4 契約の鈴カステラ
アオネコはテフテフと、鈴緒たちの元まで歩み寄る。そのたびに、首につけた鈴が鳴った。チリン、チリン、と涼やかな音色だ。
それは鈴緒が、お堂の前で耳にした音だった。
鈴緒の眼前までやって来たアオネコは、地に伏した銀之介を一瞥した。
「ああ、こりゃ助からないな。というか、もう半分以上死んでるね」
「ホワッ?」
ざっくり現実を述べられ、鈴緒はのけぞった。
次いで玉砂利の上に、膝を落とす。泣きじゃくっていた目は、もはや真っ赤だ。
「アオネコさまぁ……」
「猫なで声出すんじゃないよ。猫に通用すると思ってるのかい?」
ピンク色の肉球で、縋り付こうとする鈴緒を遮る。
「神と言っても、たかが氏神。私一匹に、この男をどうこうする力はないよ。お前が協力するなら、話は別だけど」
「キョウリョク、ですか?」
まばたきしながら、鈴緒は桜色の唇を震わせた。目を閉じれば、ほろりと涙がこぼれ落ちる。
アオネコは名前通りの真っ青な瞳を細め、ウニャン、とうなずいた。体の構造上、首の所在があやふやであるため、うなずいた「らしい」程度の仕草だが。
「おい鈴緒。お前はこの男のために、命を賭けられるか?」
「はい」
即答した。同時に鈴緒は、大きくうなずく。
「銀之介さん、恩人だから」
「おー。そりゃ義理堅い」
ふっくらとした白い口元を持ち上げ、笑ったような顔になる。
ヤマノモノはこの間も、見えない壁と戦っていた。何度も体当たりするが、アオネコが生み出したのであろう障壁は、びくともしていなかった。
それどころか、ヤマノモノが発する鳴き声や音も、鈴緒たちには届かなかった。
うごめく化生をちらりと見て、アオネコは鈴緒へ向き直る。そして距離を詰めた。
彼女の小さな鼻と、アオネコの濡れっ鼻が、束の間ぴったりくっつく。
「それじゃあお前は、男と、ついでに島のために、人間をやめられるか?」
「人間やめて、何しますか? 吸血鬼ですか?」
鈴緒の知識の源は、コミックやゲームだ。
日本のコミックから仕入れた吸血鬼像は、「目からビームのように体液を飛ばしたり、敵を急速冷凍させたり、興奮すると奇声を上げる不老不死の生き物」というものだった。
間違っても、なりたくない。
銀之介の血に染まった身体を抱きかかえ、身震いする。
しかしアオネコは、ふるふると頭を振った。
「吸血鬼でも、ゾンビでもニャー。お前には、守り人になって欲しいんだ」
「モリビト、は何ですか?」
「島の用心棒ニャ」
用心棒という言葉を反芻し、すぐさま鈴緒は笑顔になった。
「なります! 用心棒の経験あるのです! ゲームだけど」
「ほう。経験者なら頼もしい」
湿った肉球を打ち鳴らし、静かな口調でアオネコは微笑んだ。
そして血を垂れ流している、銀之介を見下ろす。
「それでは、この男……ええと、銀之丞だっけ?」
「いえ、銀之介さんです」
「銀之介さんね、はいはい。こいつが完全に死ぬ前に」
先ほどまでと変わらぬ淡々とした様子で、アオネコは鈴緒の胸に前足を当てた。いや、二足歩行をしているのだ。手と呼ぶべきか。
猫の、服装から察するに雌に触られたところで、鈴緒も叫びなどしない。
代わりにキョトン、とその短い足あるいは手を見つめる。
「えっ、あ、おっ、ノッ、ノォォーッ! やめてーッ!」
だが、その手がずぶずぶと内側へ沈んでいき、たまらず叫んだ。
水面に入れるかのように、手は何の障害もなく、奥へ奥へと埋没していく。にもかかわらず、服は破けず、また血も出なかった。痛みもない。
