5 天の遊郭 その弍
「わあ……」
吹き抜けの回廊。遥か下に、座敷が見える。色とりどりの着物を纏った男の間を縫うように行き来する人のようなもの。彼らの頭上を飛び交う蛇のような異形たち。優雅に盃を傾けていた一人の男が、私と天霧に気がついた。
「あッ、天霧の旦那!」
座敷の面々が、こちらを見上げた。ちらちらと、極彩色の着物の間から白い貌が見え隠れする。そこからシュッと蛇のような異形が飛び出してきて、私と目が合う。
「天霧様、そちらは誰です?」
天霧に掴まっている手が汗ばむ。この建物に潜む無数の気配に、無意識に顔がほてる。
「あまりだ。トキの孫娘で、今日からここの楼主となる」
飛び出してきた蛇が、固まったまま階下に落ちてゆく。それが地面へついた瞬間、どっと座敷が沸いた。
__新しいご楼主だ、本当にやってきた
__しかしトキ様は渋ってらしたのでは
__どうせ天霧様が勝手に連れてきたのだろうよ、相変わらず自由なお方だ
わいのわいの、騒がしい座敷に何だ何だと他の階から人が顔を出す。障子を開け放ち、回廊に次から次へと溢れてくる様子に、蟻の巣を棒でつついた時のことを思い出してしまい頭を振った。
「お前たち、少しは大人しくできないのか」
突如現れた真っ赤な着物に目を奪われる。男娼たちの中でも一際存在感を放つその男は、派手な着物に劣らない華やかな容貌をしていた。彼は百十三階から降りてきて、人懐っこく微笑んだ。
「初めまして、ご楼主様。俺は浦風。一応、ここの花魁だ。よろしく」
「あの、あまりです。よろしくお願いします」
「堅いなーご楼主。言葉使いなんて適当でいいのに」
浦風は着物とお揃いの色柄の煙管を咥えて、ふーっと煙をはいた。
「浦風花魁、ずるいですよ! 一番のりにご楼主に挨拶するなんて!」
「お前らなー、これでも俺は昼三よ? そこんとこ忘れてない?」
浦風は階下の男娼と軽口を叩き合う。
「昼三って?」
「男娼にも階級があるんだ。『花魁』は上級男娼。その花魁の中にも階級があって、呼び出し、昼三、付け回しの順で低くなる。浦風はまあ、うちの二番手だな」
「えっ! めっちゃすごいじゃないですか!」
確かに容貌は整っている上に洗練されている。しかしそれ以上に親しみやすさが勝り、『地位の高い人』という感じはしなかった。
「まあな。っつってもうちの看板張ってる花魁とは人気も知名度も大分差があるけどな」
「そういえば深雪は?」
「道中の支度の最中。ご楼主、うちの看板張ってる花魁、『深雪』っていうんだけどさ、廓の『顔』って呼ばれてるくらい有名な奴なんだ。今夜はその深雪の『花魁道中』があるから、見てくれば?」
天霧の方を伺うと、見たい?と首を傾げられた。
「みっ、見たい!」
「ははっ、積極的なご楼主だな。天霧サン、連れていってやりなよ」
「うーん、あまりが言うなら。何事も経験だしね」
「やった!」
「浦風花魁、私らにもご楼主に挨拶させてくださいって」
どこからか催促の声がして、浦風はまたふーっと煙を吐く。
「全く、堪え性のない奴らだ。ご楼主、まあうるさいけどいい奴らだから仲良くしてやってくれな。じゃ、俺は禿に稽古つけてくるよ」
浦風が去ると、地響きがして部屋という部屋から男娼が飛び出してきた。ご楼主、新しいご楼主、と皆目を輝かせて迫ってくる。
「ちょ、ちょっと待っ、順番に……」
「お前たち、あまりが困っているだろう。並んでおくれ。とりあえずその柱まで、溢れた者はまた次回!」
「「ええーー!!」」
「きりがない。それに、そろそろ夜見世が始まってしまう。座敷持ちから下の娼は遠慮してくんな」
「天霧様のけちんぼ!」
けちんぼ、けちんぼと言いながらも彼らは素直に列をつき、溢れた者はそれぞれの部屋に引っ込んでいった。皆、天霧には従順らしい。もうこのひとが楼主でいいのでは?と思いつつ、目まぐるしく挨拶にくる男娼の相手をする。
同じ年くらいの者から年上の青年まで、一様に整った顔立ちをしているもののどことなく浮世離れした感じがするのは彼らが人間ではないからだろうか。握手を求めて触れる掌の体温もまちまちだった。中には鱗を纏った手もあった。
一通り挨拶を交わした後、ぐったりと欄干に寄りかかった私を見て天霧は笑った。
「疲れた?」
「なんだか……みんな個性が強くて。けど、楽しいひとたちだね」
「そりゃよかった。楼主にとって一番大切なのは男の管理だからね。娼たちと上手くやれるなら、立派な楼主になれるさ」
「天霧は娼じゃないの?」
「俺?俺は……内儀ってとこかな。娼たちを取りまとめる立場で、楼主代理も務めるよ」
