3 天霧天草
天霧天草。男はそう名乗った。
「あまぎり、あまくさ……」
手元の茶を啜り、呟いてみる。
「不思議な名前ですね」
「そう?」
「でも似てる。私と」
ほら、私『あまり』。勝手に親近感を感じて笑うと、男は不意をつかれたように口をぽかんと開けた。
「嬉しそうだね」
「っ! ご、ごめんなさい……嫌、ですよね」
「は?」
「私の名前、『あまり』は『余り』だってお父さんが……そんな名前と似てる、だなんてごめんなさい」
精進落としが行われていた広間が丸々すっぽり入ってしまいそうなほどだだっ広い和室で私と男……天霧は向かい合っていた。ここに来る道中、寝てしまった私が目を覚ますとこの広い和室の中央に敷かれた布団に寝かされていて、側で座布団に座った天霧が書物を読んでいた。あんなに香っていた雨の匂いはどこへやら、部屋からは目に沁みる青空がよく見えた。
「君は元々よく笑う子なんだな」
中途半端に開いていた書物に栞を挟んで天霧は私の表情をじっと伺った。
「な、なんで……」
「そんな顔をしているなと思って。違った?」
天霧の面の目がぱちくりと問いかけるように瞬く。
「わ……かりません」
「分からない?」
「最近は、笑うことなんてなかったので……」
俯くと、畳に影が落ちる。外から射す日差しがイ草の乾燥した匂いを立ち上らせて、ジワジワと熱気をしみ込ませる。暑いな、とぼんやり考えた。窓を開けている、どころか四方が吹き抜けなのだ。例えるならバルコニーか。部屋の四隅にある柱と柱の間から、木でできた手摺が見える。温い風が、ひさしに巻き取られた状態でくくりつけられている緞帳を揺らす。見える景色が空の青一色なのだけれど、一体ここはどのくらいの高さなのだろう。
「あまり」
厳しい声が飛んで、思わず肩をすくめた。
「自分の名前を卑下してはいけないよ」
思ったより柔和な声色に恐る恐る顔を上げると、天霧の後ろの青空をゆっくりと竜が横切っていた。
「へ」
突拍子もない事態に間抜けな声が出る。その瞬間、竜と目が合った。気がした。
「天霧さん、竜、竜が」
近づいてくる。空想上の生き物が、青い空をかきわけて私のもとに。飛行機の翼ほどもある髭がたゆたい、鼻息を漏らした。突風が部屋を吹き抜ける。緑色の巨大な目玉が私を捉える。
_人間か。
畳を通して膝が震えた。これは、あれだ。お祭りの太鼓とか、ティンパニーとか、そういう低くて大きな音が地面までびりびり震わせちゃうやつだ。私の心臓を一息で吹き飛ばしちゃいそうな、そういうやつ。ふっと視界が陰った。
「控えよ、酸漿」
天霧の袖が、私を庇う。
「トキの孫娘だ」
顔は見えなかったけれど、天霧が怖い顔をしているような気がした。節くれだった掌が意外に大きいことを知る。
_ 天霧、天草。
やがて睨み合いに負けたのは竜の方だった。
_お前ほどの者が人間の小娘ごときに目をかけるとはな。……つくづく堕ちたな。
侮蔑の意をこめるように頭を振り、竜は去っていった。最後に鼻をふすん
と鳴らして。けれど、名残惜しさを瞳に浮かべていたような気がする。
「大丈夫かい、あまり」
「髪が死にました」
竜の鼻息で乱れた髪を梳いてくれる天霧に、今更のように問う。
「ここ、どこですか?」
「んん……あの世……?」
「私、死んだんですか」
「そういうわけじゃない。ただ、ここの住人はあまりが住んでいた世界の住人とは違うのさ。いわゆる妖怪とか怪異とか呼ばれるモノの住処がここ」
髪の乱れを整えた指先が下りてきて私の輪郭をなぞる。
「天霧さんも人間じゃないんですか」
「そうだね」
「竜より強い?」
「んん〝っ」
顎先でピタリと止まった。照れ臭さを誤魔化すような咳払いは多分、肯定。
「私、怖いです。人間だし、こんなとこでやっていけない、かも」
「あまりは大丈夫。気を強く持って、名前だけは大切にして。そうすれば怪異につけこまれることはない」
おいで、と天霧は流れるような動作で私の手を引いた。布団から出て、畳を降り、日の光で熱された露台の上へ。
「見下ろしてごらん」
今度こそ、心臓が吹き飛ぶ心地がした。下界は遥か遠くに引き離され、重箱を何重にも重ねたような楼閣のてっぺんに私たちはいたのだ。びゅうと下方から吹いた風に押し戻されるように後ずさる。
「なに、ここ……」
私たちのいる建物だけが突出して高い。そして、想像以上に大きかった。ちらりと見えた階下の露台には提灯が連なり、無数の人間……のようななにかが蠢いていた。
「ここは天両屋。遊郭の中でも一番の大見世で、こんな佇まいが許されているのさ」
「ゆうか、く……?」
「あれ、言ってなかったっけ。ここは男娼を何人も抱えている遊郭街だよ。トキはこの見世の楼主だった」
「男娼……?楼主……?」
「トキは躊躇っていたようだけどね、俺は君に楼主を継いで欲しいんだ、あまり」
天霧は尻餅をついていた私に手を差し伸べて笑った。面の目がいつの間にか晴れ模様に変わっていて、私を見て瞬いた。