「英国人は大袈裟だな。少しは静かにしたらどうだい?」
相変わらずアオネコは冷めた調子で、体内へ潜りこませた手をぐるり、とひねった。
「ひぅっ」
たとえようもない感覚に、鈴緒から情けない声が漏れる。まるで心臓に宿ると言う、魂を探られているようだ。
心の奥底を、ピンクの肉球が一撫でする。
「お、あった」
そしてそれを丸々した手がつかみ、入れた時と同じくズブリ、と引き抜かれた。
瞬間に、鈴緒はかすかな脱力感を覚えた。
だがそれも、アオネコの手に乗ったものを見下ろして吹き飛んだ。
猫神が掴んでいたものは、心臓や肺といった血なまぐさいものではなかった。
桃色の、淡く輝く光球だった。
「な、何なのです、それ」
「お前の魂。それも一番真ん中だ。一人遊びばかり、しているだけのことはある」
「あなた、馬鹿にしてるですか?」
アオネコの感想に不穏なものを感じ取り、鈴緒はむくれる。
牙を見せ、アオネコはにんまり笑った。
「んなわけないニャー。世間ずれしてないから、綺麗な色してるって言ったんだよ」
肉球に乗せた光球を気遣いつつ、アオネコは着物の袂へもう片方の手を入れる。そして引き出されたのは、小さな巾着袋だった。
「これはヨモツヘグ。化生の食い物だ。これを食うことで、私とお前の契約が完了する……もう途中解約は、駄目だよ?」
チェシャ猫の笑いを浮かべられ、鈴緒はしばしたじろいだ。しかし、欠片だけが残ったお守り石を握りしめ、ぐっと表情を引き締める。
そして一度、うなずいた。
「後悔ない、本当です」
「よし、完了だ」
言うが早いか、巾着の中のものを、光球へ振りかけた。それは、七色の砂だった。
砂がまんべんなくふりかけられると、光球はぶるぶると震え、形を崩した。
水飴のようにグニャグニャと形を変えながら、光球の輝きは徐々に弱くなる。
そして桃色の光球は、同色の鈴カステラに変身した。
「ワォ」
丸々とした愛らしいお菓子に、鈴緒は状況を忘れて声を上げる。
浮かれる彼女の眼前へ、アオネコはカステラを突き出した。
「契約完了の証ニャ。半分食え。そして残り半分は、こいつのもんだ」
パカリと割った、カステラの一方を鈴緒へ与え、残りを銀之介の口へねじこむ。
おずおず、と鈴緒はそれを一口かじり、上品な甘さにとろけた。たちまち完食する。
瀕死の銀之介はアオネコの腕ごと、喉の奥へとカステラを押し込まれていた。問答無用で嚥下もさせられる。
かすかに喉仏を動かした銀之介は、しばらく微動だにしなかった。
だが間もなく、出血は止まった。顔にも赤みが戻ってくる。
「銀之介さんっ!」
鈴緒は前のめりになって、銀之介の顔をのぞきこむ。
その間にも、ミチミチと音を立て、食いちぎられた脇腹が再生していった。
「いたぁっ! なんだこれ!」
なおも肉を再生する脇腹を押さえ、銀之介は叫び、身を起こした。
飛び起きた彼へ、鈴緒は飛び付いた。痛みに引きつった顔を、ペタペタと触って様子を伺った。
「銀之介さん、生きてる? 大丈夫? 元気か?」
号泣している彼女に、銀之介はいささか戸惑っていた。
「はい、お陰様で意識ははっきり……あの、鈴緒さん。腹部がとても痛いのですが、何があったんでしょうか?」
「そりゃ骨とかハラワタも再生してるんだから、痛いだろうさ」
眉を潜める彼へ、すまし顔のアオネコはさらりと言い切った。声の主を改めて見つめ、銀之介は面食らう。
