がほとんど作業的に切り落としている髪の毛でさえ、女の一部であったのだと思うと、そこには塵のような微細な量でも、しっかりとした性欲という名のつくものが現れてくる。この髪をどこかの男が口づけてしまっていても、確かに心には汚らわしい想いが宿りだす。

 私は、仕事以外の時の、女にうつろう自分の目のことを毛嫌いしていたので、当然、このような思いもそういった嫌悪の範疇に含まれるような気がした。形質が多少異なろうが、結局は性欲が原因には違いないと思った。


 店には、化粧品や女物の香水がいくらかインテリア兼売り物として配備され、温かみのある電球色の光によって、それらは柔らかくきらめいていた。女性が女性という時間をもっとも濃く楽しむためにそれらは製造されているのだし、私が髪を切り終えて到着する終着点にだって、女性は女性という生き物の生き甲斐の一つを見出すことだろうと思われた。

 そういう全うな事を思いなおしてみると、一層さっきの自分が、私の中で、一つの後ろめたいものとして際立ってくるのであった。


「いいわね、この髪型」


 私の顧客であるその若い奥さんはそう言った。


「最近は皆さん、そういった髪型を所望されることが多いです。あとは定番ばかりですが。ショートだったり」


 私が、彼女の髪の毛を撫でて細かい毛を整えていると、それから何か思いついたように、彼女は口をきった。


「そうそう。あのね、そろそろ娘が退院するのよ。入院中に結構髪伸びてきていたから、また切ってもらえるかしら」

「はい。もちろんですよ」


 鏡越しに目を合わせると、私はゆっくりと頷いてみせた。

 私が幼子の髪を切ったのは、この奥さんの子供が初めてであった。

 私の勤める美容室では、幼児の理髪に、男が起用されるようなことはまずないのだ。ただでさえ落ち着きの無い年頃なので、男では余計手を焼くだろうという見解と、切られる子供への配慮からであったが、この奥さんの娘・あやちゃんは、どこか落ち着き払ったところのある子供だったので、その心配はほとんど杞憂におわっていた。


「あやちゃん、でしたよね」

「ええ。……あの子、幼稚園の卒園間近になって入院しちゃったもんだから、卒園式も、小学校の入学式のほうも顔出せていないの。それでまだ少し拗ねてる所があるから、その辺少し気を使ってもらえるとありがたいんだけど」

「わかりました。会話には気をつけます」


 その数日後になって、奥さんはあやちゃんを連れてお店にやってきた。確かに、一目見てあやちゃんの髪の毛が、あのころより伸びているのがわかった。以前切ってあげたのは十二月頃だったので、毛髪の量も妥当であるなと思われた。


「平塚さん、こんにちは」


 小学一年生のあやちゃんは、私の前で深々と馬鹿丁寧にお辞儀をした。


「これはこれは。いらっしゃいませ、あやちゃん」私も合わせて仰々しい挨拶をした。

「さっぱりと切ってあげてください。それじゃあ、文をよろしくお願いします」

「わかりました。では、ブローをするくらいまでいったらご連絡しますので」

「じゃあね、文。平塚さんにあまり面倒をかけさせるんじゃないわよ!」


 あやちゃんが静かに頷くと、奥さんは、出口でこちらに会釈をしいしいお店を後にした。

 先に手掛けていたお客さんも居なかったので、私はすぐにあやちゃんの理髪に取り掛かった。


「それじゃあね、まずさっぱりしてもらうから、こっちに来てもらえる?」


 あやちゃんを手引きして洗髪台に移ってもらうと、いつもの手順で私は髪を濡らしていった。あやちゃんの髪はなかなかに伸びていて、密度も高かったが、まだ小学生というだけあって大人の髪ほど腕は疲れなかった。


「よく我慢できたねえ、偉いよ」


 子供をあやすのはそこまで慣れていなかった私であったが、あやちゃんはちゃんと大人しくしていてくれた。

 タオルで髪を拭いてあげてから、美容椅子に戻ってもらうと「もうさっぱりしちゃったから、このまま帰ってもいい?」とあやちゃんはふざけて笑った。

 それじゃ私がおかあさんに怒られちゃうなあ、とカットクロスをかけてあげながら私は笑い返した。


 ブロッキングに移ると、私は予想通り、あやちゃんの髪の手触りにいたく感心したものだった。

 長くのびたあやちゃんの髪は、やはり幼子特有の、きめ細かい絹のような手触りの髪質だった。

 あやちゃんの理髪を除くと、私がこのような髪を扱える機会は皆無であった。


 髪の最表面を治癒したり、失ったツヤを何度も取り戻し、維持している、洒落っ気の強い女性客の髪の毛に比べると、あやちゃんの髪質は段違いで、たぐいなく素晴らしいものだった。

 鋏で落とすことさえ、おしいと思われるほどだった。


 再構成された上での上質など、ただの紛い物でしかない。あやちゃんの、一度も整髪料に蝕まれたことのない髪に触れていると、そのようなことを諭され、笑われているみたいだった。

 あやちゃんの髪を丁寧に切っていく。それが私の仕事に相違なかったのに、私は仕事を淡々とこなしていくだけの自分に、底知れぬ怒りさえ覚えた。また、艶やかな髪が切られていってしまう目の前の光景に、対象の定まらない悲しみを覚えたものだった。


 鋏に断ち切られた髪の毛は、さらさらと簡単にあしもとまで落ちてゆく。切られた瞬間から、髪の毛は、香りも、手触りも、存在意義も何もかも失って、簡単に一物質としての檻に囚われてしまうように思われた。事実、髪はもう二度とあやちゃんの一部に戻ることはできないのである。


「平塚さん?」


 気が付くと、あやちゃんは何かに躊躇する私を不思議そうな眼差しで見つめていた。


「ああ、ごめんね」一言応えて、私は引き続き彼女の髪に鋏を通した。


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宜しくお願いします。

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