10 朝
いつになくスッキリとした目覚めだった。何だかベッドの感触がいつもと違うなと思いつつ床に降りようとして降りられず、はっと気づく。
そうだ私、遊郭にいるんだ。ベッドではなく布団から這い出してカーテンを開けようとしてまたはっとする。和室だからカーテンじゃない。垂れ下がる布の上げ方がよく分からず、諦めて金の盤が置いてある台へとペタペタ歩く。
瑠璃玉を教えてもらったように噛み砕いて歯を磨き、金の盤で洗面する。盤は私の意図を汲み取ったかのように大きくなってなみなみと水をたたえた。着替えようにも着替えは見当たらず、仕方なく諦める。
そういえば今何時なんだろう。誰かに聞けば着替えをくれるかな。百十三階に女の人…妖怪たちがいたのを思い出し、畳の下の階段を伝って百十三階へと向かう。
「あら、あらあらご楼主様! こんな朝早くに! っっまあ、そんな格好で!」
板敷きの廊下を盆を抱えて小走りに歩いていた女のひとが、私を見て目をむいた。
「あらご楼主様、まだ明け六つにもなりませんのに早起きだわねぇ」
別の女の人が欠伸を噛み殺しながら通りかかる。
「すみません、お着替えが欲しくって……」
「そうね、まずは着替えなくっちゃ。女の子がそんな格好でうろうろしてちゃいけないわあ」
一人の女の人に昨日のように和室に引っ張り込まれる。
「洗面も支度も、お部屋で待っていてくださればお手伝いしましたのに」
「目が覚めてしまって」
「そうね、そうだわねぇ。いきなり異界からやってきて、落ち着いていられないわよね。ご楼主様、昨晩は急に倒れるから冷や冷やしたのよ。身体なんか氷みたいになって」
「昨晩は色々とありがとうございました」
「困ったことがあればいつでも頼ってくれて構わないからねぇ。女同士の方が何かと相談しやすいでしょ?ここは特に、男のひとが多いから」
話している間にも、手際よく着替えさせられてぎゅぎゅっと着物の帯を締められた。昨晩とは違い、動きやすくて軽い生地だ。
「天霧様もちょーっと配慮に欠けるわよねぇ。ご楼主様も立派な女の子なのに、あんまり馴れ馴れしいのはいけないと思うわぁ」
それがすむと鏡台に座らされ、髪をくしけずられる。きちんと結われた女のひとの髪を見て、朝早くからこんなにきびきび動けるのはすごいとぼんやり思う。
「お姉さん方は、何をされてる方なんですか?」
「いやだ、もうお姉さんなんて歳じゃないわよぅ。でもそうねぇ、私らみたいなのは『女衆』って呼ばれてるわね。洗濯とか炊事とか、男のひとがやらないような雑用をやってるわぁ」
ぽんぽんと身支度を整えられ、あっという間に解放される。髪に桜と鞠の髪留めがつけられているのを見て、頬が赤くなった。女衆のひとが保管してくれていたのだろうか。初めての贈り物。大切にしなくては、とそっと触れていると、お姉さんが私の顔をじっと覗き込んできた。
「あまり様ってこうして見ても本当にトキ様には似ていないわよねぇ」
「そうなんですか?」
「ええ。トキ様はもっとこう…なんていうか…大人っぽい感じの方だったわ。色っぽいというか、女の私もほうっとなるような……」
「……。」
黙って私は自分の胸を触る。スカスカとした感触に白目を剥いていると、慌てたようにお姉さんは言った。
「あっ違う違う! あまり様がいけないってわけじゃないのよ?! あまり様はまだお若くていらっしゃるし、トキ様とは違うあどけない可愛らしさがありますもの!」
「……この胸がいけないんですか?それとも、この腰回りが…」
「意外と生々しいこと言うのねあなた。そうじゃなくて、あまり様はお祖父様似なのねって言いたいのよ」
「お祖父様?あっ、おじいちゃん?」
そういえば。祖父の話は一回も聞いたことがなかった。会ったことはもちろんないし、家族の誰も祖父の話をしなかったのだ。
「おじいちゃんを知ってるんですか?」
「ほんの数回、お姿を拝見しただけだけどね。大人っぽいトキ様とは違って、ふんわりあどけないお顔立ちで優しそうで…」
「はあ。」
「有り体に言えば『好み』だったのよっっっっっっ!」
「はあ…?」
「あッ、今の内緒ね?! こんなこと知られたら色んな人から睨まれちゃう。」
「はあ」
「良かったー!! あのね、つまりね、あまりちゃんの顔も『好み』なのよー!」
「は?」
「やだあまりちゃん、さっきから同じ反応ばっかり」
いつの間にか呼び方が『あまりちゃん』に変わっている。そしてなるほど何も分からない。祖母が色っぽくて祖父が好みで私があまり?
