一章 五年の月日、変わり果てた世界
「おい。起きよ」
闇の中で呼ぶ声が聞こえてくる。懐かしい、少女の声だ。
「起きよ!今、世界は大変なことになっておるのじゃぞ!」
目の前が白い光に包まれる。あぁ、目覚めの時間だ。
アイリスは目を開く。目の前には見覚えのない天井が映った。
「お、ようやく起きたかい?」
家主らしき男性が水を持って部屋に入ってきた。今は何日だと尋ねると、あれから五年も経っていることを知った。
――確か、もうすぐで千年祭だったハズ。
そう思い、アイリスはベアテ大修道院に向かうと言い出した。男性は「今は修道院も荒廃している」と告げたが、それでも行かなければと修道院に向かった。
修道院に向かっている間、あまりに変わっている風景に驚きを隠せなかった。さらに驚いたのは、男性の言う通り修道院もかなり荒廃が進んでいた。そんな中、前にユーカリと共に来たあの塔に帝国軍が惨殺されているのが分かった。
――あの時と同じだな……。
ヴァイオレットの時を思い出す。彼女の時もこうして死体が転がっていた。
最上階にのぼる。月明かりの光が一角に差し込んでいた。そこには自分が知る頃よりも成長した教え子の姿があった。彼は気配を感じたのか顔を上げる。目の前のすっかり変わり果ててしまった王子ユーカリは血に濡れていて、あぁ、自分は罪を犯したのだと思った。
彼に近付き、その手を伸ばす。彼はそれを追いかけるように見ていたが、不意にそっぽを向いた。
「……お前まで、俺の前に現れるのか?」
そして、そう言ったのだ。どういう意味かすぐには理解出来なかったが、続いた言葉で分かった。
「お前達は、どこまでついてくる?」
あぁ、死者だと思われているのか。
「……大丈夫?」
そう聞くと、彼は目を見開く。目の前の彼女が生きていると認識したようだ。「お前、まさか生きて……」と呟き、睨みつける。
「ならば、貴様も帝国の狗か?俺を殺しに来たのか?」
「違うよ」
彼の質問をすぐに否定すると、彼は一瞬だけ安堵の色を見せた。
「無事でよかった、ユーカリ」
そう告げると、「……あぁ」と短い返事が返ってくる。
その時、階段をのぼる音が聞こえてきた。そして現れたのは自分より身長が伸びた、五年前と変わらない仮面をつけた妹分だった。
「ユーカリ様!ここにおられたんですか?……あ、先輩。……よかった、無事だったんですね」
ヴァイオレットはアイリスを見ると、嬉しそうな表情を浮かべた。アイリスも「君もね、ヴァイオレット」と笑いかけた。妹は最後に見た時より随分とやせ細っている。それで、この状態のユーカリをずっと支えていたことが分かった。
「……私がいない間、ユーカリを支えていてくれてありがとうね」
「いえ、当然のことをしたまでです。……それに、これを支えていた、と言えるか……」
ヴァイオレットはユーカリを見て、少し寂しげな表情になる。ヴァイオレット自身もかなり怪我していたり、返り血がついていたりしている。黒い服なのであまり目立たないだけだろう。
その時、ユーカリが動き始めた。二人は慌てて追いかける。聖堂はすっかり壊されていて、もはやガレキの山と化していた。
「どうしたの?ユーカリ」
アイリスが聞くと、彼は「分からないか?畜生の匂いがする」と答えた。「盗賊か帝国軍のことです」とヴァイオレットがアイリスに小声で伝える。
「確かに、血の臭いはするけど……」
「畜生共は一匹残らず殺さなければ……」
「……恐らく、近くにいると思いますが……」
ヴァイオレットは義賊だ、そういった気配には敏感ですぐに感じ取れる。もちろん始末するかしないかは依頼内容や己の判断次第なのだが……聞かなそうだ。
「同じ痛みを味あわせてやる。たとえ同じ畜生に落ちたとしても」
「……分かった、じゃあ行こうか」
アイリスは、この状況では生きていくために盗賊が現れてもおかしくないと思っているが、ユーカリの様子を見ている限り聞く耳を持たないだろうと判断した。
近くの廃墟に向かうと、そこは盗賊達のたまり場になっていた。
