6 花街
少し離れてから振り返ると、天両屋は想像以上に立派な風体をしていた。見上げると首が痛くなってしまうほど高い場所に、百十五階がある。吹き抜けだったそこには今は緞帳が降りていて、重たそうなそれには天霧が持つ提灯と同じ紋が染め抜かれていた。
「天霧、あの緞帳さ、」
「あれは軟障というんだ」
「ぜ、ぜじょう?さ、すごい立派だよね」
私の言葉に天霧はくすりと笑った。
「好みじゃないかい」
「え!? えっとぉ……ちょっとゴツいかな?って……でも、立派だよね! さすが大見世って感じ!」
「好きに変えればいい。軟障だけじゃなく、部屋の調度品もあまりの好みのものを選ぶといいよ。トキのものは彼女が引退した時にほとんど処分してしまったし、殺風景だろう」
「そ、そっか。って言われても、和室の家具ってまだちょっとよく分からないなあ」
「今度一緒に選ぼうか。調度品だけじゃなく、着物も化粧品も、うちには贔屓の業者がいるからね。頼めばいくらでも持ってきてくれる」
「いいの?」
「うちの娼たちはこだわりが強くてねぇ。品揃えと品質は確かだよ」
「遊郭ってすご……。」
そんな会話をしているうちに、あたりは暗くなってきていた。ぱっと天両屋に吊り下げられていた無数の提灯が灯る。
「うわあ……!」
橙色の灯を纏った天両屋は、遠くからでも一目で分かる。夜の闇に滲むような灯りは、等間隔にぐるりと楼閣を囲う。楼閣は下へ行くほど太くなる作りのようだった。各階ごとに露台がある。露台に吊り下げられた提灯が風に揺れる。
朱色の欄干に腰掛けて煙管を吸っている娼は、楼閣の高さ的に花魁だろうか。かと思えば二階ほどの高さの場所に格子があって、娼たちが格子から袖やら手やら煙管やらを出して客を誘っているのが見えた。
「あれが夜見世。ああやって格子の中から客を誘うのは、花魁よりも下の娼だ。うちなら座敷持ちの一部と部屋持ちだな」
シャンシャンシャン、と男娼たちが弾く三味線の音が聞こえてくる。気がつくと人波が誘蛾のように天両屋の方へ流れている。押されてよろけた私を支えて、天霧は提灯を高く掲げた。ぶつかった人が目を丸くして立ち止まる。
「っこれは、天両屋の天霧様。と……?」
「新しい楼主だ。あまりという」
「ご楼主!大変失礼を。お怪我はありませんか」
「大丈夫です」
「天両屋には長いこと世話になっているのですよ。トキ様とは友人としてお付き合いさせていただいたこともありまして。新しいご楼主も、ぜひご贔屓に」
会釈をして去ってゆく。
「今のは?」
「贔屓にしている呉服屋だ」
人波に逆らって遊郭を歩いてゆく。天両屋の提灯を見て皆さりげなく道を開けてくれることから見世の持つ影響力を量り知る。先程の呉服屋のように親しげに声をかけてくる者も何人もいた。その誰もがトキ、と祖母の名を出す。まるで亡くなった祖母が生きているかのようだと感じた。
やがて、天両屋から離れると人がまばらになった。
「冷やし飴〜冷やし飴〜。冷やし飴はいらんかね〜。そこのべっぴんのお嬢さん、お一ついかがですかい?」
樽を背負い、天秤棒を担いだ振り売りに声をかけられる。
「えっと、」
「飲んでみるかい?甘い物は好き?」
「うん。あの、天霧さえ、良ければ……」
一つ買ってくれた。振り売りは、目の前で竹を編んだような丸い皿のようなものを取り出して縦に伸ばした。そこに、樽から液体を注ぐ。最後に、天秤棒に盛られた透明な飴に平たい木の棒を挿してすくい、液体を注いだ入れ物の中に突っ込んだ。飴は蛍のように発光している。
「へいお待ち!」
どのように食べるのか分からず、とりあえずアイスのように飴をしゃぶってみる。
「冷たっ!」
柔らかいけれど、氷のように冷たかった。
「溶かして食べるんだよ」
言われるがままにしばらく飴を浸してから、液体を飲む。飴で冷やされたそれは、ソーダのような味がした。
「疲れた?少し休もうか」
道端にある、樽をひっくり返したような椅子と真っ赤な和傘が刺さっている休憩所でしばし足を休める。ふと上空を見上げると、ランタンがあちらこちらでまるで海に揺蕩うクラゲのように浮遊していた。
「綺麗……!」
「あれはあんな形で行商なんだ。呼んでみようか」
天霧が指笛を吹くと、五つほど連なってランタンがこちらへやってくる。よく見ると白い鳩のような妖怪がランタンを脚に引っ掛けて飛んでいた。目の前に漂う灯りの一つを捕まえると、中には簪が浮かんでいる。
「装飾品か。気に入ったものはある?」
「どれも素敵……あっでも、全然大丈夫!冷やし飴も買ってもらっちゃったし」
「あまりはこれから、楼主として大変なこともあるだろう。甘やかすことくらい、させてくれ」
天霧は銀細工の髪留めを手に取った。桜と鞠の装飾が施されたそれを、切り揃えた私の髪にパチンと留める。
「似合うよ」
「……ありがとう。誰かが私のために物を贈ってくれるなんて、初めてかも」
天霧の面の目が丸くなった後、彼は顔を両手で覆った。
「トキ……これは、こっちに連れてきて正解だ……」
手の隙間から、雨模様の面布が見える。大袈裟だなあ、なんて思いながらも綻んでしまう口元を誤魔化すように冷やし飴を口に含む。髪留めの鞠が擦れ合って柔らかな音を立てた。