表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/7

約四か月ほど前

 約四ヶ月ほど前の、じつになよやかな髪の毛にふれたことを思いだす。

 ふれていると、髪は、私のからだを捕まえて、放そうとしなかったのだ。


 その時の髪は、いわれのない寂しさに染まっていたのか、脆弱で、とても力なく私を抱きしめていた。

 抱きしめていたというにはあまりに非力であり、それ自身もまた、繊細だった。髪は普通、風がやってきたら煽られてひるがえるのに、その髪は凍り付いていて、ちょっとの風でもぱきぱきと折れてしまって、いかにも風をかわしきれなさそうであると思った。


 寂しさに抱かれている。私も、そのいわれない寂しさを抱きしめているという感覚があった。

 それまで、ちいっ、とも、そのような髪の毛にふれたことのなかった自分が、今の今になって、阿呆のように思われ、私はたまらなくなった。

 半分くらい自棄になって、また〆張をあおった。しかし猪口には、もう、何滴も残っていなかった。


 毛髪というのは、不鮮明であってはならぬ。


 昔、父に教えとかれたそのことばを思いだす。

 父は理髪師だったが、そのなかでもどちらかといえば、美容に傾倒した造詣のふかさがあったように思う。理解も、理容より美容の方にあったことだろう。

 私は幼いときから、そんな父の背を見て育ったのだ。髪の美しさに魅了されている父の姿は、幼かった私にも熱く映り、今でさえ脳裏に思い出されると、あの熱さまでもがじわじわとよみがえってくる。


 ぼうっとしていると、ふと、恍惚感におそわれた。

 去ったことの記憶に焦がれた気持ちをいだくと、記憶は両手を忍ばせ、私に手をまわしてくる。私はそうして記憶の思惑通りにうっとりしたものだったが、みるみるうちに胸の奥は切なくなっていった。切なさが恍惚感を覆い隠したというより、恍惚に内包されていた切なさが、暴力的にむき出しになったようであった。


 その後に、恍惚の余韻と呼べそうなものはなかった。

 顔はだんだん、赤らんでいった。

 酒か、一種の恥ずかしさからか、頬に朱がさす。

 とり返しがつかなくなったと悟った私は、ふうっと一つ息を吐きながら俯いて、一度だけ静かに、とんっ、と手にしていた猪口の底でカウンターをたたいた。

 猪口の立てた音は、他の客らの喧騒にあっけなく負けて、かき消されていってしまった。


 それからは、いやな気持ちにばかりなっていた。

 むこうのテーブルにかけている女達が、ひそひそと密談をしている。何ごとかを耳打ちしあっては、くすくす笑っているのだ。私のことではないだろうけれど、眺めていて、不愉快であるには違いなかった。


 そのうち一人の女が、その群れから立ち上がると、こつこつと靴音も高らかに、こちらへ歩いてくる。なんだろうと思えば、女は私の横をあっさり通りすぎて、背にしていた便所の戸を引いて中へ入っていってしまった。

 なんだ便所か、と思っていると、女の過ぎ去ったあとから、微風に乗って、女がその身にふりまいていたと思しき香水や、整髪料のにおいがやってきた。


 いいにおいとも、悪いにおいとも言いがたい、ただただ甘いにおいだった。

 無垢な記憶に、鱗粉をまきちらしながら、たいそうふてぶてしい態度の蛾がとまった。無遠慮に鱗粉をまきちらすもので、私はふつふつと腹が立ったが、同時に、かなしみばかりが胸の奥でこだまするのを感じた。一気に女という生きものが諦観され、とてもさみしくなった。


 女の群れをながめていると、あの子も、いつかはこんな女達のようになってしまうのだろうかと疑われた。私のまぶたのうちに、あの子の姿は映っていた。なみだのなかにも、あの子の姿は映っていた。

 あの子はそのうち、体のどこかしらに派手な模様を踊らせるようになるかもしれない。化粧や香水や、染髪に魅了され、体の持つ純朴さをうしなうかもわからない。


 私は、酒をのんでいながら、このようなことに心が移る自分をきらった。けれど、それはどうしたって、正直な私でしかなかった。あの子も女だ。女はいつか、化粧をするようになる。お洒落をするようになる。それは避けることの出来ないものなのだろう。

 それから、いたたまれない気持ちがして、私はその居酒屋をあとにした。


 おぼろな電光をあちこちに投げかけているネオン街の夜道は、湾曲された、野生的な欲の塊に見えてしかたない。私を、見知らぬ世界へと、さらっていってしまいそうでしかたない。

 あたまからひょろひょろと、私の意識だけが脱皮していってしまいそうだったのは、店で飲んだあの〆張がまだきいているからだろうか。頭のなかに酒瓶が浮かぶ。


 自分の体がこういう具合になってくると厄介だという事を、私は重々承知していた。

 私の体だ。私が知っていて、当然だ。けれど、私は少しも酔っていないと頭で思っているのに、体のほうは、見事に酔っ払ってしまっているから困る。擦れ違った者の顔さえも、瞬間にして、酩酊の生む、だらだらとした波間の影に呑みこまれていってしまう。

 酔った足で駅から電車に乗り、窓の外で横に流れていく街の灯りをそれとなく見呆けていた。

 規則的に流れていってしまう街の灯を眺めていると、いくら時間が瞬間の連続であると思っていても、時間は始まりと終わりの切れ目を無くしたかのようで、学生時代に美術展で観た、エッシャーの絵画をそこに思い出させた。



 やはり酒のせいに違いない。

 あの絵のように、終わりが始まりに繋がっているのだとすれば、この電車はいつごろ目的地へ着くのだろう。実は、永遠に線路のうえを走り続けるのではないか、とも感じられる。

 私は、それが不思議ではあるけれど、しかし不安だなどとは思わなかった。むしろ、生暖かい泥に腹まで浸かりきっているような、妙な心地良ささえ覚えられるようだった。


※この作品が面白いと思っていただけた方は、評価・いいね・感想・レビュー等付けていただけると制作の励みになります。


宜しくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