恋愛ウロボロス
天界音楽さん主催
「二人だけの閉じた世界」企画 参加作品です。
家とは。
外行の仮面を取り、本当の自分に戻れる場所。要らない力と気を抜ける場所。
大多数の人にとって家とは、そういう場所だと俺は思う。
そんな場所に招き入れるのは、置いておくのは、外面の鎧を脱いでいられる人間なのだと。
俺は自宅前で足を止め、ポケットの底にへばりつく鍵を取り出した。鍵穴に差し込んで回す。
ガチャリ。手にかかる重み。
玄関のドアを開けると、今日も彼女に出迎えられた。
「おかえりなさい」
白い肌。長い黒髪。ふっくらとした赤い唇。長いまつげに縁取られたたれ目。
彼女が微笑むと口元のほくろも上に動いた。
「ご飯にする? それともお風呂? それとも……」
「飯にする」
彼女の言葉をさえぎった。三つ目の選択肢は選べない。だって彼女は。
ほっそりとした白い腕が俺の首に絡む。甘く濃密な香りが鼻腔から入り込み、俺を侵していく。
形のいい鼻が首に寄せられて、「すん」と小さな音を立てた。
「ねぇ、この臭い何?」
「バイトの女の子だよ。なんでもない、ただの後輩」
「……なんで臭いがつくほど側に寄ったの」
「そんなに寄ってな……い」
声の温度が下がる。彼女の手がシャツの襟元から入り込み、胸を撫でた。冷たい手に肌の温度を奪われ、小さく震える俺の背中に彼女の手が回った。
「嘘」
「……棚の上の物を取ってくれって言われて。彼女の後ろに立って取った」
「ほら、やっぱり」
背中に痛みが走った。彼女の爪が皮膚を浅く抉る。
「あなたは私のものよ。誰にも渡さない。ねえ、近づいただけ? 触れてない?」
カリ。カリカリ。
「いいえ、近づくのも駄目。触れるなんて許さない。目に入れるのも嫌。ねえ、触れてない? 色目は? ねえ」
カリカリ。ガリ。
「ねえ、ねえ、ねえ、ねえねえねえねえ……」
ガリガリガリ。
「やめろ!」
手を跳ね上げると、じくじくとした痛みを残して、彼女の手がシャツから抜ける。爪の中に入り込んだ赤が、やけに鮮やかだった。
「どうしたの?」
心底不思議そうなその顔が、しっとりと淫靡に濡れる瞳が、すぼめられた唇の紅さと肉感が、口元のほくろが、甘く熟れた香りが、俺の感覚をぞくぞくと撫でる。もう無理だ。
俺は、すぅっと後ろに下がって小さく傾けた彼女に追いすがり、その首に手をかけた。そのまま力をこめる。
「また、私、を、殺すの」
「うるさい! 何度でも殺してやる」
ひたりと吸い付いついてくる冷たい肌に、指をめり込ませる。
「ぐ……が……ぅ」
やがて彼女は動かなくなった。
俺はのろのろと彼女の上から退き、食卓へ向かう。用意された飯を食って寝た。
翌朝。
「おはよう」
何事もなかった顔で彼女が微笑む。俺は彼女の目を見ないようにして、おはようと返す。
食卓には湯気の立つ味噌汁。ご飯と焼き魚。
昨夜、否、昨夜も俺は確かに彼女を殺した。この手であの細首に手をかけて、絞め殺した。その感触は生々しく俺の手に残っている。
毎夜帰宅すれば、彼女が出迎え、あの問答があり、俺は彼女を殺す。朝になれば彼女は復活だかなんだかしていている。
一度目のあの日。彼女を殺してから。
情の深い女だった。女と長続きしない俺も、彼女とならずっとやっていける。そう直感した。
そしてそれは当たった。予想とは違う形で。
情と同じく、嫉妬深い女だった。少しでも俺に女が近づけば、陰湿に執拗に俺を責め立てた。
俺の首に腕を回し、耳元から毒のような罵りの言葉を注ぎ込み、俺の肌に歯形をつけ、爪で引っ掻く。俺の心と体に、俺は彼女だけのものだと刻む。
彼女に所有の証をつけられる度に、俺の背中はぞくぞくと震えた。傷跡が燃えた。
