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趣味嗜好・知識と感性


 事態をどうにかする鍵があるとすれば、それはいくつか残った謎であるように思えた。

 時沢深雪の言葉と、書庫から見つかった過去の遺書の内容の食い違い。事故で亡くなる二ヶ月前の遺書には、書庫を託す相手について具体的な名前は全く挙がっていなかった。そのはずが、最後の遺書――陶子さんが見たという、時沢さんと彼の家族とが彼の死後最初に見つけた遺書には、ずっと前から陶子さんに遺贈する事を決めていたという内容が書かれていた。

 朝倉謙二が事故に遭ったとき、時沢さんはすぐ傍にいたと言っていた。彼女は書庫の中身を知っていたし、恐らくは何度か書庫に入った事もあったのだろう。なにせ、彼女は朝倉謙二の恋人だったわけだ。

 もし、事故の後、一人で時沢さんが書庫に入り込んだとしたら。想像は、できなくもない。遺書はパソコンに保存されていたのだという。ファイルを開いて、一ページ分に満たない量のテキストを打ち直して上書き保存する、それから、もしかすれば残っていた過去分の遺書のデータを消す。

 けれど、部屋の本に紛れて眠る、気紛れに出力された紙の遺書には、気がつかない。放置されたそれらは、その後数年経って、とぼけたどこかの高校三年男子が本の塔を崩すまでずっとそこにある。

 物凄く一方向的で、雑な考えではある。出力された遺書の方が何かの間違いという事も、十分に考えられるわけだ。

 それに、そんな事を行う理由は、いったいどこにあるのか。動機というものは千差万別で、一般論や常識から予想してはならないものかもしれないけれど、もし想像が当たっているのなら、時沢さんの行動の根はどこにあるのか。

 何より、朝倉謙二は、一体何を考えていたのか。

 彼の意思は、どこにあった? どこに向かっていた?

 それが、鍵だ。陶子さんを引き止める為の。陶子さんは、消えたがっている。どこかへ。既に価値を失い、その残り香だけが漂う場所に二年以上住んで、限界だと吐露した。

 いなくなる。陶子さんが。

 それだけは、避けたかった。別に、引っ越そうが遠くへ行こうが、いい(出来れば近いほうがいいのだけれど)。けれど陶子さんが望んでいるのはそういうことじゃない。移動して、移動して、いつもどこかへとふらふら彷徨い、そのうちにいつの間にかいなくなっている、という事をこそ、彼女は望んでいる。

 適当にどこかへ行って、そのまま消える。そんなのだけはNGだ。

 だからどうした、だなんて、そんな言葉の出番はない。


   *


 一晩泊めてもらい、家に帰った僕には、時間があった。大会を終えて部活も休みが多くなり、学校はとっくに夏休みだ。本当は受験生だから、死に物狂いで勉強しろ、という話なのだけれど、まあそのへんはおいおいだ。今は、やるべきことが他にあった。

「ふわっとさせたままじゃなくて、やっぱりちゃんと話しておくべきだと思って」

 紫陽花館近くのカフェのオープンテラスに僕を呼び出した陶子さんは、ストローでグラスの中の氷を軽くかき混ぜ、僕のほうを直視しなかった。

「こないだ、司君が言った通りで、私はあの場所を誰かに預けようと思ってた」

 誰か、本が好きで、あの場所を気に入ってくれて、大事にしてくれそうな人。そうそう都合よくそんな人間はいない、と思っていたところに、僕が現れた。

「部室で、『他人の本棚』の話をしてくれたよね。あれ聞いて、ちょっとこれはすごい巡りあわせかもって思ったんだ」

 数ヶ月前の僕は、無邪気に自論を語って聞かせた。何も知らず、考えず、適当に。タイムマシンがあれば、飛んで行って蹴り飛ばしてやるのにな、と僕は夢想する。

「当然だけど、凄くずうずうしくて、非常識で、とんでもないお願いだとは思うのだけれど……」

 ぎゅっと拳を作って力を込め、こちらを見ないままに、彼女は「お願い」を口にしようとした。僕は素早く遮る。

「何も分かっていないまま、あの部屋を人に託して、それで陶子さんは、いいんですか?」

 厚かましくて、あまり自分では好きじゃない言い方になってしまう。構わない、と自分自身を鼓舞する。とりあえず、誤魔化しでも何でもいい、時間稼ぎだ、と。

「彼が――謙二という人が、どうしてここを誰かに託そうと思ったのか。陶子さんに、託したのか。それを知ってからでも、いいでしょう」

「知ってからでも、って……今になってそんなの、調べられるの?」

 目を丸くして、陶子さんは驚いていた。

「大丈夫ですよ」

 薄っぺらな根拠を、僕は掲げる。

 数ヶ月間ずっと僕は、あの書庫を味わってきたんです、と。本の山を通して、ずっと朝倉謙二という人を味わってきたのだと。

「きっと、明らかにしてみせます」

 やや一方的に告げて、僕は話を打ち切った。


 明らかにします、なんて大見得を切った僕は実は高校生名探偵だったから、既に解決への道筋がはっきりと見えていた――なんてことはあるわけがない。洞察力も観察力も人並みかそれ以下で、特別顔が広いわけでもない。