どこからか取り出した櫛で私の髪を整えながら天霧は言う。それからぽんと私の頭に手を置いた。
「それから、あまりの後見人でもある。まあ、親代わりと思って頼ってくれ」
その言葉に、突如として涙腺が緩んだ。親。親、なんて私にはいないと諦めていたのに。会ったばかりの男は、どうして私にここまでしてくれるのだろう。
「君の祖母には色々と恩があるんだ。だから俺に遠慮なんてしなくていい」
泣いちゃダメだ。せっかく施してもらった化粧が崩れる。それに、見世の中で楼主が泣くなんて。私の心情を察したのか、天霧の袖が私を包み込んだ。ここに来る時に香った雨の匂いがして、あれは彼の匂いだったのだと初めて知る。
「も、大丈夫。ありがとう」
気恥ずかしさが増して、そっと離れた。
「行こう」
「そう?じゃ、一階まで下って外に出ようか。深雪の花魁道中を見に行こう」
「うん。あそこが一階?」
先ほどまで男娼たちがたむろしていた座敷を指さすと、まさか!と首を振られた。
「あそこは百階」
「百階?!」
「大体十階区切りでね、吹き抜けを遮る座敷があるんだ。一階はまだまだ下だよ」
「そんな!一階まで階段を降りなきゃいけないの?」
「はは、そんな面倒なことはしないさ。あれを使うんだよ」
天霧は天井から遥か階下までを貫いている柱の一本を指さした。
「わあ、金魚!」
その柱は、柱自体が水槽になっていた。大小さまざまな金魚が尾鰭を翻して優雅に泳いでいる。回廊から細い通路が柱へ向かって続いていて、恐々渡りきると目の前で柱がぽっかりと開いた。中は空洞になっている。入ると水槽を内側からじっくりと観察することができて、まるでアクアリウムのようだった。
「一階まで」
ボタンも何もないのに、天霧がそう告げるとまるでエレベーターのように下降した。いや、エレベーターより速い。あっという間に金魚たちが遠ざかり、かと思えば足元から新たな金魚が立ち昇ってくる。
「すごい! 何これ!」
「うちの名物の一つだよ。金魚動乱。ただ、これも百十二階から上には行けない」
「そうなの?」
「天両屋はね、上に行けば行くほど格が上がるのさ。五十階まではうちの男娼の中では一番地位が低い『部屋持ち』の間がある。八十階まではその一個上の位の『座敷持ち』。さらに上が花魁たちの階層だ。さっきの浦風のように名のある花魁になると、一階まるまる与えられる」
「一階!?」
「君もそうだったじゃないか。忘れた?」
「あ……。」
言われて、あの四方が吹き抜けの百十五階を思い出した。
「あれ全部、私の部屋なの?」
「そうだよ。遊郭を一望できる。百十五階へは楼主以外簡単に出入りできないようになっているから安心していいよ」
「ええー……なんだか、すごく申し訳ないなあ」
こんなぽっと出の小娘が楼主だなんて良く思わないだろうに、男娼たちは歓迎してくれた。
「頑張らないとって思うよ」
「はは、あまりは良い子だね。でもしばらくは俺が支えるから、気負わなくていい」
と、エレベーター改め金魚動乱の動きが止まった。左右に扉が開くと、一階の男たちが一斉にこちらを見て立ち上がった。
「お初にお目にかかります、ご楼主様!」
全員が頭を下げる。
「さすが、蛇尾は情報を伝えるのが早い」
天霧は先ほどからあちらこちらを飛び回っていた蛇の妖怪を捕まえて鎌首をさすった。蛇尾、というらしい。
「この人たちは……。」
「男衆だ。役割は色々だからその都度紹介するよ」
「楼主のあまりです。よろしくお願いします」
「あまり様。これからどちらへお出かけで?」
番台の前にいた男衆が話しかけてくる。彼の目配せで、別の男衆が下駄箱から履物を持ってきた。手を取られ、誘導される。これを履けということなのだろうか。
「深雪の道中を見てくるよ」
私に代わって天霧が答えた。さらに別の男衆が、何やら紋が描かれた大ぶりの提灯を彼に手渡す。
「若い衆をつけましょうか」
「要らない。俺が案内する」
「左様でございますか。天霧様がご一緒なら安心でございます」
「行こう、あまり」
男衆に掴まっていた私の手をとって天霧が外に踏み出すと、外にもずらりと並んだ男衆が揃って頭を下げた。
「「「行ってらっしゃいませ、ご楼主様、天霧様!」」」
「い、行ってきます……」
なんかこれ、見たことある。そうだ、おばあちゃんの家で見たやくざ映画がこんな感じだった。
「は、早く行こうよ天霧」
背中がむず痒くなって、早足で男衆の間を駆け抜けた。慣れない下駄が私の歩みの後でカランコロンと軽快な音を立てた。