落ちてこない
通勤途中、ビルの上から垂れ下がっているロープを時々見かける。
ビルの窓ガラスの清掃だ。つい見かけると見上げて、窓ガラスの掃除をしている作業員を見てしまう。
作業員を見て、特に思うことはないのだが癖になっている。
その日も、ビルの上から垂れ下がっているロープに気付いた。
ロープを囲むようにカラーコーンで仕切られていて、ロープは微かに揺れている。今まさに作業中であることが分かる。
いつものようにロープを辿るようにして見上げてみた。
その時、何かが上から落ちて来る。上から下へと視界を過ぎるのは一瞬。それが何かは見えなかったが、分かってしまった。はっきりとは見えないものの、落ちて来たものの大きさ、そしてロープの先から落ちて来たということから、嫌でもそれが人だと理解してしまう。
鈍く響く地面との衝突音に、弾かれるように驚いて飛びのいた。
人が落ちた。事故だ。どれだけの高さから落ちたのか。怪我をしているかもしれない。死んでいるかもしれない。ああ、救急車を呼ばないといけない……そんなふうに、順番に思考しながら、携帯を取り出して連絡しようとする。
その際、落ちた人の状態を確認しようと、地面に目を向けた。
すると、そこにはカラーコーンに囲まれた垂れ下がるロープだけで、それ以外は何もなかった。
何かが落ちて来たことは間違いない。落ちるのを見て、地面にぶつかる衝突音も聞こえた。だが、地面には落ちて来たはずのものがない。
いったいどういうことかと、もう一度見上げてみる。そして目が合った。落ちて来た人と。
はっきりと落ちて来る人を見たのだ。声を上げて目を瞑る。先ほどと同じように、再び地面との衝突音が聞こえた。
ドクドクと心臓の音がうるさいほど加速し、呼吸が荒くなる。なんとか自分を落ち着かせて、地面を見る……が、何もない。確かに落ちて来たのを見たのに、何が起きているのか訳が分からない。
「あの……」
混乱して立ち尽くしていると、おそらく窓ガラスの清掃をする作業員の一人に声を掛けられる。
年季の入った作業服以外は、どこにでもいそうな中年の男性。混乱している自分はその男性の言葉に耳を傾けた。
「見えたんですか? 安心してくださいよ。今はもう落ちてきませんから。ああ、でも掃除している時は上を見ない方がいいですよ。あはははは」
自分が見たものを、この人は理解している。
あれはなんなのか尋ねてみたかったが、面白いことを語るかのように笑いながら話す男が不気味に感じて、さっさとその場を後にする。
それ以来、窓ガラスを清掃していることを示すロープが垂れ下がっているのを見ても、見上げることはしなくなった。
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