かわりたい
過去を払拭する。
何度も何度もそう誓ったけれど、過去はそんなに甘くはなかった。
それは僕を何度も何度も捕えて、縛り付けては離し、そしてまた鬼ごっこのオニのように僕の肩に手を置く。僕の日常を蝕んでいく。
そして今日も、何度も何度も願いながら歩く。
新しい自分になるのだと。
「おい! お前、今オレ見て逃げただろ」
まただ。また始ってしまった。
「ちょっ、ほら、逃げるなよ」
ヘヘヘ、とせせら笑う卑しげな男の声が複数、うつむいたまま早足になった僕の前に立ちはだかる。
仕方なく立ち止まって顔を上げると、オールバックの髪を赤く染めて下卑た笑いを浮かべている大柄な男と、同じくオールバックの髪をこちらは黄色に染めた、頬に龍の入れ墨が入った中肉中背の目つきの悪い男が、二人揃って目の前に壁のように反り立っていた。ふと彼らの足元を見ると、上靴の側面の色がいずれもペンキをそのまま塗りたくったような緑色だった。
どうやら上級生――二年生のようだ。
「お前さぁー、なーにイキがっちゃってんの? え?」
赤髪が僕の腰元あたりを指して、剃り上げてほとんどない眉を吊り上げる。どうやら、僕のチェーンのついたメタリックな財布が気に入らないらしい。「これは別にイキがってるわけじゃないんですよ」なんて言い訳は通用しそうもないし、「ただ放課後の校内を歩いていただけなんです」という必死の訴えも聞いてくれそうにない。
中学時代の苦い経験から、とにかくここは逃げようと素早く判断した僕は、赤髪と黄髪の威圧から逃れるように、廊下の硬いタイルの上をこすって一歩下がる。
「おいおい何してるんだ?」という落ち着いた声が背後から聞こえた。
急いで後ろを振り向くと、いかにも優男という感じの人の良い顔をした男子生徒が中央階段を登り切り、困ったような笑みを浮かべながらこちらへ近づいてきた。
「困るなぁ。こんな時間に学校で喧嘩なんて…」
すぐに彼の足元を見ると、鮮やかなオレンジ色の側面が輝いて見えた。
――助かった。
僕は一見してその痩せて所在無げな、そしてなんだか申し訳なさそうに話す彼の上靴を見て安心する。
――三年生だ。
この学校では上下関係がとても厳しい。上級生が下級生に命じてパシリにしたり、無茶をさせることはあるが、下級生が上級生に命令することは絶対に許されないのだ。もし万が一それが発覚した時は、四の五の言わず退学、と校則で決まっている。だから、この優男さんがたとえどんなに弱くても、たとえどんなに頼りなくても、ただ一言、「やめなさい」と言えばそれで終わるのだ。
振り返ると赤髪と黄髪はいかにも残念そうな顔をして、まるで上靴が悪いんだとでも言わんばかりに自分の足元を睨みつけている。
「わかってるとは思うけど、僕は三年生だからね」
そうです。あなたは三年生です。神様。
こちらへゆっくりと歩きながら言った、優男さんのとどめの一言に、黄髪が小さく舌打ちしたのが聞こえた。
「それじゃあキミ」
もはや威光をたたえた優男さんが僕の隣に立つ。改めて見た彼の姿は、何万倍にも頼もしく、その弱々しい体躯も、情けなさ気な下がり眉も、おかめのように垂れ下がった目さえもが、自分を助ける救いの神のようにキラキラ輝いているように感じられた。
それだけに、自分の左足に鋭い痛みを感じた瞬間は何が起こったのか、まったくわけがわからなかった。
「ちょっと……ストレスの処理に使わせてくれない?」
アッ! という自分のうめき声がなんだかひどく間抜けなものに聞こえた。それと同時に僕は、僕の足を薄笑いを浮かべながら何度も踏みつけてくる優男から、霧が霧散していくように、希望の光が取り払われていくのを感じた。赤髪と黄髪のにやついた顔が戻る。
――ああ、やっぱりそうなのか。
「君たちもどう? ストレス溜まってるんだろ?」
――結局いつもこうなんだ。
「しかし意外と倒れないね。踏まれ慣れてるのかな?」
――誰も助けてはくれないんだ。
「踏み心地もイマイチかなぁ…。キミさ、靴脱いでよ」
――誰も救ってはくれないんだ。
「ねぇ、何ぼーっとしてんの? 耳切っちゃうかい?」
――自分を救う人間なんて…
「キミ達、ハサミ持ってない? いまから使うからさ」
――存在しないんだ。
痛みはどんどん鋭さを増し、やがて慢性的な痛みへと変わっていく。見ると、靴の表面を覆う網のような部分が破け、中から繊維の切れ端のようなものが無残に飛び出ている。おそらくもう直らないだろう。一年生の証である黒いインクが削られて、サッカーボールのようにちぐはぐになっているのがやけに自分の心に突き刺さる。
笑い声が聞こえる。誰のものかはわからない。ヒーヒー、というその声がノイズのように、耳を貫く。頭で反響する。脳内を這いずり回る。ぼやけた視界に赤髪と黄髪が映る。嬉しそうに寄って来る。そして――
アアアアアアアアアァァァァァァァァ!!!!!!!
悲痛な叫び声が四方八方から上がる。
優男が倒れている。
赤髪が倒れている。
黄髪が跪いている。
「あああああぁぁぁぁぁぁぁーーーー痛かったなぁー」
僕の狂気を含んだような声が放課後の校内に響き渡る。
「ホントぉーーーに痛かったなぁ。なぁ黄色い奴!」
訊かれた黄髪は、先が錆びかかって黒ずんだ裁断バサミを右手に持ったまま、呆然と僕を見上げている。
「オマエ、そのハサミでオレの耳を切ろうとしたわけ? バッカじゃねぇの? そんなの持ってきたらどうなるかわかってんの?」
黄髪が放心状態のままかぶりを振る。
「オマエの耳、切られるに決まってんじゃん」
僕はそう告げ、こちらを見つめたまま動かない黄髪の手からあっさりとハサミを取り上げると、その小さなアンテナのように立った右耳を黒い刃の間に入れ、なんのためらいもなく二つの刃を合わせた。
切れ味は――悪かった。
過去を払拭する。
暴力に明け暮れた過去を払拭する。
何度も何度もそう誓ったけれど、何度も何度も暴れまわった過去は、そんなに簡単には消えてはくれない。
それは僕を何度も何度も捕えて、縛り付けては離し、そしてまた抑制を失った精神が、過去を懐かしむように僕の肩に手を置く。僕の平和な日常を蝕んでいく。
そして今日も、何度も何度も願いながら歩く。
二度と暴力を振るわないのだと。
傷つけないようになるのだと。
新しい自分になるのだと。