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電車は次の駅で

 電車は次の駅でしっかりと停車した。また、次に走り出した時、もう窓のそとに街の灯の過ぎゆくような光景はなかった。あるのは、とおい向こうの道路をひた走る車のライトや、ぽつねんと灯された信号機の明滅、点在する電波塔の頼りない灯りばかりであった。


 本来なら田んぼの望められる風景であっても、夜半では、夜の海とほぼ変わらないものである。

 唯一、田んぼか海かのちがいを視認する術といえば、この窓から、直接足元の地面を覗くくらいのものだった。

 車内の電光に、夜風にそよぐ稲や、深いわだちのついたあぜ道が照らし出されているのを確かめると、私の心はしだいに静寂に包まれていった。



 酔いがさめ始めたのか、私は急に人恋しくなって、車内を見渡した。

 むこうの四人がけに、バーの裏からでも出てきそうな女が、一人でいた。水商売の類いにしては帰りが早すぎるようにも思え、むしろ逆に、これから出勤だろうかとも思えた。まあそれらは無論、憶測であって、一つの可能性にしかすぎない。


 女は、見たところ二十台半ばくらいの、私と同いか、それより上と見えた。がさついた金髪に、知恵の輪のような銀色のイヤリング。革製のチョーカーを首にし、胸の深く開いた白のシャツと黒いミニのスカートを、起伏の激しい体に、ばつっと張り付けるみたいにして着ている。スカートからはガーターベルトが伸び、膝上まである黒のタイツに付属していた。

 一見して、露出の多いキッチュな格好、それに合わせ、体に吹きかけていた香水とが、無駄に淫靡だった。


 女は延々と窓の外の闇を見続けていた。

 私は、女が私の視線に気付いているような気がした。気付いているのに、私など見えていないという気持ちで、窓の外を見続けている自分を演じていたに違いなかった。

 私が物心つく頃、世間というのはどうも女性にばかり甘く、男性にばかり厳しいお灸を用意している所がある風に思えて仕方なかった。そのせいか、女が男に好意を寄せる時には、なんだかやたら物事がたやすく、逆に男が女に好意を寄せる時には、かたくその心で土下座をしていなければいけない。この女の態度は、そんな半一方通行的な社会から生まれた結晶のようなものなのかもしれない。


 「おい、そこの女」


 私は女に声をかけた。けれど、女はちっともこちらを見ようとはしなかった。窓の外を眺めているというよりは、何か物思いに耽っているようでもあった。

 少ししてから、女は何も言わずに席を立って、私の顔を見ることもなく、他の席へと移っていってしまった。


 私は一瞬、もう一度近付いて声をかけてやろうかと思ったが、またこの女に近付くのは、なんだか私ばかりが異性に飢えているようで癪だった。私があいつを追い駆ければ追い駆けるほど、私は惨めになり、あいつばかりが高貴になっていくようで嫌だった。


 なぜ、そのような反比例に私が強いられなければいけないのか。それも理不尽でたまらないのだが、その時の私には、恥をかく恐れのほうが大きかったようにも思う。

 仕方がないので、さっきまで女の居た四人掛けに、今度は私が座り、女の姿勢を真似て、窓の外を眺めていることに落ち着いた。


 すると、何分もしないうちに、今の女がちょこちょことやってきて、そこは私の席よ、と言った。だから早くどいて、と言った。


 ふーん、こいつは私に席を取られたのが癪だったのか。私が、こいつをもう一度追うのが癪であったように、この女も、私に関わらずにいようと思うところ、席を取られてしまった事実、揺るがぬ事実が、そのままここに残留しているばかりに、心に癪を起こしたらしい。


 私は無言で立ち、席を譲ってやった。

 そうして、今度は女の対角に座ってみた。


 けれど、女はやはり私に関わるのはごめんだと言わんばかりに、また鼻持ちならない態度で窓の外を眺めている。

 女の顔立ちを、改めてこう覗いてみると、ちっとも美人などではなかった。かえって醜いくらいである。けれど、私は外見の醜い女が嫌いではなかった。女は、そこそこの程度に醜いほうが癒されるものであるし、自分に痛みの覚えがあるものこそ、人の痛みをわかってやることができると信じていたからである。