 ただ、一つ考えはあった。なんとなくそうではないかという、根拠薄弱なものではあったけれど、数ヶ月間ずっと感じ続けてきた仮説のようなものは。

 それともう一つ、僕自身は全く交友関係が広くは無いけれど、顔の広い友人は幸運にも、いた。頼るべきは我らが演劇部部長、桜山だった。

「時沢深雪って人、知りませんか」

 と電話越しに聞くと、拍子抜けするほどあっさりと「知ってるよ」と答えが返ってきた。更に、陶子さんや時沢さんが所属していた頃の演劇部の部員達の事を尋ねてみる。

 分かったのは、桜山隆二という人間の人脈が、中々のものだということだった。同じ高校三年生とは思えない、大学生や社会人に多くの知り合いがいる彼の事を、ありがたく思い、そして少しだけ、そうしたものが何も無い自らに苛立つ。

「何人か、紹介してもらえないですか。ちょっと、聞きたい話があって」

「そりゃ、できなくはないだろうけど……どうした、司、どういう話?」

 当然の問いを向けられて、しばらく僕は上手く返せずに口ごもる。本当に、どういう話だろう、これは。僕は、死人の話を聞きたいのだ。かつて同じ時間を、あの部室で過ごした人たちに。

「……大事な話なんです、凄く」

 切り出し方は、そんな下手糞な言い方になった。

 僕は、よく考えた上で、大まかに事情を説明した。いくつかの部分はぼかしつつ、大体の経緯と状況を伝える。

 しばし黙った後で、ふっと息の抜ける音が携帯越しに聞こえた。

「お前でも、そういう、切羽詰まった声出すこと、あんのな」

「え?」

「初めて聞いた。ちょっと吃驚だな」

 こちらが何か言う暇を与えず、桜山は続けて「いいよ、貸し一つ、な」と了承した。軽い口調だったが、しっかりと真摯さが含まれていることの分かる、安心できる声音だった。

 二、三、細かい事を確認すると、彼は「よし」と力強く頷いた。電話越しの会話ではあったが、頷いたことが何故だか分かった。

「要は、その朝倉謙二って先輩の当時の部活仲間を出来る限りってことだな。待ってろ、何人か、上手いこと会わせてやる」

 ありがとう、お願いします、と謝辞を述べ、通話を終える。

 彼から再度連絡があったのは、二日後だった。

 一週間の間に、僕は五人の年上の男女と顔を合わせ、話をすることになった。桜山部長はどうやら上級生、OBOGの類に非常に受けのいい人物らしく、誰もが彼の名を出すと相好を崩し、僕に対しても丁寧に対応してくれた。五人のうちの二人は、桜山とセットで僕も劇団に誘い、僕は曖昧に返事を濁しつつも、さほど悪く無い気分というものを味わっていた。以前なら、ただ鬱陶しく感じたのかも知れないと、後になってそう思った。

 様々な話を、五人から聞くことになった。当時の部の様子、人間関係、公演した舞台……ただ、誰もがあの書庫の正体については、知らないと首を振った。朝倉謙二がそうした場所を作っていることは知れ渡っていたが、どういう意図で、何を目指して本を溜め込み、奇妙な部屋を完成させようとしていたのか、誰も聞かされてはいなかった。

 直接答えには辿り着けなかったというわけだ。それでも、聞き取りが全て無駄だったかといえば全くそんなことはなく、いくらか興味深い話も聞くことが出来た。

「あの三人はさ、特別だったよ」

 と、陶子さんや時沢さんより一つ年上の女性は言いきった。今は市内の企業で働いているのだという彼女もまたかつて部員であり、先輩として陶子さんや朝倉謙二を指導していた人だった。

