翌日の朝
家には、翌日の朝かえった。
青天ではあったが、気分は優れなかった。
春光のなかに、見知らぬ子どもらの遊ぶ姿があった。それは大層眩しいものだったが、私は無遠慮にもそこを横切っていった。私には縁遠い光景であった。
西にひかえた川の土手沿いには、桜の木が遠慮がちにならんでいたが、風にたなびく枝は、その身にまとっていたもも色の花びらを、ほとんど自重せず散らしていた。
まだ世間を、言うほど長く生きていない青年(つまり私)が、昨夜初めて会ったばかりの、見ず知らずの女をけがし、それも二日酔いでうつろな目をして、朝日の降りそそぐその河川敷の遊歩道を歩いていたということ。暖かい陽射しの中ではしゃぐ子どもらは、このような体たらくの人を知ったとき、一体なにを感じるだろう。
そう思えばこそ、気分はいくらでも沈むようだった。その後ろめたさが、私の目にうつる子どもらのまばゆさに拍車をかけていたようにも思われた。
家に着くなり、私は痛む頭を抑えながら布団に入った。具合が悪いといって、仕事も休ませてもらった。
それから、もぐり込んだ布団のなかで夢をみた。
頭痛に襲われ、眠気に襲われしてしぼり出された夢は、意外にも、うすらかな愁いに満ちていたように思う。
ふたりの少女が出てくる夢であった。
その夢は、ずいぶんと現実味の欠かさない、如才ない夢であったが、実際目を覚ましてみると、川のあぶくのようにあっけなくて、時計の針はといえば、まだ三時間も進んでいなかった。
もう一度夢をみようと思った。頭の痛みは全然ひいていなかった。
おもえば、意識的に夢の続きが見られたのは幸いであった。
あらかじめ、少女二人には名前があった。コイさん、アイさんという、二人の少女である。どのような字をあてるのか、さっぱりわからない。恋や、愛という字だったのかもしれないが、夢の中の私は、その字をど忘れしていて、全然思いつけなかったのだ。
夢には、いつでも決まっておかしな先入観が付与されている。しかし、夢を見る者の意識に、そのおかしさが割り込んでくるような事はないので、やはり私も、少女らの名前をどうして自分が知っているのか。なぜコイさん、アイさんなどという名前であるのか。なぜ名前を「音」として知っていながら、「文字」としての形を知らないのか。
その点について、ちっとも疑問に思うようなことはなかった。
厚い闇が融けだしていくと、ふたりの少女の影が見えてきた。
コイさんが空を見上げていると、怪しかった雲行きから、案の定雨が降ってきた。
コイさんは、傘をさしたいな、などと思っているけれど、その手に傘はなく、ただ降りはじめた雨に仕方なく濡れてしまうのであった。
そばに、屋根つきの薄汚れた休憩所があって、そこで雨宿りをするという手段もあったのに、コイさんはちっとも休憩所に入らなかった。なぜなら、休憩所はおよそ三畳もない手狭なものであるし、中には木造の長椅子が一脚あるばかりで、ほかに座れそうなところがないからである。いや、その長椅子に座るという選択もあったわけだが、それは、中に居るアイさんと嫌でも顔を合わせることになってしまう。これが、いけなかった。
コイさんは、アイさんと顔を合わせるのを避けたいばかりに、こうして今雨に打たれているのであった。彼女の、長くて手入れの行き届いた髪に、この雨露が何度滴ってしまっても、服が雨を吸って、ずんずんと重たくなっていってしまっても、コイさんは頑なにアイさんと顔を合わせようとはしないのであった。
「コイさん、もう許してよ。軽率だったんだ、私が。あなたは何も悪くないんだ。全部私が悪かったんだよ。許して、お願いだから」
休憩所のほうから、そんなアイさんの声が雨音に混じってひっそりと聞こえてくる。
アイさんはコイさんに、こうやって懇願するけれど、これだって、もう何度目のお願いかしれないものである。もう三日も前から、コイさんは、アイさんと顔も合わせたくないと言ってきかない。三日経った今でも、コイさんがこんな風にすねてしまっているものだから、アイさんも、申し訳ない気持ち半分、辟易しつつある気持ち半分、といった心持ちになりつつある。そのアイさんの心理は、誰であっても陥ってしまう心理であった。確かに自分が悪かったと認めているのに、相手がそれにうんともすんとも反応してくれないのだから、やはり人間ならうんざりしてしまうといった具合のものであった。勿論、コイさんの反応のためばかりにアイさんが謝っているのではないのだが。
