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極私的俳句論  その8  super private haiku poem theory 俳句の展望。

作者: 舜風人
掲載日:2014/05/01

俳句は


今


中高年を中心にブームだそうですね?


でも、


どうでしょうか?


俳句は今生命を吹き込まれているでしょうか?


今に生きている俳句たり得ているのでしょうか?


というのは


いわゆる伝統俳句なるものは


季語と575に


絶対的に依存して


旧主旧弊に


胡坐をかいて


古いおもむきを


相も変わらず歌って良しとしてはいないんでしょうか?


季語もそれなりには


新しい装いを取り入れてはいますが


殆どは


古い日本の季節感に依存しているものばかりで


じつは今


めまぐるしく変わる日本の


現在の季節感には


殆どマッチしていないものばかりとなりつつあるのも実態なのですね。


たとえば


連日のこの異常な猛暑はどうでしょうか。


季語辞典の夏の気配ではないでしょう?


死人が出るほどの猛暑では


昔の夏の季語で


「夕涼」とか『風鈴」とか「夏帽子」なんて言っても


現実とそぐわないでしょ?



うだるような残暑で「夏帽子」かぶってたくらいでは死人が出てるんですよ。


そんなのんきな季語使えますか?


たとえば


『夜の秋』という季語がありますね。


夏も終わりかけて


夜が涼しいという意味ですね。


でも最近は


残暑があまりに厳しくて


9月末になっても


熱帯夜なんてありますよ。


どうするんですか?


こんな季語、もう死語?でしょ?


使えませんよね。


俳句における季語の位置づけも


よーく考える時期に来ているでしょう。



575については、


戦前からすでにそこから脱却しようという


運動はあります。


自由律俳句ですね。


私は575は日本語の


韻律ですから


別にそれでいいと思いますが


季語には


結構反発を感じますね。


はっきり言って時代遅れ


時代にあわない死語字典です。



そんなものに依存する限り


俳句は


現代をとらえきれず


自壊の道をたどる


まるで


絶滅危惧種としか言えないでしょうね。


季語に依存しない俳句なんて


「クリープの無いコーヒーみたい?』(古いコマーシャルですいません)


でしょうか?


確かに季語を全廃したら


これは味気ない


外人俳句?になるでしょうね?


じあや、あどうしたらいいのか?



角川春樹が言ってたんですが


季語辞典は


参考にしても


依存するなということでしょうか?


まず自分の俳句を自分の気持ちで作る。


そしてから



季語辞典をついでに参考に見てみる。



そんな程度で充分だというのですね。


或いは


角川春樹は


もっとすすんで


『自分で自分の季語辞典を造るくらいの気でなけりゃあいけない」



とまで言い切っていますね。


確かにその通りでしょう。


私もちろん季語辞典を持ってますが


パラパラとめくってみても、


今の時代では


使えない季語ばかりが


満載ですね。



全く死語の世界です。


死語ばかりが満載



それが季語辞典です。



確かに角川春樹でなくっても



これではこんな


季語(死語)辞典に



依存して俳句を作ったら


それこそ死語俳句?


ですよね?


現代から隔絶した


過去の俳句しかできませんよね?


平成の今更。江戸情緒の俳句作りでもないでしょう?


やっぱり今の俳句でありたいですよね。



現代俳句でありたい。



と言って


やたら小難しい難解な前衛独善俳句もイヤですね。



さあ、



古めかしい死語満載の伝統俳句もイヤだし



と言って独りよがり難解俳句もイヤだし



さて


俳句の未来は


どこにあるのでしょうか?


それとも


俳句なんて


もう絶滅危惧種?に過ぎない


絶滅を待つしかないものなんでしょうか?


今まで


江戸期の俳諧に始まってから


子規の近代俳句


そして新傾向俳句


前衛俳句と



いったいどれだけの


俳句が作られてきたのだろうか?


そんなかで


究極の


俳句と言えるようなものが



あるのだろうか?



いわゆる名句が究極の俳句という見方?もありますね。



『古池やかわず飛び込む水の音』  芭蕉


確かにある意味この句は



究極の俳句でしょう。


或いは


「くろがねの秋の風鈴鳴りにけり」  蛇笏



是こそ究極の俳句という人もいるでしょうね。


『水枕がバリと寒い海がある』 三鬼



だという人もいる事でしょう。


いいや、


『霜の墓抱き起されし時見たり』



だという人だっているでしょう。



まあ


こうなってくると


自分の好きな俳句が


究極の一句という


身勝手な?


結論で



おしまいになりそうですが



では?


私の究極の一句とは?


それはこの句?





「かなかな


    かなかな


        みんみん



            みんみん」    山頭火




これははたして俳句でしょうか?


ただ童子が


口任せに



言っただけの


独り言でしょうか?


いいえ、


山頭火の


自由律俳句ですよ。



というか彼の


随筆の中にある


一節ですがね。



こんな単純な


こんな無意味な?



こんな当たり前な



ただの擬音が


結局


俳句という



超短詩形を


突き詰めていけば


究極の


あるべき


姿なんだと私は


思うのですよ。



この句?のような超単純な中にこそ



俳句という


ある意味超絶短詩の



究極の真理が潜んでいると言えるのです。



私はそう確信します。



ここにこそ


この句の中にこそ



俳句の


大いなる神秘が


秘密が


潜んでいる。



その究極の真理とは?



それは



単純と


平明という



え?


なあんだ


というような真理だったのです。



これが


俳句の秘密であり、



奥義なのだと



私は確信します。



俳句とは



究極の単純化であり



ゆえに


平明でなければ


無意味に堕しますね。




難解語を羅列した17文字って?


ただでさえ17文字しかないのに


それを難解語の羅列ですか?


それって


ありえない暴挙でしょ?


17音と言う超短詩形であるがゆえに



それは


単純化の極致であり、


単純化するからには


それが


平明でなかったら


つまり難解語だらけだったら


未解読古代語に過ぎなくなるでしょう。


そんなものは俳句ではありませんね。


単純であって


平明である。


この2点を抑えない限り


俳句の未来はありませんし


俳句の存立もあり得ません。



『俳句は3歳の童子にさせよ』芭蕉



とは


そういうことだったのだと


私は


今



確信しています。



心を研ぎ澄まし



心を浄化して



平明に


思いを


託して詠む。



それしか


これからも


俳句が


生き残っていく道は


ありません。



ほかには

ありません。


そして以下のような


俳句モドキ?は


俳句を穢し


ダメにする危険な方法であることを


思い知ることです。


すなわち、



難解語を羅列する



時代を気取る



独りよがり俳句



ただの風景描写俳句


お涙ちょうだい俳句


自己憐憫俳句


ただの季節行事俳句




こういったものが俳句をダメにして


俳句の未来を危うくする


最大の元凶だという


恐ろしい事実でしょうね。








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