2 消えたあまりの子
男が消えた後、私はしばらく放心していた。そのうち葬儀の参列者が一人、また一人と帰ってゆくのが分かった。車の音が遠ざかってゆくのだ。
気づいたら屋敷には雨の匂いが充満していて、降ってきたのかと悟る。
ふと、隣の部屋から物音がした。何の気なしに覗くと、父が何やら分厚い封筒を持って部屋から出てくるところだった。
「っっ!!」
「ッチ、お前か。驚かせるなよ」
そのまま通り過ぎようとする父を呼び止める。
「待って」
無視をする父になおも話しかける。
「それ、その封筒。おばあちゃんが私たちの養育費にって貯めてたやつだよね? 何勝手に全部持っていこうとしてるの」
私の言葉に、父は初めて振り向いた。
「長男と次男を育ててるのは俺だぞ」
何を白々しい。父親だったことなんて、ないくせに。
「百歩譲ってそうだとしても、私の分は?」
「お前には金持ちなオトーサンがいるだろうが」
「違う!!!」
私は初めて父に対して声を荒げた。
「違う、違う、違う!! それは、そのお金はおばあちゃんが私たちのために一生懸命貯めてくれてたの!!! お父さんとお母さんが私たちの面倒を見ないから!!! お父さんが働かないで遊び呆けているから、こんなことになったんでしょ!! そのお金も!! どうせ、くだらない事に使うに決まってる!!」
はぁ、はぁ、はぁ。全力疾走した時のように息が切れる。
父は、そんな私をしばらく見下ろしていたが、やがて長い長いため息をついた。
「あのなぁ」
それは、冷め切った声だった。ヒュッと心の臓が縮む。何故かは分からないけれど、怒鳴られるよりも恐ろしいことが起きると確信していた。
「お前が何で『あまり』って名前なのか知ってるか?」
「し、知らない……」
「最初から、お前は作るつもりなんてなかったんだよ」
一言一句、噛み締めるように言われて脳みそが固まる。
「お前は『いらない子』だから『余り』って名付けたんだよッ! いい加減、気付け!」
_頭の血が、全部足元に落ちてしまったみたいだった。
ふらふらと、床に崩れ落ちる。気づけば父の姿はなかった。
○●○
ぱらぱら、小雨が降っている。傘をさすほどではない。しゃがみこんで、嗚咽を押し殺した。声が響きやすい座敷にはいられないと外に出てきたけれど、外は外で余計惨めだ。誰も私のことなど見えていない。
いっそ大声を出してしまおうか。私の父はこんなに酷い男です、と大声で泣き喚けたらどんなに良いか。そうだ、そうしよう。立ち上がって口を開く。つもりが、出来なかった。
私の口をふさいだ何者かの手が、飴玉を押しこんできたからである。
「……!」
さっきの男だった。眉を顰めた男は、いつの間にやら私を衆人の目から庇うようにして立っていた。
「何があった。」
「うっ……ひっ…っっく、うう、っ、」
気づけば私は、男に縋り付いていた。
「おや、おや……困ったな」
本当に困った声音で男の手が二、三度、私の頭を円を描くように撫でくり、撫でくり、動く。えぐ、えぐ、と嗚咽が飴玉の隙間から漏れ、整った男の眉がますますハの字に寄った。
「君を連れて行かない約束をトキとしたというのに。これはあまりにも庇護欲を唆る」
男はまたトキ、と祖母を呼んだ。親しい年月を感じさせる呼び名だ。
「つ、れて、行ってくださ、ひっく、おねが、連れて、行って!」
舌をもつれさせて訴えると飴玉が踊った。熱くて甘い汁を喉の奥に押しやって、何度も縋る。そのうち歯があたり、わずらわしくなって噛み砕いた。破片の一つが舌を裂いた。
「ああほら、舌を痛めるだろう?そう必死にならずとも君の気持ちは伝わっているよ」
男は外套から竹の筒のようなものを取り出して私の口元に寄せた。すり、と親指で私の口の端を撫で、精進落としの席でしたように
「あ」
と口を開いてみせる。ほとんど反射で従っていた。水のようなそれを口に含んだ瞬間、雪のように飴の破片が溶ける。ごくん。水よりはとろみのある何かがゆっくり胃の腑に落ちてゆく間、ぼんやりと口の中で舌をもてあそんでいた。怪我をしたはずの口内はすっかり痛みを失っている。
男は私の口元を拭って、
「一緒に来る?」
砕けた口調で問うた。
「い」
行く、と頷くのもそこそこに抱き上げられる。
「捕まっていて。」
言われて、男の首に手を回した。同時に雨の匂いが濃くなる。くすり、さざなみのような笑みが彼の口元に浮かぶ。視界が高くなって、ゆら、ゆら、舟のように揺れる足どりが橋に近づいてゆく。
白くて立派な橋……あれ、あんなところに橋なんかあったっけ。
ふと祖母に言われた、とある言葉を思い出す。
__安易に橋を渡ってはいけないよ。もう戻って来られなくなってしまうからね。
「あ……」
男の足が、橋を踏んだ。咄嗟に彼の肩口越しに祖母の家を振り返る。父の運転する黒いセダンが、駐車場を出るところだった。
「まって、おとうさ……!」
手を伸ばす。視界が覆われる。
「見なくていい」
強い口調、押し戻される頭、真っ暗な視界。鼻腔に雨の匂いが入り込む。
「見なくていいよ」
もう一度、男は言った。くつくつと鼓膜を揺らしているのが、雨音なのか男の笑い声なのか分からなかった。