「何よ、人の顔じろじろ見て」


 女は窓のほうを向きながら、ぶすっとしていた。私から近寄ったのに、おいそこの女、の一言から何も話しかけてこない事を、何か不服にでも思っていたらしい。

 あんたも、どうせあたしの体がほしいんだろう、と言う風に、女はいやらしく足を組むと、それから私の風采をしげしげと見つめた。


「こんな時間に、女が一人で電車はいけない」


 私は腕時計を見ながらそう述べた。針は十一時をさそうとしていた。もっぱら、今日は平日であった。


「仕事よ、仕事。まああんたには関係無いことよね」


 私は、女の手首にも腕時計がついていたことに気付いた。安っぽい服に比べて、その時計ばかりはどこかの紳士に買ってもらったとうかがえる、高級品のようだった。細かな宝石が散りばめられ、五彩に輝いている様は、女がその時計を身につけているというより、むしろ時計がその女に仕方なく身についてやっているという感が強くあった。


 時計もそうだが、どうしてそのような格好を要する仕事に就くようになったのか、尋ねてみたいものだった。しかし、私は思い留まってその問い掛けを断念した。

 その質疑は女に失礼だと思った。

 私は、お水関係の職種を見下している所があるのかもしれない。


「女ならもう少し足を隠したらどうだ」

「あんた、この足に釣られたんでしょ。そのくせしてその言い草はないんじゃないの?」


 女が私の心情をあまりによくとらえていたので、私は少し狼狽した。しかし、「女っていうのは皆そういう生き物なのか」と疑いたくなるほど、この女は一度どこかで耳にしたような事を言う。


「隠せばいいのにと思っただけで。別に性欲に駆られたわけじゃない」

「嘘。そんなの絶対に嘘!」


 女は私の言葉に被せるように言った。


「男は皆一緒。私の心配をしているのかと思えば、結局は抱きたいだけなんだ。私、仕事で何度もそんな男見てきたよ」


 何度もそんな男見てきたよ。だからあんたも同じでしょ。だからあんたも、私の胸に釣られて、足に釣られて、のこのこやってきたんでしょ。女はそう言いたげだった。


「私、わかるんだよ。……男の人って、まず最初に人の顔を見るでしょう。それから、おっぱい見て、腰やお尻の辺りを見て、足を見る。お尻がむっちりしてるとね、じっとそのまま舐め回すみたいに腿からまたお尻にもどる。お尻を見つめるの。二秒か三秒ね? おっぱいだって同じなの。それから、もう一度顔を見て、自分が女の体をじろじろ見ていた事が相手にばれちゃったのか確認する。卑しいこと卑しいこと。不安になりながら確認するのよねえ。本当、男なんて体ばかりなんだから」


 女は、露出させた自分の腿を、指先でゆっくりとなぞりながら、こわく的な表情でそんなことを滔々と言うのだった。言い終える頃になると、電車が目的の駅に止まり、私と女はそこで降りた。


 女の香りにいざなわれて、私は、自分の意思とはほとんど関係なしに、この女の後をつけていた。

 駅から出てしばらくすると、駅前にあふれていた街の賑わいも遠のいていく。耳のあなに向けられていた音が、耳のうらに向けられていくように感じる。

 待つは夜道の寂然とした暗闇ばかりで、女の派手な髪の色ばかりがその道のうえに浮き上がっているように見える。女の服装が黒一色のものであったら、それはかつらが宙に浮遊しているように思われたかもしれない。


 女は、一度ふり返っては、また前を向く仕草を繰り返すのだった。その度に、女の髪は左右にひるがえった。犬のようだった。暗いので女の表情はよく見えなかったが、しかしこの女が足を速めることはなく、むしろ私の姿をうしろに確認して、しだいに速度を落としていくのである。


 私の息が、女の後ろ髪にかかりそうなほどになる頃、女はふり返り、私の手をとって、狭い路地へと私を引っぱっていった。私は足をもたつかせていたが、事の運びは女の意のままだった。

 雑多なこの街中の暗がりで、不敵に微笑む、女の声ともつかない音だけがそこにあった。それから声がやんで、静謐な闇のなかで、ふたりの呼吸を繰り返すだけの音が、ある種の独立した二匹の生物のように呼応して響いていた。

 女はわずかな叫び声もあげようとしない。しかし、それは別に不思議でもなんでもなかったのかもしれない。

 ただ、私の腕のなかでにやついていたこの女の体には、温もりがなかった。女とは、よくわからないものだと思った。指で探ると、女の秘部はすぐにおびただしくぬれたが、しかしそれもつめたく感じられた。


 自分の体がひどく凍えているとき、いくら他の温もりにふれても、寒さゆえの麻痺によって感覚が鈍感になってしまっている時のように、その感触は人ではなく、誇張していえば氷のようであった。


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