絶望
「琴、夕ご飯よ」
ドア越しに声をかけた優子は返事がないことに少しためらった後、もう一度言葉を絞り出した。
「入るわよ」
ドアを開けて琴の部屋に入る。読書灯だけの薄暗い部屋の中から返事は聞こえない。
「琴、夕飯できたわ、あなたの好きな炊き込みご飯」
ベッドには布団にくるまったまま背を向ける琴の姿があった。
「いらっしゃい、お父さんも心配して待ってるのよ」
「・・・食べたくない」
「あなたの気持ちは分かるけど、この1週間ろくに食べてないじゃない、体壊しちゃうわ、ね、少しだけでも一緒に食べよ」
優子の言葉を聞いたその瞬間、思わず琴はベッドから起き上がり優子に向けて叫ぶ。
「私の気持ちが分かるわけないじゃない!何でお母さんに私の気持ちが分かるの!勝手なこと言わないで!」
「琴・・」
「私のこれまでの17年は何だったの?どうして私にピアノなんて習わせたの?出てって!とにかく出てって!」
つらい気持ちを抑え部屋を出た優子は、伏し目がちに敏弘につぶやいた。
「やっぱり駄目、どうしたらいいの・・」
「仕方ないさ、あいつにとってどれだけつらいことなのか、たかが1週間じゃ、どうにもならないんだよ、おれたちにできることはあいつを信じて見守るだけだ、お母さんもつらいだろうけど、もうしばらくそっとしてやろう」
「でも、あの子ほとんど食事をしてない、心ばかりか体だって・・・」
「うん、とにかく今は我慢だ、おれたちが泣いちゃだめだぞ、わかったな」
敏弘は優子の肩に手をかけ少し力を入れ諭すように話した。
「ええ」
それは一週間前の事である。
「先生、どういうことですか?」
「うそをついても仕方がないので正直にお伝えします、くまなく検査したんですが・・原因が分からないんです」
「わからないって・・左手が動かないんですよ、素人考えですけど、例えば、血管が詰まったとか、神経がどうだとか、そう、右の脳に異常があると左半身が動かなくなるとか」
「お父さん、琴さん、聞いてください。すべて調べました、神経も、血管も、もちろん脳の状態も、しかし、どこにも異常がない、私も初めての症例です」
「そんな、じゃあ、治療は?」
「まずは原因をつきとめなければ治療も始められません」
凍りついた空気を琴の声が鋭く切り裂いた。
「私の手はもうだめなんですか?ピアノを弾けなくなるんですか!」
「落ち着いて、琴さん。だめと決まったわけじゃない、さっきも言ったように原因が見つからないんだ、じっくり時間をかけて僕が必ず見つけて見せる」
里見というまだ若い医師は琴の目を見て諭すように話した。原因を見つけられなかった事に申し訳なさを感じながらも誠実な気持ちが伝わってくる。
「先生、でも時間がないんです、1か月後にピアノのコンクールがあるの、コンクールに入賞して留学するためにこの5年間必死に頑張ってきたんです、お願い!手を治して下さい、私何でもする、指が動くなら痛くても辛くても頑張ります、だから・・お願い・・」
とめどなく流れる涙を琴は抑えようがなかった。泣き崩れた背中を敏弘が抱きかかえるようにして声をかけた。
「琴、落ち着け、先生を信頼して治そうじゃないか」
「お父さん・・でもコンクールが、こんな思いをするために練習してきたんじゃないのに」
「きっと動くようになる、信じよう」
敏弘の言葉も動揺した琴の心を鎮めることはできなかった。琴は再び膝をついて床に崩れ落ちた。
「先生、入院ですか?」
琴の体を抱えながら敏弘が里見を見上げて尋ねた。
「いや、ほかに体の異常は全くありません、病院のベッドにいたらかえって暗くなってしまいます、検査のデータは十分すぎるくらいとらせていただきました、もう一度複数の医師で隅から隅まで調べ直してみます、1週間後にまたいらしてください」
「わかりました」
それから一週間、敏弘が琴を連れて再び病院を訪れたその夜である。リビングに戻った優子があらためて敏弘に聞いた。
「検査の結果を教えて」
「うん、1週間前と変わらずだ、原因がまだつかめない」
「琴もいたのね」
「ああ、又聞きするよりもいいと思ってオレが判断して連れてった」
「ショックだったのね」
「・・・」
「でも、いきなりでしょ、学校で左手が動かなくなって、ひじから先の感覚が全然ないって言ってるわ、もう私何が何だかわからなくて」
「難病の可能性もあるらしい、学校は?」
「試験休みに入ったわ、そのまま続けて春休みよ」
「そうだったな」
「家にずっといて、部屋に引きこもってるのも心配だわ、変なこと考えたりしないかって」
優子の言葉に胸をざわつかせた敏弘はすぐさまに否定した。
「ばか言うな、そんなことあるわけないだろ」
「コンクールは難しいわね」
「・・・」
「あんなに楽しそうに弾いてたのに、神様も残酷すぎる・・・」
