信濃山荘
腕時計を見ると針は夕刻の5時過ぎを指していた。
駅からバスで20分ほど、まだ雪の残る森の中のバス停に降りる。緩やかな坂道をさらに15分ほど歩く、湿った冷たい風が容赦なく頬に当たる。
琴は一瞬立ち止まり、かじかんだ右手を口にあて息で手を温めた。ふと思いついて右手で左手の甲をつねってみる。だらりと垂れた左手の指先は痛みどころか寒さすら感じなかった。あらためてその事を思い知り、琴の目から一筋の涙がこぼれた。右手で涙をぬぐい、再び歩き出す。森が途切れ視界が少し開けた。ウッドデッキが印象的な木造の建物が目に入る、入口まで近づくと大きな木の看板が琴を迎えた。
《ユースホステル 信濃山荘》
扉を押すとドアにつけてある乾いた鈴の音が静寂を柔らかく破る。
フロントに人の気配はなかった。木の香りのする小さなカウンターの奥の壁には「お帰りなさい」の大きな文字と共に宿のペアレントとともに手を振る若者たちのポスター、ユースホステルの振興やPRといったものらしい。
「こんにちは」
聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で琴は自分の存在を知らせる。
玄関横にある受付らしき部屋から、50代くらいの白髪交じりの男が赤いエプロン姿で琴の声に明るく応えた。
「はい、こんにちは!」
「予約しました村上です」
「ええーと、ああ村上琴さんだね、お帰りなさい」
「えっ、初めて泊まるんですけど」
「ユースは初めて?」
「はい」
「ユースホステルはホステラー、あ、泊りに来てくれる人のことね、みんな家族と思って接するんだよ、だから到着した時はお帰りなさい、出発するときは行ってらっしゃい」
「そうなんですか」
「何だか元気ないね、疲れたのかい?」
「いえ・・」
「今日は平日でほとんど貸し切りみたいなもんだから気を遣わずにゆっくり休めばいいから。この宿泊名簿に記入して、それからこの紙に書いてあることをよく読んでおいて下さい、夕食は6時から、お風呂は10時までならいつでもどうぞ、よかったらもう入れるからね。初めてってことだけど、ベッドメイクや食事はセルフサービスなのでよろしく、何かわからないことがあったら僕に聞いて下さい」
「わかりました」
右ひじで用紙を押さえながら宿泊名簿をぎこちなく記入した後、琴は重い足取りで部屋へと向かう。泊り客がほとんどいないことが今の琴にほんの少しの安堵を与えた。
指定された部屋に入る、8人の相部屋、2段ベッドが4つ、琴はその一つに荷物を置くと、窓の開けて外の景色を眺めてみた。薄暗い雲の下にぼんやりと南アルプスの山並みが連なる。鈍色の空の色があたかも自分の気持ちを映し出しているかのように感じる。
「ねえ、あなた、ちょっと話があるの」
夕食後の食卓で優子はおもむろに話しかけた。夫の敏弘は食事を終えると新聞を読みながらゆっくりとした時間を過ごすのが日課だ、優子はその時間を待っていたかのようにお茶を注ぎながら語りかけた。
「何だ」
「琴がね、旅行に行っていいかって」
「旅行・・誰と?」
「それが、一人でだっていうの」
「どこに行くんだ?」
「信濃だって」
敏弘は少し考えたあとおもむろに口を開いた。
「いいだろう、行かせてやれ」
その言葉に優子は一瞬とまどう。
「でも、もし何かあったら・・」
優子の心の中では絶望にさいなまれた琴が思いつめて自らを追い込んでしまう不安がぬぐえなかった。今の様子を見ている限り、できる事なら24時間ずっとそばで見守っていてやりたい、それが本心だった。敏弘はそんな優子の心の内を見透かすかのように妻の顔をみつめ落ち着いた口調で話した。
「お前の心配はわかるよ、オレだって今の話を聞いたとき、正直ドキっとした。でも、今の琴の様子は家にいるお前が一番わかってるよな」
「ええ、病院の診断を聞いてから、部屋にこもりっきりで、ろくに食事もしてない」
「このまま部屋の中に引きこもってたらそれこそどうなると思う?」
「・・・」
「診断のあと初めて自分から何かをしたいと言い出したんだ、思い通りにさせてやろう」
「でも、まさか思いつめて・・」
「本当に死ぬ気なら親に相談なんかしない、オレなら誰にも言わずに家出する」
「ああ、もう胃が痛いわ」
「信濃なら電車で30分だ、どこに泊まるんだ」
「南アルプスのユースホステルだって」
「それなら安心だ、高校2年生の女の子が一人で泊まれるところなんてほかにはそうないからな」
「じゃあ、行かせていいのね」
「ああ、そのほうがいいと思う。ただし、始業式までに帰ってくることと、それから1日最低一回はメールを寄こすこと、その2つだけは約束させてくれ、あと防犯ブザーか笛を持たせよう」
「わかったわ」
優子はようやく自分を納得させるかのようにゆっくりとうなずいた。
窓の外の景色を眺めながら、琴は自問自答を繰り返した。
(私はこれからどうしたらいいの?コンクールには出られない、留学もできない、いや、きっとこの先もう永遠にピアノは弾けない、ピアノばかりかずっと左手が動かないまま生きていかなくてはいけない)