「ちょっとみつ。あんた着付けにどれだけ時間かかってるんだい。朝餉の支度、手伝っておくんな」
そこに、さっき欠伸をして通り過ぎていった別のお姉さんが障子をスパンと開け放って現れた。みつと呼ばれたお姉さんは、舌を出して決まり悪そうな表情をする。
「あらごめんなさいね。じゃああまりちゃん、また後でお話しましょ」
みつさんは小さな鴉に姿を変えて、弾丸のような速さで飛んでいってしまった。嘴から人間の声が聞こえて、ちょっとびっくりする。
「あまりちゃんすまないねえ。あの子、お喋りなのさ。適当にあしらわないといつまでも絡まれるよ」
「あはは…」
このお姉さんも私のことをあまりちゃんと呼んできた。正直『あまり様』と呼ばれるよりは距離が近くなったみたいで嬉しい。嬉しいけれど、楼主としてはどうなのだろうか。
○●○
「はぁーーーーー」
大きなため息をついて目の前の漬物をやけくそで齧る。美味しい。なんでこんな美味しいんだこれ。
「どうしたのあまり」
隣の天霧が、何やら帳簿のようなものから顔を上げて問うた。昨日とは違い、緞帳…ではなく軟障のみが上がった格子窓からは燦々(さんさん)と陽の光が降り注ぐ。相変わらずの青空だ。
「いや……このままじゃ私、この楼閣のマスコットキャラクターになりそうで……」
「ます……?」
「ご飯美味しい! 着付け完璧! 深雪花魁綺麗! 私だけ何もしてない!」
うわああああーっと天を仰ぎながら味噌汁を啜る。豆腐とワカメだけのシンプルな味噌汁なのに、家で食べていた味噌汁の何倍も美味しく感じるのは出汁が違うからだろうか。昨日から夕食を食べていなかった私の強欲な腹が、早く早くと急かす。真っ白で一粒一粒がつやつやと光っているご飯をかきこむと、『うまい米は喉越しが違う』と言っていた次兄の言葉の意味が分かるような気がした。
「天霧ッ! 仕事! 仕事ちょうだい!」
ぺろりとたいらげ、おかわり!の口調で天霧の方に掌を差し出すと、肩を揺らして笑われた。
「随分元気になったじゃないか。良かった良かった」
「元気!元気だからお仕事させてっ! 上げ膳据え膳で豚になるーっ!」
向こうに家にいた時でさえ、着替えも炊飯も洗い物も自分でしてたのに!頭を抱える私の前に、天霧は持っていた帳簿を差し出してきた。
「じゃあはい、今日の仕事」
「何これ?」
「うちの見世の娼の名簿だよ。昨日も言った通り、楼主にとって一番大切なのは男の管理だからね。手始めに、うちの娼たち皆の顔と名前を覚えてもらう。実際に部屋に行って軽く挨拶を交わしてね」
「こっ、これ全部…!?」
分厚い名簿にぎょっとする。
「そう。前から順番に、花魁、座敷持ち、部屋持ち。大体、人気順になっているかな」
帳簿の墨の跡にそっと触れてみる。毛筆は慣れないけれど、何とか解読できそうではあった。まあ一応、幸いにも、記憶は得意分野だ。
「名前の下に空欄の枠があるだろう?好きに書き込んでくれて構わないからね」
差し出されたのは、筆に小さな硯がくっついたような筆記具。
「か、書けない…そうだ、ボールペン! ボールペンとってきてもいい?私の制服のポケットの中にあったはず!」
すっかり失念していたけれど、ここのこういう文化にも慣れないといけないのだ。これは大変だぞ、と思いながら部屋の隅に畳んで置かれていた制服から慣れ親しんだボールペンを引っ張り出す。
「おやそれは……」
「へへ、おばあちゃんの!」
縮緬細工のボールペンは、祖母から貰ったものだった。
「懐かしいね。トキもよくそういった筆記具を使っていたよ。こちらの世界のものは面白いものも多いけれど、これだけは不便だって言っていつも帯の間に挟んでいた」
そうなのか。ではこのペンも、ここで使われたりしていたのかのかもしれない。祖母の仕事道具が側にあると、何となく心強かった。
「よし! 早速行こう! まずは……」
「深雪のところだね」
「うっ」
帳簿の一番初めにでかでかと書かれた『深雪』の名に早速心が挫けそうになる。あのひとにもう一度会うのか……。
「気合いですよ、ご楼主様」
どことなく楽しそうな天霧をじとりと睨みつけた。