「……行きますよ」
こちらの戦力はたったの三人。だが、これだけでも勝てるプランがヴァイオレットには浮かんでいる。
「……先輩、ユーカリ様の傍に。恐らく彼は単身で突撃しますから、それについて行って」
「ヴァイオレットは?」
「盗賊退治なら一人でも慣れています。……それに、ここにいる大半の人達は元々普通の民。武術の心得一つない、ただ戦争によって生活が厳しくなってしまった人達です。だから一人でも助け出してあげたい」
「なるほど。分かった、それならいいよ」
そうして、二手に分かれて盗賊達を倒していく。
「ひっ……!ぎ、義賊様……!どうかお助けを……!」
「…………」
ギンッ!と命乞いをする盗賊の横に剣を突きたてる。
「……今なら、逃がしてやる。早く行け、ここに二度と来るな」
その言葉にはじかれたように盗賊は逃げ出す。しかし、そうならない盗賊もいて。
「このアマ……!なめたマネしやがって……!」
斧を持って斬りかかろうとしてきたが、その前に誰かが受け止める。赤色の髪……シルバーだ。
それに続けて、オキシペタルムクラッスの生徒達が集まってくる。残念ながら、ガザニアは来なかったが、かわりにオレンジ色の髪の老年騎士が来てくれた。
皆で盗賊を倒し、一か所に集まる。
「殿下!ご無事でしたか!」
オレンジ色の髪の老年騎士――アダリムがユーカリを見て嬉しそうに笑う。彼は元々王国騎士だったが、フレットの悲劇が起こった後主君を守れなかった自分が王国に仕える資格があるのかと疑問に感じ、妻子を置いてアリシャ騎士団に入団した騎士だった。
「アイリス先生もよくご無事で。……そちらのお方は?」
「彼女はヴァイオレット。義賊で私が戻ってくるまでユーカリを支え続けてくれた子です」
「え、あの義賊ヴァイオレットですか?」
アダリムがヴァイオレットを見て疑問符を浮かべると、アイリスが答えた。ヴァイオレットはペコリと頭を下げる。
「あー……この子、頭は軍師を務まるほどかなりいいんですけど、少し人見知りが激しくて……仕事の場合とかは普通に出来るので安心してください」
「……よろしくお願いします」
アイリスが必死のフォローをすると、ヴァイオレットは目線を逸らしながら一言だけ呟いた。……ヴァイオレットのこれは人見知りと言うのか怪しいところだが、そういうことにしておこう。話がややこしくなってしまう。
「ヴァイオレット殿に協力してもらえるのはありがたい。ぜひ、王国軍の参謀役になっていただけませんか?」
「別に構いませんよ。それから、敬語もおやめください。私は大した人間ではありませんから」
アダリムの頼みにヴァイオレットは即答する。それにアイリスは慌てる。
「本当にいいの?」
「戦争が終わらないことには人助けなんて出来ませんからね。それに私も王国の人間ですし、協力は惜しみませんよ」
ヴァイオレットが王国出身であることを知らない人達はその言葉に驚いた。フィルディアは「では、鍛錬につき合ってくれるのか?」と珍しく目を輝かせていた。
「なんでお前は驚いてないんだよ」
「俺は一度、手合わせしてもらったからな。その時に聞いた」
「あー、確かに何度か来てたな」
成長した教え子達を見て、アイリスは少し寂しさを覚えた。ユーカリやアドレイ、ヴァイオレットなんかは身長が自分より伸びているし、皆、体格が戦士のものになっていた。それだけ、五年間の月日が長く、戦争が激しかったということでもあるのだ。
ヴァイオレットは寂しそうにアイリスを見ていたが、それに気付く者はいなかった。
修道院に戻ると、ディアー達がアイリスの無事を喜んだ。アヤメはどうやら帝国に囚われてしまったらしい。教団はアヤメの捜索に尽力するそうだ。
夜はアイリスの帰還を祝うために全員が食堂に集まった。本当はヴァイオレットの歓迎会も兼ね備えられていたのだが、当の本人は来なかった。「ユーカリ様が心配だから」ということらしい。ヴァイオレットには事前に自己紹介をしているため、誰か分からないということはないと思う。