自分の心を奮い立たせようとするが、未来を想像するとすぐに気持ちが崩れ落ちた。
ピアノが友達だった琴にとって、ピアノを奪われることはどうしても受け容れ難い事だった、例えば、足が動かなくなっても、目が見えなくなっても、その方がまだましだ、不謹慎かもしれないがそんなことすら琴は思った。
気が付くと山並みはすっかり闇の中へと溶け込んでいた。
窓を閉めてあらためて荷物整理とベッドメイクを始める。慣れない右手だけでベッドにシーツを敷くのに思いのほか時間がかかった。ほどなく部屋のスピーカーから放送が流れた。
「夕食の準備ができました、食堂にいらしてください」
さっき、受付で話した主人の声、ユースではペアレントと言うらしい、悪く言えばのんき、しかし温かみのある口調が琴の心を少しだけ癒した。
琴は部屋に出て食堂に向かう、部屋を出てすぐとなりがミーティングルーム、ここからは男女共用のスペースになる、その隣の図書室を過ぎると玄関を越えた奥が食堂だった。
ユース全体は木目調に統一され、食堂も山小屋をイメージして、隅には小さな暖炉まである。思ったよりも広い、テーブルが15くらい、満席になれば60人は座れるほどの広さだ。広いだけにほとんど泊り客のいないこの日の雰囲気は閑散として薄ら淋しい。
テーブルに一人だけ先客がいる、30代くらいの男が入口近くの席に静かに座っている。琴は通りがけに思い切って声をかけてみた。
「こんばんは」
返事はない、男は暗い表情でうつむきながら静かにスープを口に運ぶ。
(陰気な人・・)
琴はそう感じて、夕食の乗った皿を受け取ると男からわざと離れた席に腰を掛けた。
広い食堂には男と琴の二人だけだ、BGMのクラシック音楽がかすかに流れる中、琴は気になってもう一度男の方に目を向ける。男はあいかわらず、下を向き、何とも言えぬ陰鬱な顔で黙々とスープをすすっていた。それは食事を楽しむというよりも食事という仕事を仕方なしにこなしている、そんな感じすらうける光景だった。
(やっぱり気味が悪いわ)
琴はまだ慣れ切っていない右手だけの食事を始めた、周りに人がいないことが何よりの救いだ。誰かがいれば、その不自由そうな姿に必ず好意で誰かが声をかけてくるだろう、そうした好意を快く受け入れる心の余裕が今の琴にはまだない、自由に動く左手を見ると羨望、いや嫉妬や妬みの気持ちすら湧いてくる。
今の琴には醜い思いを抑え込むことができない、話しかけられても事情を説明することが苦痛だ、もしも同情などされようものなら泣き叫び、相手に当たり散らすかもしれない。
(よかった、人がいなくて・・・)
ユースは一人旅のホステラー同士の出会いの場でもある、本来ならば泊り客が少なければ少ないほどコミュニケーションも濃密になりがちだ。琴にとってはたった一人の同宿の「仲間」が部屋を別にする男性客であり、なおかつ琴に話しかけてくることがないことに淋しさよりも安堵感を抱かせるのだった。
ゆっくりと食事を終えると自分の食器を洗い、食堂の出口へと向かう。男はまだ食事を終えることなくテーブルに座っていた。
男の横を通り過ぎる時、琴は誰とも話したくないという気持ちとは裏腹に、もう一度だけ男に小さく声をかけてみた、その暗く、哀愁に満ちた表情がどうしても気になり、そうせざるを得なかったのだ。
「お先に失礼します・・」
すると、男は初めて顔を上げ、琴の顔を見た。そしてかすかに会釈をしたように見える、しかし、顔の表情はそのままで再びうつむきながら静かに食事を続けた。
(もしかすると私もあの人と同じ顔をしているのかもしれない・・・)
琴はそんな思いを胸に男から視線を戻した。
食堂を出てベッドルームへ向かう、途中の部屋をそれとなく覗いてみた。
図書室は中央に囲炉裏があり、その周りの板の間には座布団、部屋を囲むように本棚がありガイドブックや小説、漫画の類が並べられている、ここで寝ころびながら読書を楽しむのだろう。
隣のミーティングルームは一見会議室のようだった、長机が四角く配置されている、会議室と違うのは奥に小さなステージのようなスペースがあることだった。おそらく、机をどけてできる広い空間が客席となり、ステージではユースホステルならではの様々なイベントが行われるのだろう。
部屋の壁には色々な掲示物が貼られている。バスの時刻表、駅の時刻表、観光用の地図やポスター、ホステラーから寄せられた手紙、八ヶ岳と高原植物の写真、先刻会ったペアレントを描いたらしい大きな似顔絵もあった。奥さんの絵がないところを見ると独身なのかもしれない。
普段の状態で来たならば、どれも琴の心を楽しませてくれる素敵なデコレーションなのだろう、普段の状態であれば・・・しかし、今はその色彩が色あせて見える。
部屋に戻った琴がドアを開け、自分のベッドに目を向けた時だった、何か先程と違った違和感が・・・
そこには人の気配があった。
一瞬足を止めた琴は一つ深呼吸をすると、おもむろに部屋の奥へと足を踏み入れた。