義母の名前
館は昨日より静かな気がした。
昼間の明るさの中なのに、冷たい空気。
義母は昨日と同じように、執務室にいた。
ノックに応え、
「どうぞ。」
と声がした。
紗椰は義母を正面から見る。
義母は、
「覚悟してきたようね。」
となぜか満足気につぶやき、立ち上がって紗椰の前に立つ。
「タリカラの紋章。」
紗椰が呟くように言うと、義母の体が微かにゆらぐ。
「アイビーがモチーフなんですね。花言葉は「不滅」「友情」」
「・・永遠の愛。」
義母がかすれた声でいう。
「父とは、なぜ、結婚を?」
「タリカラ名が出てくるということは、知っているのでしょう。私は、運が良かったのだと思います。途方に暮れていた時出会ったのが、あなたの父だったのだから。」
外交のため、めったに国をあけない父が、トラブル解決のために出向いた地。そこで、力尽きそうなタリカラの女性をみつけた。
「やっと、隠し事がなくなります。私は、名を颯華・タリカラというのです。」
「長の娘か・・!」
アオが小さく、驚いたように言った。
「タリカラの血を絶やすな、生きろ、と言われて、逃がされました。首の紋章があれほど誇らしかったのに、逃げてからは、焼ききってしまいたかった。」
今さらながら、義母の名を初めて聞いたことに驚く。
そうだ。紗椰は父の願いで、彼女を義母としか呼ばなかったから。
父も、君、としか呼ばなかった。
颯華は語る。
僕の妻になればいい、と父が言ったこと。
居場所が保証され、守られ、本当に感謝したこと。
紗椰のことも、可愛いと思っていたこと。
「あなたに、はは、と言われるのも、慣れると心地よかった。幸せだったと、思います。」
だが。
「あなたは、父を殺した、と言ったわ。なぜ?」
紗椰は核心に触れる。
「龍の番。龍の誓い。」
今度は義母、颯華がつぶやき、紗椰が僅かに動揺する。
颯華は知っている。
そして、父の死にはそれが関わっている?
「結婚したら命を奪われるなら、三人の生活はなかったはずでしょう?一体何が・・。」
「玲我が言っていました。誓いは命をかけたものだと。」
知らなかった。
彼が繰り返した、
「君に愛はあげられないよ」
という言葉の本当の意味を。
彼は亡くなった妻以外を愛せない。
過ごした時間、特に颯華が気持ちを自覚してからは、好意は伝わっていたはずだ。
だが、彼は一切手を出さなかった。
あの日、口づけの一線を越えてしまったから。
彼は命を失った。
「私は、血を絶やすな、と言われていました。その言葉も胸にありました。だから、彼の優しさに期待してしまったの。愛を得られるかもしれないと。」
知っていたら、隠し通したのに。何があっても、あんなことしなかったのに。
悪夢で目覚めた朝は泣きながら謝り続ける。
居場所を与えてくれたのに、身勝手な好意で命を奪った彼に。
唯一の肉親を奪った紗椰に。
何度も死んでしまいたかった。
だが、自分を逃がした人たちの声が、それを許さない。
玲我は、彼女を柔らかく追い詰めていった。
死の真相が颯華にあるとはっきり告げ、苦しめてから、あなたを苦しめているのは、龍の一族だとささやいた。
あなたは、親子の犠牲になったのだ、夢を見せたのは向こうなのだから、と優しく言い聞かせた。
違うと分かっていて、それにすがってしまった。
一方で、自分がこの国を守る砦だとも思った。
施政をしなければ。
いろいろな言い訳をして、生きようとしたのだ。
そして、とうとう、龍神への嫁入りという名の生け贄に、紗椰を追いやった。
見るたびに、罪を自覚して辛かったから。
責めようとしない姿は余計に自分を苦しめたから。
「こんな話を、娘としては聞きたくなかったでしょう。でも、貴女に流れる血は、同じ悲劇を生む可能性があることを、知るべきだとも思います。さあ、これで全てよ。貴女が私を終わらせるべきだわ。私はどこまでも、自分の身勝手で、貴女たちから何もかも奪ったのだから。」
「・・ねえ、アオ。なんで黙ってるの?もしかして、アオも知らないの?」
不意に、シロが口をはさんだ。
「玲我ってさあ。龍のこと、本当に中途半端に知ってるんだね。それが全てと思ってるんだから、一番たちが悪いや。僕、あいつ、キライ。」
紗椰は振り反る。今の救いのない告白は、まだ、全てではないのだろうか。
「何を意味するのかが、分からない。」
アオはは必死に考えているようだった。
「違うでしょ。導きだされることが、紗椰ちゃんを傷つけないかを考えてるんだ。」
紗椰はアオを見つめる。
「アオさん。それが本当なら、もう、大丈夫です。まだ真実があるなら、教えて。」
アオは、言葉を選んで話し始めた。
「今の話で、腑に落ちないことがまだ、一つある。」