「でも、本当によかったわ~……先生が戻って来てくれて」
アンナが微笑むと、他の人達も頷いた。
「王国では、結構大変なことが起きていて。共和国に反対する王国貴族達は皆戦っていたんですよ」
そう言ったのはメーチェ。
「サライとアンナは教会に身を寄せていたみたいです。一年前から前線に出るようになったんですよ」
「あたし達も戦えたらよかったんですけど、やっぱり魔法使いだからって前線には出してもらえなくて。教会にいた時は負傷者の手当てをしていました」
アドレイとサライが言葉を続ける。……話を聞いていると、王国内でかなり変化があったようだ。
「ヨハン殿も手を回しているようですし、彼の孫娘も手を貸してくれているようです。ただ、まだ孫娘は戻っていないとのことで……」
アダリムが「こんな時、彼女がいたならば……」と呟くが、どうすることも出来ない。どこにいるかすら分からないのだから。ただ、王国のために動いているということだけしか知らない。
「私達もアヤメ様を探す傍ら手を貸すから、頼ってくれよ」
アンドレアの言葉に傍にいた女性――アイリーン=アシュベリーも頷く。彼女はアリシャ騎士団ではなく、アヤメ本人に仕えているらしい。
その傍にまだ若い青年が不安そうにしていた。彼はサイラス=アダムソンでヘオース王国の孤児らしい。幼い頃戦争で両親を失い、ディオース大陸で彷徨っていたところをアヤメに救われ、恩に報いるために仕えていたようだ。
ディアー、チェリーもアヤメを探すために軍に入るらしい。アンジェリカ、クリストファー、エイブラムも協力してくれるらしい。
――これ、ユーカリも聞くべきだよね……。
軍主は王子であるユーカリだ。だか、肝心の彼は今正気を失っている。ヴァイオレットは明日話せばいいとして、ユーカリにはどう伝えるべきか……。
悩みながら、アイリスは食事を口に含んだ。温かいハズなのに、少し冷たいと思った。
その夜、アドレイは外を散歩していると黒い影が歩いていた。
(ヴァイオレット……?)
こんな時間にどうしたのだろうとよく見てみると、頭から血が流れていた。
(――⁉)
まさか敵襲……?と思ったが、慌てている様子はない。むしろ、ホッとしているようなそんな雰囲気さえある。声をかけるべきか悩んだが、その前にヴァイオレットは割り当てられた部屋――アイリスの隣の部屋――に入った。
次の日、アイリスにそのことを告げると「分かった、気にかけておくよ」と頷いてくれた。
「あの子、すぐに無理してしまうから何かあったら何でも言ってほしい。本人に直接告げても構わないから」
「分かりました、僕の方でも気にかけておきます」
アイリスはこの後アダリムと話があるからとその場を去った。アドレイはそのまま聖堂に続く道を行くとヴァイオレットに会った。
「あ、ヴァイオレット」
「はい、何でしょうか?」
名前を呼ぶと、彼女は振り返る。自分より僅かに低いが、同じぐらいの身長なのにまだ十八なのだから驚きだ。
「えっと、どこに行こうとしていたの?」
昨日のことがあったので当たり障りのない質問を投げかける。彼女は「恐らく、ユーカリ様が聖堂にいらっしゃると思うので……誰かが彼の殺戮の止め役に努めないと……」と苦笑いを浮かべた。かなり苦労しているようだ。
そこで気付いた。ヴァイオレットの頭に裂傷痕があることを。しかも、割と新しいものだ。
「その怪我……!」
思わず呟いた言葉に少女は彼の視線が自分の頭に向いていることを知る。
「ん?あぁ、これですか?ただ転んだだけなので気にしなくて大丈夫ですよ。私、少しドジなところがありますから」
彼女は笑うが、そんなわけないとすぐに思う。戦場に出ているからこそ分かる、明らかにそれは人為的につけられた傷だ。だが、そんな苦しい言い訳を零す程、彼女は何かを隠したいのだろう。それなら、今はその意思を尊重したいとアドレイはあえてそれ以上は聞かなかった。
「その……殿下とはどんな話をしているの?」