音楽が縁で出会った敏弘と優子は授かった宝物に「琴」という名前をつけた。
二人が家の中で奏でるバイオリンやギターの音色に囲まれ、物心がつくかつかないかという頃から琴はピアノをたたき始める。好きこそ物の上手なれ、両親が教える琴のピアノの音は「たたく」から「弾く」そして「奏でる」へとその音色を美しく変えていった。
琴の夢は膨らんでゆく。
「お父さん、お母さん、私、留学して、ピアニストになっていい?」
二人は顔を見合わせ、父はすぐに答えた。
「もちろんだ、でも、その夢を叶えたかったら自分の力で勝ち取れ、実力がなけりゃ留学したってだめだ」
「勝ち取るって?」
「例えば、留学が副賞のコンクールで優勝するとかな」
「そんなのあるの」
「あるさ、夢の扉は自分で開くんだ」
「わかった、私、絶対に勝ち取るから」
「あれから5年、あの子本当に頑張ってきたのに」
「ああ、自主性っていうのには本当に驚いた、自分でやるからあれだけの練習にも耐えられるんだ、強制されたってできやしない」
「ええ、あの子、ピアノをとても楽しそうに弾くの、同じようにピアニストを目指す娘をたくさん知ってるけど、みんなどこかしら苦しそうなのよね、でも琴の弾くピアノにはそれがないの」
「オレも感じるよ、無理やり音楽をやらせてもきっと嫌いになるだけだものな、オレたちの音楽への導き方は間違ってなかった」
琴はピアノが友達だった、黙っていれば一人で何時間だってピアノの前を離れなかった、上手に弾けなくて悔しいと思うことはあっても、練習が苦しいと思ったことはただの一度もなかった。
小学校の6年生までついていた音楽学院で師事する個人レッスンの先生である森山もそんな琴の姿を見てこう話した。
「琴ちゃんは、このまま自由に弾かせてあげましょう、つきっきりでするレッスンは必要ないわ、日曜日に学院に寄こしてください、学院のホールを貸し切る形でコンクールやリサイタルをイメージして弾かせてあげる、ただし、特別だから朝の6時からね」
敏弘も優子も、プロを目指す生徒が毎日何時間も個人レッスンを受けるのを知っていた。それだけに、その提案を聞いたときには、はたしてそんなことでいいのかと不安にも思ったが、森山の勇断は功を奏し、琴は練習を一切嫌いになることなく、伸びやかに両親から受け継いだ才能を開花させていった。
「楽しい」という感情はどんなに厳しいレッスンをも喜びに変えてしまう。それは琴の強みであった、とにかくピアノを弾くことが大好きだったのだ。
そんな琴がピアノを奪われた、いや、厳密に言えば完全に奪われたわけではない、交通事故で腕を失ったとか、神経が麻痺したとか、望みが絶たれたわけではない、しかし、現実に左の手は動かない。見た目は何ともない、原因が分からないだけにもどかしさもひとしおだ。
ベッドの上で右手を上げてみる、高く上がる、自由に上がる。
指先を動かしてみる、動く、自由に動く。5本の指は自分の意思を確実に受け止め細やかな旋律を無言に奏でた。
ベッドの上で左手を上げてみる、・・・上がらない、自分の意思を拒絶するかのように、いや、正確に言うと自分の意思に全く気付かないかのように、左手はだらんとベッドに横たわったままだ。
指先を動かしてみる・・・動かない、というより全く力が入らない、左手の肘から先の感覚そのものが失われていた、それに伴い肩から上腕にかけても、感覚こそあるがほとんど力が伝わらない。
琴は右手で自分の左手を「持ち上げ」じっくりと見つめた。自分の手が、指が、何か見知らぬ動物の屍のように見えた。
(なぜ、動かないの・・どこも悪くないなら、なぜ・・)
もどかしさは不安へ、不安は焦りへ、そして、焦りは絶望へ・・17歳の少女がわずかに生きてきた時間の中で、この現実を受け入れるにはあまりにも人生経験が浅すぎた。
「どうして私にピアノを習わせたの!」
琴は優子に投げつけた自分の言葉を思い出す、口にした後でどれだけひどい言葉なのか自分でも理解していた。両親が無理やりピアノを習わせたわけではない、自分から好きで弾き始めたのだ。でも、この気持ちをぶつける相手は自分のほかには両親しかいなかった。琴はやり場のない「怒り」と「悲しみ」さらには「悔しさ」と「淋しさ」が入り混じった複雑な気持ちを持て余しながら、布団を頭にかぶり涙が枯れるまで泣き続けるしかなかった。
「琴、夕飯そのまま置いておくから、食べられたら食べてね」
琴は優子の声をドア越しに聞きながら、枕元にある手鏡を右手で手繰り寄せる。読書灯の灯りの下で自分の顔を鏡に映してみる。涙の跡が自分でもすぐにわかる、(人間てこんなに毎日涙が出るものなの)
琴には、鏡に映った自分の顔が「絶望」を宣告する淋しい悪魔のように見えた。