9 蛇との再会、そのお言葉
家の裏手に回り、駐車場横の繁みをかき分ける。
かき分けた先には意外にも、獣道よりもずっと立派な道が設けられていた。一定間隔で、飛び石めいたものも埋め込まれている。
「あれ、キレイな道」
なだらかな勾配を歩きながら、鈴緒は少しばかり安堵する。先行する銀之介も、彼女へうなずきながら振り向く。
「山神を祀っていますので、これでも昔は参拝者が沢山いたんですよ」
「ヤマガミさん、ですか……ヤマガミ?」
つい先日、それに似た単語を聞いた記憶がある。鈴緒は口元をひきつらせた。
「はい。この前出くわしました、ヤマノモノの住処ですね」
「のぼるの危険だ!」
大蛇を思い出し、ぶるりと震え上がる。
なだめるように銀之介は微笑んだ。
「大丈夫ですよ。鈴緒さんに痛めつけられて、大人しくなっていますから。守り人として、化生と触れ合うことも大切ですよ」
「でもヤマノモノが、銀之介さんを半分殺した。嫌い、会うのイヤ」
銀之介の腕を振りほどき、鈴緒はひどく思いつめた顔で低く呟く。
「別に俺は、気にしちゃいませんよ?」
穏やかに返す彼には、恨み辛みなど微塵も感じ取れなかった。だが結果として、彼を盾にしてしまった鈴緒の心中は違う。
「あたしは、とても気にしています」
「うーん、参ったな」
鷲鼻の頭をかいて、銀之介が苦笑いする。
「ヤマノモノと面会するよう、金次郎さんからも言われているんですよ」
「あたしは会ったら、ヤマノモノを怒るでしょう。それでいいなら会います」
プンとむくれた彼女の白い太ももに、何かが飛び付いた。素肌をくすぐる感触に、鈴緒は視線を下げる。
この島では珍しくもない、丸まると肥えたバッタがくっついていた。
「イヤアアアア!」
だが、石造りの都会で育った鈴緒には、未知の存在である。青ざめて絶叫した彼女は、目の縁に涙を溜めている。肌も粟立っている。
「大丈夫ですよ、噛んだりしませんから」
銀之介は苦笑してバッタをつまみ、雑木林へ放り投げる。
涙をこぼし、鈴緒は大きく首を振る。
「でも大きい! 気持ち悪い!」
「これで気持ち悪いと言っていたら、ヘビトンボと出会った時にどうするんです」
「ヘビトンボ? それは本当に虫か?」
「虫ですね。蛇みたいに、大きくて強い顎を持ってますが。体長も、四十センチほどあります」
「虫ちがう、モンスターです! そいつ、『ナウシカ』に出てただろ!」
想像するだけで、ヘビトンボが恐ろしかった。鈴緒の膝は、ヘラヘラと笑っている。座り込まないよう、銀之介にしがみつくので精一杯だ。
「肝試しに来たわけじゃなんですから……まあ、いいか」
呆れ顔の銀之介だったが、これ幸いと、そのまま鈴緒を抱え上げる。
されるがままの鈴緒であったが、目線が彼と重なり、ハッと我に返った。
「何するか?」
「せっかくなので、このまま山頂まで行こうかと」
「せっかくの意味、不明瞭よ。降ろして」
「まあまあ。ヤマノモノにお願いしたら、虫が寄って来なくなるかもしれませんよ?」
「うぐっ」
銀之介の肩にしがみつき、しばしうなる。しかし、鈴緒は最後に力を抜いた。
「分かった、会うだけです。会ったらすぐトンズラです」
「相変わらず、変な日本語を知ってますね」
どこで覚えたんだか、と銀之介はまた笑った。
さほど急でもない山道を、彼は鈴緒と風呂敷包みを抱えて登った。
鈴緒も自分で歩こうとしたのだが、地面で跳ねる巨大コオロギを見とめ、ますます彼へしがみつく羽目となった。
ものの十分ほどで、山頂へ辿り着いた。
山頂部分の平地に着けば、好き放題に生えた雑草たちと、石で出来た粗末な門があった。門の奥には箱が鎮座している。屋根の付いたそれは、ミニチュアの家のようだ。
その箱の表は開いており、中には球形の石が入っている。