話を逸らすように尋ねると、ヴァイオレットは少しホッとした表情を浮かべた。と言っても目元は白い仮面で隠されているのでちゃんとは見えないのだが。
「私がほぼ一方的に話しているだけですよ。戦術だったり、今まで旅してきたところの話だったり……とにかく、彼がこれ以上亡霊に苦しまないようにするために、今のうちに引き戻さないと」
彼が聞いているかは怪しいところですけどね、ともう一度苦笑いを浮かべた。……正直、彼女がここまでする理由が見つからない。
「……君はなんで、そこまで殿下を?」
その疑問をそのままぶつける。ヴァイオレットはキョトンとした後、「そうですね……」とどう言うか悩み、
「今の彼は昔の私、だからでしょうか」
そう答えた。昔の彼女……?とまた疑問に思っていると彼女は話し始めた。
「私もね、目の前で母と村の人達を殺されたんです。それで、私は彼と同じく……復讐に走った。でも、いくら死体を積み上げたところで私が楽になることはなかった。むしろ、死者達の声は悪化していくだけで……私は死を望むまでになった。それこそが唯一の救済なのだと、信じて疑わなかった。……確か、それが五つの時です。その後、私は先輩……アイリスと会って、変わった」
そこまで話して、ヴァイオレットは困ったように微笑む。
「……私の話など、つまらぬだけでしょう?」
「そんなことないよ。そうか……だから君は、殿下の苦しみを理解しているんだね」
「そう言ってもらえて安心しました。こんな話、他人にするものではありませんからね……」
すぐに否定すると、少女は本当に安心したように口元をあげた。同じ経験をしている彼女しかユーカリの痛み、苦しみ、無力感、絶望感……それらを完全に理解出来ないだろう。実際、彼女の話を聞いても完全には理解出来なかったのだから。
そうして会話をしていると、聖堂に着いた。ガレキの前にユーカリが立っている。
「ねぇ、あの人……」
「失礼だけど、亡霊みたいよね……」
「ずっと一人でブツブツ言っているし……」
「本当に、あの清廉な王子様なのかしら……」
周囲がこそこそ影口を言いながらユーカリを避ける中、ヴァイオレットは気にせず彼に近付く。
「ユーカリ様、またここにおられたんですね」
「……失せろ」
「全く……今日はいつからここにおられたんですか?昨夜部屋に送り届けたでしょう?」
「……お前には関係ないことだ」
「軍主であるあなたがそんな調子では他の兵士達に示しがつきませんよ。軍の士気にも関わってきます。……あぁ、そうです。ユーカリ様、昨日あの後、面白い戦術を見つけまして……」
散々罵倒されているが、ヴァイオレットは気にした様子もなく傍に居続ける。素直にすごいとアドレイは思った。自分なら、こんなこと出来ない。
数時間後、アイリスがヴァイオレットのところに来た。
「少しいいだろうか?今度の行軍について聞きたいことが……」
「大丈夫ですよ、そこの長椅子に座りましょう」
二人はユーカリが見える位置に座る。そして、ユーカリを見ながら話し始めた。ヴァイオレットは普通では思いつかない方法を出す。さすが天才軍師とも呼ばれているだけある。本当に頭がいい。
「ヴァイオレット、ユーカリを任せっきりですまない。せめて休日は私も彼の傍にいられるようにするから」
「いえ、先輩もお疲れでしょう。無理はなさらないで」
「君も休むように。軍と合流するまでユーカリを支えながら野宿を続けていたんでしょ?一度ちゃんと休息を入れた方がいいからね」
「一人増えたところで音を上げるほど、私はやわじゃないですよ」
「知っている。だから君がすぐに無理するということも。軍師の仕事もあるのに……」
「大丈夫、気にしないで。限界だと感じた時はすぐに言うから」
果たして本当に言うのか怪しいが、アイリスは一応納得することにした。次の仕事もあり、アイリスはその場から去る。それを見送り、ヴァイオレットは再びユーカリの隣に立った。
「よく傍にいられるわね、あの子……」
「怖くないのかしら……」
「恐ろしいわ……いくら義賊だからって……」
