小さな傷ごと食べてしまおうか
月に出来たクレーターみたいだと思う。
「……ん、っ!痛い!!」
ちゅっちゅっ、と可愛らしいリップ音を響かせていたのも束の間、痺れるような痛みを感じて、目の前にある胸板を押した。
どむ、と突き放された体は小さく揺れたが、特に傾きもバランスを崩すこともない。
涙目になって唇を押さえる私を見て、目の前の彼は不思議そうな顔をして首を傾ける。
それから覗き込むように私の顔を確認しながら、どうしたの、と問い掛けた。
心配しているような温度は特に感じられず、本当にどうした、という疑問だけを感じる。
「こ、口内炎が……」
「口内炎?」
私の言葉に眉を寄せた彼の声は、怪訝なものに変わっていて、まじまじと私の唇を見つめた。
ズキズキと痛むそれを見せるために、ぺろりと下唇を捲ってみる。
まるでシールを剥がすような動作。
見せ付けるそれは、中央が白く、その周りが赤く炎症を起こしている口内炎。
口内炎にも色々なタイプがあると聞くが、多分一番一般的なタイプの口内炎だろう。
正直出来た場所が場所なだけあって、普通にしていても歯茎に当たって痛むことがある。
「あー、あるね」
「あるの」
指を離して、見せていた口内炎を仕舞い込む。
すると腰を屈めていた彼が、背筋を伸ばして、うーんと唸り出す。
顎に手を当てて指先で撫でるようにしながら「最近寝不足だったみたいだしね」と言うから、あー、と目を逸らしてしまう。
口内炎の原因としては寝不足やら栄養の偏りやら、基本的には生活習慣から来るものらしい。
実際のところ最近睡眠不足で寝不足、更には夏に入り食欲も失せる時期と言うことで栄養の偏りも確実にある。
自覚しているけれど、うん、直すのは難しい。
「最近ずっと素麺食べてたしね」
若い頃は素麺かよ、っていう思考が働いていたけれど、成人してから素麺万歳という思考に移り変わったのだ。
安いし早いし、夏の食欲が失せる時期にピッタリじゃないか。
逸らした視線はそのままに頬を膨らます。
「まぁ、何にせよ。どうかと思うよ?今の生活」
「夏が終われば……」
ギリィ、と呟いてみれば、彼が私の肩を掴む。
自然とそちらに視線を向けることになって、何故かアップの彼の顔が視界を埋めていて、柔らかな皮膚と肉を唇に感じる。
肩に置かれたはずの手が、腰と顎に移動していて、ガッツリ押さえ付けられ動けないし、口を無理やり開かされた。
待て、待て、じわりと浮かんだ汗は冷や汗。
嫌な予感がして目を瞑れば、やはりと言うかなんと言うか、痺れるよう痛みが襲い掛かった。
「んぐ、っ……ま、っ……いたっ」
閉じようとした口は、掴まれている顎のせいで強制的に開きっ放しで、押し退けようと腕を突き出すが、腰に巻き付いた腕が更に力を込める。
これが男女の差、と溢れ出る冷や汗が背中を流れた。
彼の舌が尖って白い部分を押しているのが、容易に想像出来てしまうのが嫌だ。
白くなった中央の部分を舌で抉り、周囲の赤く腫れた部分をぐるりと囲むように舐める。
ビリビリビリビリ、絶え間なく襲う痛みは地味なものだと思うが、痛いものは痛い。
これのせいで食欲を失う人だっているくらいには、地味な痛みなのだ。
例えばずっと毒状態でダンジョンを進まなきゃ行けないような、そんなジワジワと襲う嫌なダメージ。
「う、まっ……いっ、っ……あぐ」
舌を噛み切ってやろうか、コイツ。
物騒なことにまで思考が及び始めた頃、飲み込めなかった唾液が顎を伝って落ちた時に、やっと唇と顎と腰を離す彼。
口の中の感覚が鈍く、噎せながら溜まった唾液を落とす。
「有り得ない」
唇を拳で拭えば、目の前で彼は楽しそうに笑う。
喉の奥を震わせてクツクツと笑い声を漏らす様は、悪役じみていて気分が良くない。
顔を歪める私を見ながら、ぺろりと見せた彼の赤い舌。
「荒療治って、知ってる?」
酷く楽しそうに笑う彼を見て、本格的に生活習慣を変えようと思ったのは言うまでもない。