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私はうちに帰ります

 マジでムリ。


 語呂がいいので、何度も唱えてしまう。目尻の涙の乾いた跡がパリパリと音を立てる、マジでムリ。


 岡山から香川を経て、土讃線のディーゼル機関車の匂いを嗅いだら、鼻の奥がツンとした。香川と徳島の県境。讃岐山脈を抜ける、長いトンネル。ワンマン列車のガラスにおでこをつけたら、真っ暗なガラスに私が映った。それから、メグ。

 抱っこ紐の中、生後半年の赤ちゃんは、昨晩の癇癪が嘘のように、すやすやと眠っている。夜通し泣き続けるメグを宥められたことなんてなかった。私ばっかり憔悴して。この子は、自分が生き延びるためのお乳をくれる私を殺そうと企んでいるのではないかと思うほどだった。


 それを夫であるイッくんに訴えても、仕事だからごめん、と言われ、何がごめんなのかと呆然としていたら、彼は私たちを見ようともせず、ドアの向こうに消えていく。

 それがもう、ひと月以上続いた今日、私は現金をひっつかみ、最低限の荷物とメグを連れて家から飛び出した。マジでムリ、と朝から優に百回は唱えていた。唱え続けて、新大阪駅。


 結婚前、実家から大阪に荷物を運んだ時、イッくんが運転する車で明石海峡大橋を渡った、なんて考えていたら腹が立って泣けてきたので、岡山までは新幹線の指定席を取った。ささやかな追加料金。


 新幹線の中から実家の母さんに「帰る」とメールをしたら「OK(猫マーク)」と返信があった。呑気だ。


 実家近くの無人駅で降りると、六月の湿気に枕木とレールが強く香った。眠ったままのメグが、外の空気に触れて、瞼に皺を作る。もうちょっとで着くよ、という気持ちを込めて、お尻をトントンとしてやると、瞼の皺が消えた。それでホッとする、私。

 メグが起きることが、少し怖い。またあんなに癇癪を起こして泣くのではないかと、この子に怖れを抱く自分が一番怖かった。


 私の実家は讃岐山脈と四国山地がせめぎ合うところにある。大阪から戻ってくると、空が少しばかり狭く感じる。吉野川に沿う平地は細く山近い。だから視界のどこかに山が入るのは、私にとっての普通だった。


 家までの道すがら空を見上げたら、梅雨曇りと初夏の山。緑がだんだん深くなる。東の空が黒く垂れていて、道には雨の足跡。梅雨の晴れ間に入ったのだと思った。


 家に着くと、中には誰もいなかった。そのかわり、家の前で赤いトラクターが、水の入った田をかき混ぜている。


 あれ、トラクターに乗ってるの、母さんじゃない、ノッブだ。おーい。


 トラクターがこちらに進行方向を変えたので手を振ったら、ノッブが控えめに手を振り返してくれた。

 トラクターの音が近付いてくる。初めての大きな機械音にも動じず、メグは抱っこ紐の中で寝ている。いつもこれくらい静かだったら、私、もっといいお母さんでいられたかも。メグのせいじゃないけど、私のせいでもない、こうなっているのは。


 急に視界がぼやけてくる。トラクターが目の前で止まった。ノッブがエンジンを切って、トラクターから降りてきた。


「ねーちゃん、どしたん。急じゃねぇ」

「うん、ちょっとね。どう、ばあちゃん達は元気にしとる?」

「元気すぎて困っとるよ」


  そう言って、ノッブは目を細めた。この春、高校を卒業したばかりの弟。まだ成長期なのか、以前より少し大きく感じた。


「おかえり、メグちゃん。よぅ肥えてんなぁ」


 ノッブの褒め言葉は、ばあちゃん譲りだ。メグを覗き込んだノッブの顔には、田んぼの泥が点々と飛んでいる。帰ってきたんだ、と思った。

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