石には漢字が彫り込まれているが、経年によって擦り減り、はっきりとは読み取れない。
地面へ降りた鈴緒は、手前の門を指さす。そして銀之介へ小首をかしげる。
「これは、神様の門の……アー……トゥーリオ、ですね?」
「うーん、惜しい。鳥居ですね。そして奥の石は、ご神体。神さまの体、みたいなものです」
「石が体か。丈夫そうね」
会話を交わしながら、二人で鳥居をくぐった。そして、寂れた祭壇の前にしゃがむ。
銀之介はずっと携えていた風呂敷を、石の前へ置いた。広げた風呂敷からは、お団子が出て来た。
「これは、お供え?」
鈴緒にも、それぐらいの知識はある。確認すれば、嬉しそうな笑みが返された。
「はい。先日は、ヤマノモノを手ひどく扱ってしまいましたから。そのお詫びですね」
「手を出したの、向こう。セイトウボウエイよ」
「ああ見えて、普段は気のいい神さまなんですよ。ヤマノモノ、いらっしゃいますか?」
周囲を見渡し、銀之介が声を張る。
すると、雑草の間を滑りながら、白い蛇が現れた。ただし今日は、ずいぶんと小さい。踏んづければ、あっけなく死んでしまいそうな細さだ。
そして銀之介に蹴られた片目は、閉じられたままだ。心なしか、その周りが腫れ上がっている。
「人を襲おうとするから、力を奪われるんですよ」
銀之介は言葉にほんのり冷やかさを混ぜ、じっと白蛇を見据える。
白蛇は頭を地に付けたまま、無傷の目を彼に向けた。
「心に刻み込もう。面目なかった」
「ワォ、喋った」
見た目に反して低い声に、鈴緒は小さく仰天する。だが、着物姿で喋るネコもいる島だ。山の神だって喋るだろう。
うなだれるヤマノモノをしばしにらんでいたが、銀之介はため息と一緒に表情も崩した。
代わりに、団子の入った容器を化生へ差し出す。
「日向家の者の信仰心が詰まった団子です。これで養生し、山をしっかり守って下さい」
「かたじけない」
古風に感謝し、パクリとお団子にかじりついたヤマノモノ。
お供えだけど食べるんだ、と鈴緒は考えつつ、疑問も抱く。
今のヤマノモノは、とても理性的で大人しい。
「あの、どうして悪さしたのか?」
思わずヤマノモノの隣にしゃがみ込み、彼を見つめた。銀之介が鈴緒同伴で参拝した目的も、それらしい。畳んだ風呂敷を片手に、こちらも蛇を凝視する。
蛇ににらまれた蛙、というわけでもないだろうが、ヤマノモノはかすかにたじろいだ。
だが重々しい口調で、あっさり口を割る。
「そのいきさつなのだが、我もよく覚えていないのだ」
銀之介の目が、かすかに細められる。
「どういうことでしょうか? 何者かに憑依されていた、ということですか? それとも、呪いの類を施されたとでも?」
「呪いや憑依ではない。この島にうごめく『異なる者』の存在が、我の心をかき乱し、正気を奪った」
「『異なる者』とは? 化生ではないと?」
「正体は分からぬ。ただ我らとも、お主らとも異なる存在であることは、気配より感ずる。吐き出す息すら、とかく異質なのだ……島がざわついているのも、その者の仕業であろうよ」
険しい表情の銀之介へ答える声も、沈痛さに満ちている。
鈴緒だけは、両者の言葉振りが難解であるため、全身から疑問符を発している。
「日本語で……カンタンな日本語で、お願いします……」
頭を抱えた彼女に、銀之介が眼鏡を持ち上げて笑う。
「ヤマノモノによると、よそ者がやって来たため、気が触れてしまったということです」
よそ者という言葉に鈴緒はぴくり、と肩を震わせた。
「それは、もしかして、あたしですか?」
白い指で己を指さし、鈴緒が小さく呟いた。
そしてみるみる内に、若葉色の目に涙がこみ上げる。
鈴緒の思考には、学校内での自身の立ち位置も加味されていたのだが、そこは説明不足が災いする。