影口が聞こえているだろうに、ヴァイオレットは特に反論もせずユーカリに話しかけ続けている。それを見て、アドレイはギュッと手を握った。
……本当は、自分達が支えてあげなければいけなかったのに。
大人達も含めて、全ての役目と責任を彼女に背負わせてしまった。本当は級友である自分達が、彼を支えなければならなかったのに。誰よりも幼い彼女に押し付けてしまった。その罪悪感が心を支配する。彼女は「大丈夫」と言うかもしれないが、それでも。
「……ヴァイオレット、その……たまには甘えてもいいんだからね?一番年下なんだから」
アドレイが言うと、少女は微笑んで「ありがとうございます、気遣ってくれて」とお礼を言った。
「でも、私にそんなこと、許されないから」
仮面から覗く瞳は、少し寂しげだった。
一月、相変わらずヴァイオレットはユーカリの傍にいた。そこにアイリスも来る。二人が揃うと、まるで女神達が狂った王子の傍にいてくれているようだと他の人達は言った。
「ヴァイオレット、代わるよ。食事に行っておいで」
「あぁ、ありがとうございます。夕方には戻ってくるので、先輩も休める時に休んでくださいね」
ヴァイオレットと交代し、アイリスは教え子の傍に立つ。
「ユーカリ、明日盗賊を討伐しに行くんだけど、大丈夫そう?」
尋ねるが、ブツブツと呟いているだけ。どうやら亡霊とやらと話しているようだとアイリスは彼の背を優しく撫でる。
「……失せろ」
「消えたりしないよ。嫌なら、振り払えばいい」
そうやって離れずにいると、彼は虚ろな目を向ける。そこに少し安堵感も含まれていた。
――ごめんね、ユーカリ。
君を五年間も放っておいてしまって。これは私の罪だよ、だから許してほしいなんて言わない。
だけどせめて、君の傍にいさせて。
ヴァイオレットは一人で書類を見ながら食事をしていた。今後の行軍の予定表と地形、それから兵士達の意見などだ。食事は適当なものを食べている。
「ヴァイオレット、隣いいかな?」
そこにアドレイが来る。ヴァイオレットが「構いませんよ」と頷くと、彼は「ありがとう」と隣に座る。彼も食事に来たようだ。
「それだけで足りるの?」
アドレイはヴァイオレットの目の前にある食事を見て、尋ねた。彼がそういうのも無理はない。なぜなら彼女の目の前にはパンが一切れと少量のスープ、それから飲み物だけだったのだ。書類の方が多いまである。
「私、あまり食べないので……」
彼女はそう答えるが、明らかにそんな量ではない。やせ我慢……というわけでもなさそうだし、本当にあまり食べられないだけだろうが……戦場に出るのならもう少し食べた方がいい。
「ごめん、少しもらうね」
「あ、ちょっと……」
アドレイは彼女のスープを一口飲む。ヴァイオレットは慌てたが、もう遅い。
「これ、薄いよ。本当に味をつけてる?」
「あー……一応……?」
ほぼ味つけていないな。
反応を見て、すぐに気付く。彼女の行動は、幼い妹が何かやってしまった時と同じものだ。節約のためだろうか。
「全く……これは僕がもらうから、こっちの方を食べて」
アドレイは自分のスープを渡し、かわりにヴァイオレットのスープをもらう。いつも弟達においしいものをあげて、自分はこういったものを食べていたから慣れているのだ。
「我慢しなくていいんだから。遠慮せず食堂の材料を使って」
「あ、ありがとうございます」
彼は善意で言ったのだろう。だが、ヴァイオレットは別に我慢しているわけではない。
アドレイがくれたスープを一口含む。……しかし、温もりは感じられるけれど味などしなかった。当然だ、ヴァイオレットは母を目の前で失った後から味覚がなくなっていたのだから。
「……おいしいですよ。これ、アドレイさんが作ったんですか?」
だが、それを悟られぬように笑顔を浮かべる。彼は「よかった、今日はちょっと失敗したかもって思っていたんだ」と頬を赤く染める。
――あぁ、本当は彼がこれを食べるべきなのに。
僅かな罪悪感に苛まれる。味覚のない自分なんかより、味覚を楽しめる彼がこういったものを食べるべきだ。自分はもはや「味」というものさえも忘れてしまったのだから。
