アイスの棒と狭い夜空
霰が降った夕方はのんびりしていた。
実家にはメグと遊びたい人がたくさんいる。じいちゃん、ばあちゃん、それにノッブ。遊ばなきゃいけない人じゃなくて、遊びたい人。
私が田んぼまで散歩に出ている間、みんなが代わるがわるメグを見てくれていた。出産からこれまでに、メグと離れたのなんて、病院だけだったかも。あの時は、赤ちゃんに会いたい気持ちが優って、抱っこするとその小ささと重さに毎回感動していたのに。授乳時間が待ち遠しかったのなんて、出産後どれくらいだったっけ。全然思い出せない。
畦道を端まで歩いてターンしたら、ばあちゃんとノッブが、メグをベビーカーに乗せて道の向こうを歩いているのが見えた。それは他人事みたいな風景だった。今、私はメグのところに行って、顔を見ようとか、抱っこしようとか、全然思ってない。誰か、私じゃない人が面倒見てくれててよかったって、酷いことを考えてる。
腱鞘炎になりかけた手が疼く。連日の短い睡眠時間に耐えた頭が重たい。
ほら、私はこんなに疲れててカワイソウなんです。だから誰かに任せたって、仕方がないんです。そんな言い訳ばかり探して。
夏至に向かう太陽は、六時前でも余裕で讃岐山脈の向こうに残っている。もう姿は見えないけれど、ズルいことばかり考える私を照らしているのだ。
「そういえばな、さっちゃん結婚したんよ。ほら、あんたの同級生の」
夕食後、母さんが洗い物をしながら、唐突にそんなことを言った。私は棒アイスを齧っていて、「ほうなん」と打った相槌がくぐもっていた。
「岐阜の方の人や言うてたわ」
だからどうした、と思わなくもない。田舎は狭く、情報量が少なく、しかし情報の伝達力はアナログ口伝方式ではダントツに速い。が、その内容はどうでもいい、ご近所版芸能ネタのようなものばかりだった。
「わたし岐阜は何回か行ったけど、あそこはええなぁ。四国の山に似とるから、さっちゃんも寂しないんちゃう?」
母さんはそんなことを言う。そうか、大阪とここはそういえば全然違う。私の住んでいる大阪は平地が多いし、山が低くて空が開けていた。間違いなくここよりは都会で、電車の音が目立つ。広いくせに息苦しいと思っていた。毎日育児と家事に追われる中、空が広すぎてしんどいだなんて、なんだか変だ。
「親戚で岐阜の方に行った人がおってな、あっちで会うたことがあるんやけど、その人も山が似てて住みやすいって言っとったわ」
「そうなんや、じゃあ、私のこれはホームシックかな」
「それは知らんけど」
かしゃん、と洗い桶の中で茶碗の音がする。
「啓一さんに連絡せんの?」
そんなこと言われても、連絡、しないといけない内容が思いつかない。イッくんは私がここにいると知っているし、それ以上何も言わなくていい気がする。
怒った私が家に帰った。怒っていることを理解してイッくんが謝ってくれる。今後、家事を手伝ってくれる、そういうことじゃない。私が欲しいのは、幸せを感じるためのルールか何かじゃない。
「うち、お父さんおらへんからなぁ。ノリ子に何もいえんな。それぞれの家にそれぞれの事情があるけん、とりあえず話できたらええな」
母さんはポットから急須にお湯を入れた。今年の5月に摘んだばかりの新茶だと言う。ノリ子も飲むか、と聞かれて授乳を理由に断った。
「やっぱり母親になったらちゃうなぁ」
嬉しそうに言われても、私の罪悪感は消えない。来年の新茶は一緒に飲もうな、という母さんの言葉に、棒アイスの棒を未練がましく齧りながら頷いた。
メグは夜泣きもせずにぐっすり寝ている。
私は座敷からそろりと縁側に出た。軒と山の影に挟まれた星空が見えた。縁側に座って星を眺めるなんて、いつぶりだろう。綺麗だなと思っていたら、ノッブが隣に来た。
「ねーちゃん、また山、見とんの」
「星やで、見とんのは」
