約四か月ほど前
約四ヶ月ほど前の、じつになよやかな髪の毛にふれたことを思いだす。
ふれていると、髪は、私のからだを捕まえて、放そうとしなかったのだ。
その時の髪は、いわれのない寂しさに染まっていたのか、脆弱で、とても力なく私を抱きしめていた。
抱きしめていたというにはあまりに非力であり、それ自身もまた、繊細だった。髪は普通、風がやってきたら煽られてひるがえるのに、その髪は凍り付いていて、ちょっとの風でもぱきぱきと折れてしまって、いかにも風をかわしきれなさそうであると思った。
寂しさに抱かれている。私も、そのいわれない寂しさを抱きしめているという感覚があった。
それまで、ちいっ、とも、そのような髪の毛にふれたことのなかった自分が、今の今になって、阿呆のように思われ、私はたまらなくなった。
半分くらい自棄になって、また〆張をあおった。しかし猪口には、もう、何滴も残っていなかった。
毛髪というのは、不鮮明であってはならぬ。
昔、父に教えとかれたそのことばを思いだす。
父は理髪師だったが、そのなかでもどちらかといえば、美容に傾倒した造詣のふかさがあったように思う。理解も、理容より美容の方にあったことだろう。
私は幼いときから、そんな父の背を見て育ったのだ。髪の美しさに魅了されている父の姿は、幼かった私にも熱く映り、今でさえ脳裏に思い出されると、あの熱さまでもがじわじわとよみがえってくる。
ぼうっとしていると、ふと、恍惚感におそわれた。
去ったことの記憶に焦がれた気持ちをいだくと、記憶は両手を忍ばせ、私に手をまわしてくる。私はそうして記憶の思惑通りにうっとりしたものだったが、みるみるうちに胸の奥は切なくなっていった。切なさが恍惚感を覆い隠したというより、恍惚に内包されていた切なさが、暴力的にむき出しになったようであった。
その後に、恍惚の余韻と呼べそうなものはなかった。
顔はだんだん、赤らんでいった。
酒か、一種の恥ずかしさからか、頬に朱がさす。
とり返しがつかなくなったと悟った私は、ふうっと一つ息を吐きながら俯いて、一度だけ静かに、とんっ、と手にしていた猪口の底でカウンターをたたいた。
猪口の立てた音は、他の客らの喧騒にあっけなく負けて、かき消されていってしまった。
それからは、いやな気持ちにばかりなっていた。
むこうのテーブルにかけている女達が、ひそひそと密談をしている。何ごとかを耳打ちしあっては、くすくす笑っているのだ。私のことではないだろうけれど、眺めていて、不愉快であるには違いなかった。
そのうち一人の女が、その群れから立ち上がると、こつこつと靴音も高らかに、こちらへ歩いてくる。なんだろうと思えば、女は私の横をあっさり通りすぎて、背にしていた便所の戸を引いて中へ入っていってしまった。
なんだ便所か、と思っていると、女の過ぎ去ったあとから、微風に乗って、女がその身にふりまいていたと思しき香水や、整髪料のにおいがやってきた。
いいにおいとも、悪いにおいとも言いがたい、ただただ甘いにおいだった。
無垢な記憶に、鱗粉をまきちらしながら、たいそうふてぶてしい態度の蛾がとまった。無遠慮に鱗粉をまきちらすもので、私はふつふつと腹が立ったが、同時に、かなしみばかりが胸の奥でこだまするのを感じた。一気に女という生きものが諦観され、とてもさみしくなった。
女の群れをながめていると、あの子も、いつかはこんな女達のようになってしまうのだろうかと疑われた。私のまぶたのうちに、あの子の姿は映っていた。なみだのなかにも、あの子の姿は映っていた。
あの子はそのうち、体のどこかしらに派手な模様を踊らせるようになるかもしれない。化粧や香水や、染髪に魅了され、体の持つ純朴さをうしなうかもわからない。
私は、酒をのんでいながら、このようなことに心が移る自分をきらった。けれど、それはどうしたって、正直な私でしかなかった。あの子も女だ。女はいつか、化粧をするようになる。お洒落をするようになる。それは避けることの出来ないものなのだろう。
それから、いたたまれない気持ちがして、私はその居酒屋をあとにした。
おぼろな電光をあちこちに投げかけているネオン街の夜道は、湾曲された、野生的な欲の塊に見えてしかたない。私を、見知らぬ世界へと、さらっていってしまいそうでしかたない。
あたまからひょろひょろと、私の意識だけが脱皮していってしまいそうだったのは、店で飲んだあの〆張がまだきいているからだろうか。頭のなかに酒瓶が浮かぶ。
自分の体がこういう具合になってくると厄介だという事を、私は重々承知していた。
私の体だ。私が知っていて、当然だ。けれど、私は少しも酔っていないと頭で思っているのに、体のほうは、見事に酔っ払ってしまっているから困る。擦れ違った者の顔さえも、瞬間にして、酩酊の生む、だらだらとした波間の影に呑みこまれていってしまう。
酔った足で駅から電車に乗り、窓の外で横に流れていく街の灯りをそれとなく見呆けていた。
規則的に流れていってしまう街の灯を眺めていると、いくら時間が瞬間の連続であると思っていても、時間は始まりと終わりの切れ目を無くしたかのようで、学生時代に美術展で観た、エッシャーの絵画をそこに思い出させた。
やはり酒のせいに違いない。
あの絵のように、終わりが始まりに繋がっているのだとすれば、この電車はいつごろ目的地へ着くのだろう。実は、永遠に線路のうえを走り続けるのではないか、とも感じられる。
私は、それが不思議ではあるけれど、しかし不安だなどとは思わなかった。むしろ、生暖かい泥に腹まで浸かりきっているような、妙な心地良ささえ覚えられるようだった。
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