けれど、彼の善意は無下にしたくない。だから、嘘をつくのだ。「完璧な天才軍師」を演じるために。
次の日、盗賊退治に向かう。フィルディアが「その猪も連れて行くのか?」とアイリスとヴァイオレットに問いかける。
「一人で修道院に残しておく方が心配だし」
「私が傍にいる予定ですから、安心してください。皆さんに危害が加わりそうになったらすぐ止めますから」
二人に言われては従うしかない。フィルディアは不服そうにしながらも、それ以上は何も言ってこなかった。
盗賊退治は何人か逃がしてしまったが予定通り終わった。だが、ユーカリはなおも殺戮を繰り返そうとしていた。
「……先輩、皆を連れて先に修道院に戻っていてください。私は彼の傍に……」
「いや、私が行くよ。ヴァイオレット、最近あまり寝ていないでしょう?君は早く戻って休むといい」
「……分かりました、お言葉に甘えさせてもらいますね」
では、行きましょうかとヴァイオレットが皆を連れて修道院に戻る。アイリスはユーカリと一緒に逃げた盗賊を追いかけた。
途中、帝国軍の一人に出会ってしまった。そこでユーカリが完全に正気を失ってしまった。まるで獣のように、彼はその帝国兵士を殺してしまう。
「近くに畜生共がいるのか……」
そうして帝国兵士が来た方向に行こうとする。それをアイリスは腕を掴んで止めた。
「先生、止めるな」
彼は睨みつけるが、アイリスは怯まず彼を見つめる。やがてほだされたのか、それとも帝国軍に関心をなくしたのか、一緒に修道院に戻った。
修道院に戻り、ユーカリと共に聖堂に行くとヴァイオレットが長椅子に座って書類を見ていた。
「ヴァイオレット、休むようにって言ったでしょ?」
「あ、先輩。おかえり。どうしてもこの書類を片付けなくてはいけなくて……」
彼女の隣には山積みの書類。まさかそれを全て済ませようとしているのだろうか。
ユーカリは定位置に立ち、虚ろな目で亡霊達と話し出してしまう。アイリスは少女の隣に座った。ヴァイオレットのそれはいわゆる公務というものだった。
「これは……」
「あぁ、一応この戦争が終わったら領地に戻って嫡子になる予定ですから。祖父に仕事を押し付けられたんですよ」
そういえばこの子は貴族だったと思い出す。軍師の仕事に、公務に、ユーカリの世話……普通の人なら既に倒れていてもおかしくはない状況だ。だが、今やっている仕事をかわってあげることが出来るかと問われたら、答えはノーだ。
「えっと……今日は私がかわりにユーカリの面倒を見るから、君は部屋に戻っていいよ」
「え、ですが……」
「ここでやっても気が散るかもしれないでしょ?君、そんな非効率で無意味なことは嫌いなハズだよね?」
アイリスは本当に自分のことをよく知っていると思った。彼女の言う通り、ヴァイオレットは非効率で無意味なことは嫌いなのだ。どんなに意味がなさそうな作戦でも、必ず意味を見出している。無意味なことは絶対にしないし、それによって効率が悪くなったら後々面倒だから好きではない。そんな少女の性格を知っているので、正直な話、この状態のユーカリを五年も支えていたことに驚いているのだ。いつもの少女なら、もう放っておいていてもおかしくない。
――やっぱり、昔の自分と重ねているのかな……。
ユーカリはかつてのヴァイオレットだ。復讐心に駆られ、無差別に殺していく。……そうなってしまう程、二人共傷ついてしまったのだ。そして人々から恐れられる化け物になってしまった。
「……ごめん」
自分ではどうしようもないことだと分かっているが、それでも。ヴァイオレットを早く見つけてあげられたら、ユーカリの苦しみにいち早く気付いてあげられていたら。もしかしたら二人共、こんなになるまで壊れずにすんだかもしれないのに。
「……いいよ」
誰も聞いていないと思っていたが、ヴァイオレットは笑った。アイリスはハッと彼女を見るが、既に書類を持って部屋に戻っていた。
部屋の中でヴァイオレットは書類を片付ける。