銀之介にとっては、急に泣き出した以外の何物でもない。上がり気味の目を丸くして、心底驚いていた。
「へっ? 鈴緒さん……何で泣いてるんだ?」
「あたし、いちゃいけないです、か?」
しゃくり上げながら問う鈴緒に、彼は冷静さを取り戻して首を振った。
「鈴緒さんが、どうして出て行かなきゃいけないんですか?」
「だけど、あたし、ハーフだからぁ」
「大丈夫ですよ。よそ者の正体は人間でも化生でもないって、ヤマノモノが言ってますから。……あーあー、手でこすっちゃ駄目です」
銀之介は内ポケットから、丁寧に折りたたまれたハンカチを取り出した。涙で濡れた鈴緒の顔を上向きにし、丁寧に拭う。鈴緒も目をつぶり、素直に従う。
「ありがと。銀之介さんのポケット、とても便利ね」
「そうでしょう?」
彼女の頭をくしゃりと撫で、銀之介は小さく笑った。
「泣き虫なところは、小さな頃から変わりませんね」
「え?」
「鈴緒さんが号泣している写真、沢山残ってますよ」
驚いて目を開ければ、いたずらっ子の笑みで見返される。
涙が引っ込んだ代わりに、鈴緒の顔は首筋まで赤く染まった。
「ノォォー! 捨てて! 海に捨てて!」
「はいはい。帰ってから、金次郎さんと相談して下さい」
銀之介は鈴緒の嘆願をおざなりに受け流し、ヤマノモノと向き直る。
「貴重なご意見、感謝します。先代守り人へも、お話を伝えておきます」
「頼んだぞ、若き従者よ」
とぐろを巻いたヤマノモノは、小さな頭で鈴緒も見上げる。
「そして麗しき守り人よ。見事、『異なる者』を見つけ出して頂きたい」
「ん……了解です」
赤い鼻をすすってうなずいた鈴緒へ、ヤマノモノはかすかに体を揺らした。どうやら笑っているらしい。
「そして案ずるな。そなたは異質ではない」
「ほんと?」
重々しい声に問い返せば、ゆっくりとしたうなずきが返って来る。
「そなたの魂はむしろ、とても良い香りがする。狂った我が、思わず欲するような……えふんっ」
チロチロと赤い舌をのぞかせて饒舌になった白蛇は、鋭い黒の双眸に見据えられ、わざとらしく咳き込んだ。
眼鏡のレンズを光らせ、銀之介はことのほか酷薄な声を出す。
「鈴緒さんを今度狙ったら、焼酎に漬けますからね」
表情を消した彼の顔は、その猛禽類的な造作が際立っていた。
「勘弁してくれ……我は酒が不得手なのだ」
「分かりました。紙パックの安酒を買っておきます」
「せっ、せめて白鶴にしてくれ!」
大きく口を開いて縋り付く白蛇に背を向け、銀之介はさっさと山道を下った。
鈴緒もその、剣呑な大きい背中を追いかける。背が高ければ足も長いので、追いつくにも一苦労だ。
「あまり蛇いじめちゃ、だめよ。あたしが言うの、変だけど」
ようやく隣に並び、じっと銀之介を見上げた。腰ポケットに風呂敷をねじ込んでいる銀之介は、すまし顔である。
「ちょっとお灸をすえただけですよ」
涼しい顔の彼に、鈴緒は声を潜める。顔もしかめて、出来るだけ怖い表情を作った。
「タタリあるよ、タタリ。体中にウロコ生えるよ。生卵ばっか、食べたくなるよ」
「楳図かずおの漫画でも読みましたか?」
喉の奥を鳴らして笑った銀之介は、顎に指を添えて黙考する。
「俺よりも、鈴緒さんの方が気を付けるべきかもしれませんよ?」
「なぜか?」
「蛇の化生は、人間の女の子が好きなんですよ。夜な夜な色仕掛けをしに、枕元へ来るかもしれませんね」
かすかにニヤリと笑う銀之介。
対する鈴緒は、うっすらと青ざめる。
「それ、困る。どうしてくれるか」
「添い寝してあげましょうか?」
「やだ。それも困る」
「ご希望なら、子守唄も付けますが」
「もういい!」
頭から湯気を出さん勢いで怒り、鈴緒は先を行こうとしたが。
道中のバッタ事件を思い出し、結局、銀之介の隣をおずおずと進む羽目になった。