耐えられなくなった俺は、あの日とうとう……。
気がつくと玄関だった。無意識に靴を履いたところで、俺は回想の淵から戻る。靴に差し込んでいた指を抜き、俺はドアノブに手をかける。
「行ってきます」
扉を開けて外に出る。白い陽光に満ちた、アパート。もう一度開けるとき、また彼女に出迎えられる。
そして俺は、今夜も彼女を殺すだろう。
****
私は今、どんな顔をしているのだろう。
私の首に手をかけて、必死に力をこめる彼を、私は恍惚と見つめた。
ミシミシと骨が軋む。酸素が乏しくなった脳が、ふわふわと白い天国へ誘う。
ああ、こんなに一生懸命に。熱烈に私を見つめて。
彼の真剣な表情がたまらない。ずっと見ていたい。
きっと今、情けなくもだらしのない顔になっている。真っ赤になって、舌をはみださせ、よだれをたらして。焦点の合わない目で、あなたを、あなただけを見つめている。
あなたも同じ。私だけを見て、私だけを感じて、私だけに力を注いで。興奮に顔を紅潮させて、ぎらぎらとした視線を私に注ぎ、体を熱くしている。
二人が一心になって、この行為に全力を傾けている。この時を永遠に続けていたい。けれど彼が与える快楽が、それを許さない。
視界が暗くなって彼の顔が見えなくなっていく。ビクビクと意思に反して体が痙攣する。
文字通り、天に昇る。最高の瞬間。
幸福の絶頂で意識が途絶えた。
冷たく硬いフローリングの上で、私はだらしなく垂れていた舌をひっこめ、体を起こす。
口のはしにこびりついた血泡を手の甲で拭うと、元通りだった。
せっかくの愛の証なのに。彼の手の形の紫色も消えるのは、少し残念かもしれない。
死ぬ前と同じになった私は、薄暗い台所に向かう。彼の後片付けをして、朝食の準備をする。
ここは彼の家。私がここにいるからには、彼が過ごしやすいように。彼が気を抜けるように。剥き出しでいられるようにしてあげなくちゃ。
起きてきた彼に朝食をふるまい、甲斐甲斐しく世話を焼いて、送り出す。
「行ってきます」
玄関の扉が開かれる。もう一度開くとき、また彼を出迎える。そして私は今夜も彼に殺されるだろう。
必ず帰ってきてね。あなたを受け止められるのは私だけ。
永遠のループ。
蛇は尾を食べ続ける。
****
家を出た俺は、仕事場に向かい、バイトの女の子にわざと近づく。
口の端が上がる。愛想良くみえる笑顔でバイトの女の子に声をかけた。
「大丈夫? 分からないことがあったら何でも声かけてよ」
「ありがとうございます! はい。何でも質問します」
色づいた瞳を向ける女を、笑顔の仮面越しに眺めた。
お呼びじゃないんだよ。お前はただの道具だ。彼女に嫉妬させるための。
もう女は必要ない。俺の家には最高の彼女がいる。
何度殺しても復活する、死体の処理にも困らない、最高の彼女が。
ああ、彼女はどうするだろうか。
きっとまたすぐに気づいて嫉妬するだろう。また俺に爪を立てるだろう。
醜悪ナ嫉妬ノ炎ヲ燃ヤシ
俺ニ刻メ。
嫉妬に歪んだ彼女の顔は、誰よりも醜悪で、誰よりも美しい。
情の深い女だった。女と長続きしない俺も、彼女とならずっとやっていける。そう直感した。
そしてそれは当たった。予想とは違う形で。俺の予想以上に、理想の形で。
家とは。外行の仮面を取り、本当の自分に戻れる場所。要らない力と気を抜ける場所。
俺はそこに、彼女を置いた。
仕事を終えて家に帰れば、彼女が出迎えてくれる。
「おかえりなさい」
微笑むと口元のほくろも上に動く。
「今日は何してきたの? 他の女の臭いをつけてない?」
今日も俺は彼女を殺す。
永遠のループ。
蛇は尾を食べ続ける。