眼鏡の位置を整えた彼は、疑わしげにアオネコを見下ろす。
「猫が着物を……新しい、化生の方ですか?」
長いひげを揺らして、アオネコはフンと息巻いた。
「その辺の化生と一緒にすんじゃニャー。お前の上司の、守り神さまだ」
「なんと、アオネコ様でしたか。思っていたよりも、可愛らしいというか、猫らしいですね」
「お前、失礼だな」
白と茶ブチの耳が、ぺたりと後方へ倒れる。
ふ、とアオネコは思い出したように遠くを見やる。視線の先には、荒れ狂う化生がいた。
「失礼で馬鹿デカい輩だが、命は助けてやった。さあ、これで私の仕事は終わりだ」
そして顔の前で、両手を一つ打ちあわせた。
「後は鈴緒、お前がやれ」
「ハイ?」
鈴緒が素っ頓狂な声を上げるのと、見えない壁が失われるのは同時だった。
二人と一匹の周りに黄色い霧が渦巻き、ヤマノモノの咆哮が再び響き渡る。
散々無視されていたヤマノモノは、激怒しているように見えた。
銀之介にしがみついたまま、鈴緒は血の気をなくす。
「や、やれとは……どうするですかッ!」
「戦うんだよ。用心棒だろ、お前」
アオネコは既に関心を失った、とばかりに長い尻尾を振った。
「そのための技術は、契約完了時に渡してある」
「技術?」
猫神の言葉に、鈴緒は自分の手を見つめた。
そして気づく。両手の指先から、赤い糸が伸びているのだ。
「糸? これ、なに?」
呟く彼女目がけ、ヤマノモノが飛びかかった。咄嗟に、銀之介が鈴緒を庇おうと抱きすくめる。
だがそれよりも早く、鈴緒の右手が動いた。
宙に円を描いた指先から、赤い糸が前方へ飛び出す。それは、本能に従った行動だった。
糸はヤマノモノへと絡みつくと、途中で切れた。しかし糸はその後も動き回り、ヤマノモノの首を絞め、足を拘束する。
赤い糸に翻弄される化生を、鈴緒は呆然と見つめる。
「ワォ……スパイダーマンみたい」
「俺は必殺仕事人を思い出しましたね。それよりも、逃げますよ」
言い終えるよりも早く、膝に乗っていた鈴緒を抱えて立ち上がり、銀之介は霧の中へ突入した。アオネコもそれに続く。歩き辛いためか、四足走行に切り替えていた。
「鈴緒さん、軽いですね。ご飯食べてますか?」
「食べてるよ! ぱさぱさのサンドイッチ!」
「あー。確かに海外のパンは、ぱさぱさですね」
軽口を叩き合いながら、もうもうと立ち込める霧を、行きの倍以上の速さで通り抜ける。銀之介の首にくっついていた鈴緒は、霧の合間に青空と、日向邸を見とめた。
続いて、庭で仁王立ちをしている祖父・金次郎も。
「鈴緒! 銀之介!」
「おじいちゃん!」
金次郎は血まみれの二人に目を見張ったが、それでも霧を潜り抜けた彼らを出迎え、抱きしめてくれる。
「良かった、戻って来てくれて、良かった」
「あたしも、戻ることができて、嬉しい」
嗚咽混じりの祖父の声に、鈴緒もぽつりと返した。
しかし金次郎は、はにかむ彼女を見下ろし、たちまち青ざめた。
泡を吹いて倒れるのではないか、と心配になるほどに震えている。
「鈴緒……お前」
「おじいちゃん、どしたの?」
首を傾げる孫には答えず、代わりに金次郎は、すまし顔のアオネコをにらんだ。
「アオネコ様! ワシの孫をっ……守り人にしたのですか!」
彼の言葉に、銀之介も表情を曇らせた。
アオネコは相変わらず、知らんぷりだ。ペロペロと手を舐めては、毛づくろいをしている。
鈴緒だけが事の重大さを理解できず、小鳥のようにキョトキョトと、三者の顔を眺めていた。