「えっと……軍備も必要だけど民の生活も考えなくてはいけなくて……それから異民族の交流も……」
どこにどれだけこの少ない資金を充てるか、ヴァイオレットは頭を悩ませる。戦争を早く終わらせたいのであれば軍備にほとんどを充てるべきだが、それで民の生活をおろそかにするわけにはいかない。だからと言って戦争に負けるわけにはいかないわけだし……。悩ましいところだ。
次の行軍の資料を見る。……どの案だろうと、かなりの死者が出そうだ。これは戦争、傭兵団の時とはわけが違うが、死者を減らすことは出来る。ヴァイオレットは自分の案を書き出し、明日アダリムかアイリスに出そうと端に寄せる。
「ヴァイオレット……そろそろ寝たら?」
ユスティシーに言われ、窓の外を見る。……確かに暗くなっていた。ヴァイオレットは一度外に出て、アルフレッドの墓の前に立つ。
……寒い。
この程度の気温なら、ヴァイオレットは慣れている。この程度で寒いとは言わない。それでもそう感じるのは恐らく、ここに自分を導いてくれた人がいるからだろう。胸の奥にぽっかり穴が開いた気がする。
だが、いつまでも感傷に浸っているわけにもいかない。ヴァイオレットは部屋に戻り、ベッドに転がる。
しかし、いくら経っても眠気が来ない。死者の声に苛まれているからだ。こうなったら寝ようと努力するだけ無駄なので、起き上がり戦術書を読む。
結局、彼女が寝たのは四時過ぎだった。
ひそひそと、兵士や修道女達の声が聞こえてくる。そのどれもがユーカリを恐れるものだった。
そんなある日、帝国軍が攻めてきた。目的は修道院の占領だ。
「ヴァイオレットさん!どうしましょう!」
アダリムが慌ててヴァイオレットに尋ねる。彼女は「少し落ち着いてください」となだめる。よくこんなに冷静でいられるものだ。帝国軍はざっと数百人、対してこちらは百人いるかどうか。本来ならアダリムのように慌てるのが正解だ。
「兵はどれぐらい割けますか?」
「その……せいぜいここにいる二十人くらいかと……しかも殿下やヴァイオレットさんも前線に出るという前提で……さ、さすがに足りないですよね?」
アイリスを含む他の人達も不安そうにしていた。唯一ユーカリはすぐにでも殺しにかかりそうだった。そんな中、ヴァイオレットは口角をあげる。
「――いいえ、十分ですよ。むしろ私やユーカリ様が前線に出ることが出来るのなら好都合です」
それは、不敵な笑みだった。そして一分もしない内に、
「先輩、あなたはユーカリ様と一緒に先陣を切ってください。将軍は倒してくれて構いません。シルバーさん、フィルディアさん、メーチェさんは二人の後ろにつくように行動して。アダリムさんとエイブラムさんはサライさんとアドレイさん、アンナさんを連れて右へ行ってください。ディアー殿、チェリーさん、サイラスさん、アンドレアさん、アイリーンさんは左側を、クリストファーさんとアンジェリカさんはその後ろで援助を」
指示を出しながら、ヴァイオレットは槍を持つ。彼女は弓使いというイメージが強かったのだが、近付いてきた敵を、槍を振るって斬り捨てる。それは慣れている人の動きで、槍使いでもあることが分かった。
他の人達はヴァイオレットの指示通りの定位置について戦う。そこの相手は自分達にとって戦いやすかった。まさか、これを知っていて指示を出したのだろうか。
――これが、「天才軍師」と呼ばれる所以か。
すぐに判断し、少ない戦力でも勝利に導く。まるで神話の中の正義と武術の女神ユスティシーであるようだ。
帝国軍は倒され、ユーカリが将軍を捕らえる。他にも十数人が捕らえられた。
ユーカリはニヤリと悪人の笑みを浮かべ、将軍に拷問にも似たことをしようとした。それに気付き、ヴァイオレットは将軍を剣で斬り殺した。
「……何の真似だ?」
「見るに堪えなかっただけですよ。無意味な拷問は何も生み出さない」
「く……あはははは!あぁ、傑作だなぁ、義賊様?」
彼は槍をヴァイオレットの首横に刺す。普通の人ならそれで怯むだろうが、彼女はそうならず、むしろ堂々としていた。ユーカリは彼女の胸倉を掴む。