「ほうなん? ねーちゃんはいつも、山見とるから、夜でもそうなんかと思った」
たしかに、星と一緒に見る山のシルエットは好きだ。山が黒くて、空は濃い藍色。最初は全部一緒に見えているけれど、暗闇に目が慣れた頃、その違いがはっきりと分かるのだ。最近はそういうのも見ていない。住んでいる場所から見えないのもあるけれど、空を見ようなんていう余裕すらなかった。
隣のノッブがなんだか神妙に、あのな、と言った。
「一回大阪のねーちゃん達の家に、僕が遊びに行ったことあるやろ。そん時な、なんや広い所じゃなぁって思ってん」
「あの、アパート?」
「ちゃう、大阪。平地多いじゃん、あそこ」
「うん」
「せこいじゃろ、あんなに広かったら」
『せこい』とは、ここら辺の言葉で『しんどい』という意味だ。頭の中でそれを確認するくらい、自分ちの言葉が遠くなっていた。
「うん、せこいな」
せこい、せこいと繰り返したら鼻がつんとして泣きたくなる。私には、この景色が焼き付いている。剣山をはじめとした、険しい四国山地が目の前に聳え立つ。その麓には吉野川。
多少の困難を越えるには何かの支えは必要で、あそこにはそれがない。支えもなく、この高い壁を越えろというのは、無理だ。
壁に当たりまくって大怪我の私を、イッくんは「仕事だからごめんね」の一言で捨てていく。私だけならまだしも、私の腕の中にはメグもいて、この子はあんたの子どもなんだけど。そう叫びたくなったのは一回や二回じゃない。
ごめんって言えば、現状のままであることを私が許さないといけないなんていう決まりはない。ないんだ。
「ええじゃん、しばらくおったら」
「……そうじゃね」
「で、啓一義兄さん、どうすんの」
「もう、離婚した方がええんかなぁ」
スルッと口に出て、こんなことを言う私に私がびっくりした。離婚なんて、考えてたんだ、私。
「うーん、分からん」
ノッブはちょっとも考えないで言った。私も覚悟していたわけではないので、ただ、うんと頷いた。覚悟がなくても、思っていることは言える。それを否定も肯定もしない、弟。
分からん、と言ってからしばらく、ノッブは何か考えているようだった。田の上を涼しい風が走ってきて、顔を撫ぜた。土の匂いが薄く広がる。
「今すぐ決めんで、ええんとちゃう? 僕、ねーちゃんの悩みは分からんけどさ。僕が農家しながらバイト行ってんのも、決めれんかったからじゃけん」
もう、長いこと一緒にいなかったノッブが、縁側で体育座りして前後に揺れている。
「決めれんかったけん、いるもん考えたんよね。僕、じいちゃんもばあちゃんが好きやし。田舎の付き合いはめんどくさい時もあるけど、近所の人みんな、小さい頃から知っとるおっちゃんおばちゃんばっかじゃろ。このめんどくさいの、僕らが小さい時やってくれてたんじゃなぁって思ったらな、僕もやれるところはやったろって」
「ノッブ、そんなこと考えてたなんて、おっきくなったなー」
「ねーちゃんが大阪行ってからもう、三年やで。僕やって変わるんじゃ」
照れたように鼻の頭を掻くノッブ。でも変わってないところもある。隣に並んでると、野球のキャッチボール相手をせがんできていた小学生の時を思い出す。日焼けして黒くなるのもそのままだし、私の事を心配してくれるのも。
「明日、土曜日じゃな」
「そうだね」
「義兄さんに『来い』ってメールしといた」
「あんたら、メル友?」
「そんなんちゃうけど、結婚式の前に、ノリでアドレス交換した」
「新学年の挨拶みたいやな」
「うん。僕、義兄さん好きじゃったけど、ねーちゃん泣かせるのは許せん」
ヒーローみたいなことを言ってくれるノッブに、私はなんだか恥ずかしくなって、はいはいありがとね、と空の方に向いた。星が幾つもキラキラと輝いて、水路を流れる水の音が絶え間なく囁き続けていた。




