9 天霧の夜
喉から悲鳴がほとばしり、全身が大きくのたうって覚醒した。心臓が早鐘を打っている。
「は、はあ、はあっ……?」
嫌な汗で着ているものが張り付いている感覚がした。起き上がる動作をした後で、自分が寝かされていたことを自覚する。柔らかな布団には見覚えがあった。ここは百十五階の部屋だ。
「天霧……?」
暗闇で名前を呼ぶ。シュッと何かを擦るような音がして、橙色の灯りに望んでいた貌が浮かび上がった。
「あまり、良かった」
あまりという響きに思わず身をすくめる。手燭を手にした天霧は顔を歪めるとそれを側に置き、私の頬を拭った。指に雫が付着していて、私は自分が泣いていたことを知る。呆然とそれを見つめていると、天霧が経緯を説明してくれる。
「君は花魁道中の途中で倒れたんだよ。身体が氷のように冷え切っていたから見世に戻って女衆たちに湯に入れさせた。記憶はない?」
「何も……」
見れば、着ているものが白の寝巻きに変わっている。
「深雪の妖力にあてられたんだ。わざと君を挑発していた。あいつはそういうところがある妖だから気にしなくていい」
宥めるように背中をさする手。今日一日で枯れきってしまったのか、涙は一滴も出てこずにただ嗚咽だけが漏れる。しゃっくりが十を超えたあたりで天霧の腕に強く抱き込まれた。頭ごと抱えこまれ、彼の肩口に顔が埋まる。
「夢、見て、わ、私のこと、いらない子だって、」
「またそんなことを」
「おばあちゃんが」
「トキが?」
低い笑い声がまるで鼓のように鼓膜を打った。
「馬鹿だね。そんなことあるはずがないだろう。トキの孫馬鹿に俺がどれほどうんざりさせられていたか」
「……おばあちゃん、孫馬鹿だったの?」
「特にあまりにはね。こっちに連れてきただなんてバレたらどんな折檻を喰らうか分からない」
肩をすくめる天霧に思わず笑ってしまった。笑い声にしゃっくりを巻き込んで大変なことになった私の背中を、慌てたように彼はさすった。
「ああほら、大変だ。これを飲んで」
渡された湯呑みに口をつけると、漢方薬のような香りのする白湯だった。温かい飲み物に段々と落ち着きが戻ってくる。ふと『異界のものを口にすると帰れなくなる』という伊奘冉のヨモツヘグイを思い出したが、黙って飲み干した。
「色々あって疲れたね。今日は早く休むといい」
「疲れたというか、圧倒された……。深雪さんみたいにすごい人…妖怪がいるのに私が楼主だなんて。私、何もしていないのに」
湯呑みの底をじっと見つめる。無言でいると、またあの鈴の音が蘇ってくるようだった。
「これから何だってできるよ。初めから何でも出来る人間はいない。もちろん妖怪も。」
「天霧も?」
「俺なんてひどいものだったさ」
あっけらかんと天霧は笑った。その笑い声に、ふっと体の力が抜ける。
「うん…そうだよね」
「そうだよ」
「もう寝ようかな」
「それがいい」
「あ、歯磨きたい」
そう言うと渡されたのは、瑠璃色の玉だった。噛み砕いて吐き出すのだと教えられたが、物珍しさについつい長いこと眺めてしまう。部屋に飾りたいくらい綺麗なのに、これが歯磨きなんて。やがて、いつまでもそうしているわけにもいかないと思い切って口に入れて噛み砕く。琥珀糖を食べた時と同じ甘さと感触がした。
「ほへ、ふぁいふぉうううふぁふぉ?」
「大丈夫だよ。そこの洗面台で口をゆすいでごらん」
言われるがままに部屋の隅にある長持のような台に寄っていくと、金の盤に水が湧き出てきた。
「金の盤の水を含んで銀の盤に吐くんだよ」
銀の盤に吐いた水は、スーッと吸い込まれるように消えてゆく。消えた後の盤の底を指で掬うと、サラリと乾いていた。
「不思議……。」
今もまだ、実感がない。一日で有り得ない出来事に遭遇しすぎて夢でも見ているかのようだ。ぼんやりふわふわした頭のまま布団に潜りこむと、天霧は手燭を持って立ち上がった。
「あっ待っ、行かないで」
思わず引き留める。一人きりになるのが怖かった。悪夢の余韻が膨らんで襲いかかってきそうで。その後すぐに自分を恥じた。多分、彼は忙しい立場だ。こんなにしてもらっているのに、まだ無意識に甘えようとしている自分が情けなくてすぐに伸ばした手を引っこめる。
「心細い?」
天霧は、私の側に座りこむと手燭の蝋燭を掌で覆った。火が小さくなり、部屋がほんの少し暗くなる。
「じゃあ寝るまで側にいよう」
その掌が私の瞼を覆った。確かに火に触れていたのに、ひんやりと冷たい。雨の匂いが強まる。
「ごめ…んなさい」
「頼ってくれと言っただろう」
そのうち、しとしとと雨の音まで聞こえてきた。さっきまで月が見えるほど晴れていたのに、天気が変わったのだろうか。それとも。柔らかな雨音は、鼓膜にこびりついていた鈴の音の残響をかき消してゆく。
「あま…ぎり…は…おばあ、ちゃんの……」
彼は祖母とどんな関係だったのだろう。祖母はどうしてこんな怪異が住む世界で楼主になったのだろう。聞きたいことが沢山あるのに、意識が真綿で包まれているように覚束なくなってくる。けれど、先程のような悪夢は見ずにすむような気がした。