「みんな部員は仲良かったけれどね。でも、あの三人はその仲でも眼に見えて――濃い、ってのかな。そんな感じの、関係性の強さがあった気がする」

「陶子さんと、時沢さんと、朝倉謙二という方の三人が、ですか」

 そ、と頷き、それからその女性は僅かに困ったような、申し訳なさそうな顔をして、声のトーンを落とした。

「はじめはね、ちょっと、その、疑うというか心配するというか、変な勘ぐりをしてたよ。私とか、一部の部員はね」

「疑う、ですか?」

「朝倉君は、深雪と付き合っていたわけじゃない。それは知ってたんだけど、彼、深雪と同じくらい陶子とも仲、良かったから」

 特別な三人。そう感じられるほどに、謙二と、時沢さんと陶子さんの二人の間には、緊密な繋がりがあった。

 疑うというのはつまり、あれだ。男が移り気だとか二兎を追ってしまうとか、そういう話のことだ。

「でも、全然違ったんだよね。結局。朝倉君と陶子の間にあったのは、そういうんじゃなくてさ。お互い尊敬してたっていうか。信頼して、尊重してっていう、そういう繋がりだったんだよ」

 僕が上手く飲み込めず難しい顔をしていると、彼女は説明を加えた。

「陶子、今、本出してるんでしょ。作家だっけ。部活で一緒だった頃からあの子、凄かったんだよ。一杯本読んで、色々広く知識があって、そういう知識の一つ一つを考えて、精練して自分のものにしてて。それで、陶子がなんだか難しい話だとか、本の話だとか、そういうのを一番多くしていた相手が、朝倉君だったんだよ。彼も、無類の本読みで、私らと違って深く考えて、色々と知っているやつだったから」

 陶子さんは、朝倉謙二を慕っていた。一つには、横恋慕として。もう一つには、同じ趣味を、知識を、感覚を、共有できる人間として。後者が前者のきっかけになったのかもしれないし、あるいはその逆かもしれない。なんにしろ重要なのは、二人がそうした趣味嗜好、知識と感性で繋がっていたということだ。

 

 五人から話を聞き終えた後に待っていたのは、六人目――最後の一人との待ち合わせだった。久しぶりに出会う時沢深雪は、少しだけ髪が短くなって、以前よりもさっぱりしていた。

 彼女は今度は僕を洋菓子店に連れ込んで、タルトケーキを複数注文した。

 色とりどりの、艶めく蜜がけのフルーツを挟んで、僕と彼女は向かい合うことになった。

「あまり書庫には行くべきじゃないかも、ってそう言った気がするんだけどね、前に会った時」

 口先だけで笑って、時沢さんはケーキにフォークを突き立てた。小さな、湿った音が零れ、流れた。

「何か、聞きたいことがあるんだって? 桜山君、だっけ、彼から聞いてるよ。あの部屋について――謙二に関して、だよね」

「すみません、突然、こんな話」

 頭を下げて、詫びる。ほとんど考えずとも、故人のことを、親しかった誰かに他人が根掘り葉掘り聞こうとすることが、あまり常識的ではないということくらいは、僕にも分かっていた。

 時沢さんはしばし、冷静さを灯した視線を真っ直ぐ僕に向けていた。フォークに添えた手を離し、短く、確認してくる。

「最初に訊いておきたいんだけど。君はどういう理由で、こういうことを、してるの?」

 そういう質問は、皆にされるだろうと、僕は予め適当だと思われる答えを用意していた。時沢さんの前に会った五人には、そうして考えておいた答えを提示していた。

 けれどここでは――かつて、朝倉謙二と最も親しかった彼女を前に僕は、たどたどしく、予定とは異なる言葉を口にしていた。

「陶子さんを」

 とても素朴で、生々しい衝動が咽を、口を動かしていた。

「陶子さんを、どうにか、留めておきたくて――」

 言ってしまってから、僕は自分の馬鹿馬鹿しさに、ほとんど唖然とする。何を言っているのだろうか。前置きも何も無い、自分にしか分からない、意味不明な単語の羅列じゃないか、と自覚し、恥ずかしさが込み上げる。顔が熱くなりかける。

 とっさに何かフォローとなる言葉を(遅いかもしれないけれど)付け加えようと無理矢理顔を上げ、時沢さんを直視して、僕は開きかけた口をそのままに止めた。

 彼女は、驚いたような、不意を突かれたような、そんな顔をしていた。どこか、その表情には湿った痛みのようなものが見える気がした。

 すぐに、そんな表情は溶けて、微笑だけが残った。時沢さんは、「そっか」と小さく一言呟き、もう一度今度は僕に聞かせるようにして、「そっか、そういうことになったか」と言って見せた。

「君が気に入ったのは、書庫だけじゃ、なかったんだね」

「そういうことに、なります」

 しどろもどろになりながらも、答える。

「いいよ。そういう話なら、ちょっと話するくらい、なんでもない」

 微笑んで、時沢さんはフォークに再度手を伸ばした。


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