縁側の話し合い
それから二人で、というか、主に私がイッくんに泥を投げつけまくって、イッくんはそれをひたすら受けて泥人間になった。呆れ顔のばあちゃんに、
「ノリ子、ほどほどに言うたやろ」
と静かに怒られた時には、軽トラに乗ったおっちゃんが別の畑の草刈りから帰ってきて、私たちを面白そうに見ていた。
二人して黙ったままイッくんと微妙な距離をあけて並んで帰ったら、家の前でノッブが私たちに水をかけて泥を落としてくれた。ホースの水はまだ冷たくて、体が冷えた。
「懐かし。ねーちゃんと田んぼに水が入ったら、いっつも泥々になって転げ回ったもんな。あ、啓一義兄さん。長靴脱いで。足洗えん」
イッくんに水をかけるときだけ、ノッブが水圧を上げているように見えるのは気のせいか。
ほとんど泥を落とし終わった時、薪が燃える匂いがした。風呂場の煙突から白い煙が上がっている。母さんが風呂場の裏から、竹筒を持ったままやってきた。
「ノリ子、風呂沸かしといたから先入り。そしたらメグちゃんにお乳あげなよ。待っとるで」
風呂から上がって母家に戻る途中、メグの泣き声が聞こえてきた。この泣き方はお腹が空いてる時のだ。私はタオルで頭を巻いたまま、母屋に走った。
メグの泣き声に、憔悴していた日々を思い出す。でも今はメグのことが怖くなかった。うちに帰ったこの数日で、死にそうだと思っていたのが少しマシになっている。
メグを抱っこしておっぱいを咥えさせたら、目を見開いて飲み始めた。この温かさ、重み。しんどさに押しつぶされていた愛おしさが、むくむく膨らんでくる。
「よっぽどお腹が空いとったんやね」
ばあちゃんが座椅子に座ってメグの顔を覗いたけど、メグは見向きもしないで口を動かしている。
「なあ、ばあちゃん。子育てって難しかった?」
なんとなく、そんなことを聞いてみる。
「難しいことありゃせん。子どものこと、よう見とってみ。それだけじゃ。じいさんの方がよっぽど難しいわ。ありゃ、片付けせん人じゃけんな」
そういって顔を顰めた。ばあちゃんの顔の皺には、嬉しい皺とじいちゃんに怒ってる皺があった。じいちゃんはじいちゃんで「ばあさんはすぐに人のモン片付けてからに。どこに行ったかわからんわ」とプリプリ怒っているので、決着のつかない争いなのだろう。
ばあちゃんは働き者の手でメグの髪を撫でた。お腹が膨れてきたメグは、少し前からうつらうつらとして、思い出したようにお乳を吸ってを繰り返している。
あっちに帰ったら、こんな風に落ち着いて子どもを見れる気がしない。ばあちゃんにそう言ったら、
「しばらくこっちにでゆっくりしたらええが。じゃけど、啓一さんと話しなな」
イッくんと話するの、嫌だな。そう思ったのが顔に出たのだろう。ばあちゃんは私の方をじっと見た。これはばあちゃんが絶対に譲らないぞ、という時の癖のようなものだ。私も授乳しながら背筋が伸びる。
「ノリ子。子が出来たら、いやでも親になる。たった一つな、親は子のために腹を括らなな。なんぞええ事してやろうや思わんでええ。ちゃんと美味しいもん食べさせとったら大きなるきに」
「うん」
「じゃけどな、ノリ子が泣いて帰ってくるんは、どうにかせんとな。自分のことじゃ。啓一さんと話ししてこい、な?」
わかったよ、ばあちゃん。
大阪に帰ったら、話なんてゆっくり出来なくなる。家事もせんでいい。メグのことも誰か見てくれる、今しかないよね。
私は、すっかり眠ってしまったメグを抱っこしたまま、腹の括り方を考えていた。
夜になって、今日も縁側で星を見ていたら、ノッブじゃなくてイッくんがやってきた。隣に座ってもいいか、と聞かれたのでどうぞ、と返した。
「もう、飲み会終わり?」
「おじさんが潰れちゃったから」
イッくんが苦笑いした。
「イッくんは酔ってないの?」
「2杯くらいしか飲んでないから大丈夫」
「そっか」
しばらく沈黙が落ちた。山が黒い。星が煌々として、月がいない。
「メグ、よく寝てた。あっちではあんなに泣いてたのにな」
「そうだね。私もおんなじこと思った。ばあちゃんが、昼間によく遊ばせるから夜寝るんやろうって」
「ノリちゃんは、昼間遊ばせてなかったの?」
その、何気ないだろう疑問にカチンとくる。
「あのさ、イッくん。なんで私が怒ってるのか、全然わかってないね。無理なの、本当に無理なんだって」
「昼間家にいるのに?」
「想像力なさすぎ。あのね、4時間から6時間おきにメグにご飯あげて、オムツ替えて。掃除洗濯あなたのご飯。全部やってさ、その合間に1回は外に出なきゃと思って、買い物ついでに散歩に連れて行くのが精一杯なんだよ。わかる? メグが夜泣きするから、私はほとんど寝られてなかったし。この間なんて授乳しながらうたた寝しちゃって。危うくメグを膝から落とすところだったの!」
一気に捲し立てたら、イッくんが呆然とこっちを見ていた。え、そんなに大変なの、みたいな顔しないでほしい。マジで殴りたくなる。DVで捕まってる場合じゃないの、私にはメグがいるから。
「僕に出来ることがあったら……」
「ない」
被せるようにして、私は断言した。
「今まで全然話聞いてくれなかったじゃん。もう、イッくんに何も期待できない。何かやって欲しいって思えるほど、私、元気がないので!」
元気よく元気がないって言うのはどうなんだろう、と思ったけど、実際全然元気じゃない。メグのことが怖くなくなった分、今度はあの環境に帰るのが怖い。誰も助けてくれない、メグと二人だけの空間。ギリギリで耐えてるのに、例えばメグが熱出したらどうしようとか、逆に私が倒れたらどうしようとか。そんなことを想像すると限界だった。
明日で最終話、を事実にするために、本日2回目の更新です。
終わらなかった。がんばれノリちゃん。
いやいや、頑張ってるよ、ノリちゃんは!