そうして、そのアイさんの心情にコイさんが気付いていないわけがない。だからこそ余計に、このはがゆさが一段と、幼い二人の心を深くえぐっている。
「ほら、バスが来るよ。コイさん、バスが向こうからやってくる。バスに乗るのに、そんなに濡れてちゃいけないよ、運転手さんにだって笑われちゃうよ。こっちにきて、さあ濡れた身体を拭こう」
アイさんが休憩所から呼びかけても、コイさんは相変わらず無愛想で返事もしない。アイさんは、大きめのタオルを鞄から取り出して待っているというのに。
「笑われたって平気。だって、アイさんに笑われた事のほうがよほど傷付いたんだもん」
「私が悪かったわ。さっきから謝っているのに、コイさん。ねえ、ちゃんと聞くから、また初めからお話を聞かせてちょうだいよ」
バスが停留所の前にやってきた。停留所の少し離れた所にあった休憩所から、二人は何も言葉を交わさないまま、雨の中を小走りで向かった。
バスの中に入ると、やはり二人は依然として無言のままで、後ろの五人掛けの一番広い席に腰を下ろしたのだった。アイさんはよかったけれど、コイさんは、ズボンから何から、ぐっしょりと濡れてしまっていたので、座ると大変気持ち悪そうな顔をした。アイさんは、そんなコイさんの顔を横目にこう言った。
「私だって昨日ね、夢を、見たのよ。結構不思議というか、謎が多かったけど、でも素敵な夢だった」
アイさんが話している間、コイさんはじっと窓の外を眺めていた。アイさんのほうを見なければそれでいい。そういった態度でいるのだ。
「ねえ、私の夢の話も聞いてくれる? 昨日ね、私、夢のなかで大きな虹の橋を見たの。空に掛かっているところが橋に見えていたとかじゃなくて、私達が普段わたっているような、ああいう本物の橋ね。実用的な橋のほうね? 大きな大きな、本当に大きな虹の橋でね、一歩踏み出すたんびに、踏んだ所からちょっとした反発力が来るの。下からね。大きなトランポリンの上に居るみたいに。それはとても歩きづらい条件のはずなのに、足がその反発で弾むのと同じように、私の心まで少しずつ弾んでいく。楽しくなってくるのよ。
空は夕がたの紅色に染まりだしてるんだけど、橋はしっかり玉虫のそれだった。橋の下には浅くて幅の広い川が流れてた。ゆっくり、とろとろと流れていて、水面には西の空に落ちはじめた日の姿が、揺曳しつつもしっかりと反映して、時折まぶしく輝いていたわ。だから川は紅の色にすっかり染まっていた。点々と浮かぶ雲に深い紺の影を与えていくその夕日が、とっても綺麗だった。幻想的というか、心も言葉も奪っちゃうような、魅惑的な光景だったの。虹色の橋が掛けられている上に、こんな曇りも濁りもない夕日が眺められるなんて、私はなんて素敵な夢に出会えたんだろうって、そう思っちゃったの。思っちゃった。でも、だめなの。でも、やっぱりそれは夢よ。夢って気が付いた途端に、部屋の電気がショートしたみたいに、目の前の世界が真っ暗になった。大きな虹の橋も、下を流れる川も、低い西日にあてられて物寂しく映っていた景色も、みんな記憶の海に溺れて、埋れていってしまった。
目が覚めた時、とても心残りな、惜しい気持ちにさえなったほどね。あんなうっとりしちゃう夢、なかなか見れたものじゃないもの」
アイさんは恍惚とした表情を浮かべて、コイさんとは反対側の窓の外に目を向けた。丁度、制限速度の道路標識が後ろに流れていくところであった。あとは道のわきに生えた草むらが、だらだらと際限なく視界を過ぎていった。
「はい、すごいすごい。私なんかの夢とは大違いねえ。きらきらしてて、純粋で、ちっとも暗い部分なんかないもの、宝石みたいな夢ね。理想的じゃない」
コイさんは不貞腐れたまま返すばかり。アイさんの気持ちを汲み取ろうなんて微塵にも思っていない様子であった。
「私の夢は陰気だもんね。アイさんの夢には品があって、それでいて華があって、その上幻想的ときてるんだから、そりゃあ私の夢なんか、ちっぽけで石っころのように思えるわけだね」
「そんな事言ってないわよ。お願いだから、機嫌直してよ、コイさん。あなたの不貞腐れた顔、おばあ様が見たらきっと嘆かれるわ。それに残念がる。せっかくのおばあ様のお家なのに」
アイさんが忠告しても、コイさんはまだむすっとしたままで、湿ったズボンが肌に張り付いてたまらないのを、少し引っ張ったりしてごまかしていた。