「俺を殺したいのなら、殺せばいい。お前は弱い者の味方だろう?」
「だからこそ、あなたに協力している。そうでなければとっくに別のところに行っていますよ」
ヴァイオレットの瞳はまっすぐ彼を見ていた。男よりも男らしい、さすがは義賊をやっていただけある。
ユーカリは、どこまでなら許されるのか測りかねているようだ。やがて舌打ちし、手を離す。
「先輩、一度戻りましょう。今の彼は何をするか分からない」
まるで何事もなかったかのように振る舞う彼女は、かつてヴァイオレットを支えたアイリスに似ていた。
夜、ヴァイオレットは聖堂で仕事をしながらユーカリの様子を見守っていた。一応部屋に戻るよう言っているが、今日は聞く気がないようだ。ガレキのところで寝てしまった彼にひざ掛けをかける。本当は自分が使う予定だったのだが、彼が風邪をひいたら大変だ。いざとなれば上着があるわけだし、気にすることでもない。
「ヴァイオレット」
その時、ディアーが呼びかけた。彼女は「どうしましたか?」と振り返る。彼は一度目を伏せ、
「……君は、どこまで知っている?」
「どこまで、とは?」
「とぼけるな。君は知っているハズだ、自分やアイリス先生のことも。闇に生きる者、だったか、奴らのことも」
その問いかけにヴァイオレットは目を閉じ、「一つ誤解しているようですが」と言葉を発する。
「私は確かに自分やアイリスの心臓が動いていないということも、私達に女神がついているということも、闇に生きる者……「トリスト」という集団の存在も知っています。ですが、ただ「その事実を知っている」だけです。なぜそうなっているのかは分かりません。だからこそ、今調べている」
そう答えると、少女の隣から僅かに光が見えた。
「いいの?そんなに話しても」
「大丈夫だよ、ユスティシー。多分、彼にはあなたの存在を「知られている」から」
ディアーには姿は見えないが、確かにそこに「いる」のだろう。――自分の叔母にあたる女神が。
そして目の前のこの少女も、自分達のいとこの魂が宿っている。かつて「グリュックリッヒ公国」の公王となった少女の魂が。
グリュックリッヒ公国は王国が出来る前にあった、小さな国だ。王国が建国されるにあたって一体化し、公王は王国貴族になった。だが、もし王国で何かあった時には「国王代理」として国を治める権利が残っている。
「……君がかわりに治めてやればいいのではないか?その権利があるだろう?」
「嫌ですよ。私は代理だろうと国王になりたくない。手伝うことはしますし、公務もしますけど、それ以上の深入りはしたくないんです」
「なぜだ?」
「……アネモネは、ディオースを「人間の世」に戻すためにこの戦争を起こした。私はそれを否定することは出来ない。私はアネモネにも賛同出来てしまう。だから、中途半端な立場の私が国を治めるより、歪んでいるとはいえ自分の意思をちゃんと持っているユーカリ様が治めた方がいい。……それに、「女神の器」が支配するのは嫌でしょう」
「君は人間だ、女神ではない」
「心臓の動かぬ者が、本当に人間と言えるのですか?……本当に、生き物だと言うのですか?」
ヴァイオレットは冷めた視線を向ける。……あぁ、アリシャは本当に罪をおかしてしまったのだと、ディアーは本当の意味で自覚した。
「……まぁ、いいです。明日も早い、もう寝たらいい」
書類に視線を落としながら言う姿は本当に「ユスティシー」だった。ディアーが動かないでいると、ヴァイオレットは顔を上げ、ディアーの頭を撫でた。
「眠れないのですか?私はユスティシーじゃないので添い寝は出来ませんが……せめて、これぐらいはしてあげましょう」
安心する声だと思った。無理しなくていい、私に頼ってくれたらいい、そう言われているみたいで。
「……すまない。叔母様、おやすみ」
だから思わず、昔のように少し甘えた声を出してしまった。ヴァイオレットの笑みは、かつてのユスティシーを思わせるものだった。