3 少女を狙うもの、救うもの
※少しばかり、痛い描写がございます。ご注意ください。
声は庭から聞こえているようだった。窓からのぞくも、祖父の姿は見当たらない。
「どうしました、おじいちゃん?」
廊下へ出て声をかけるが、相変わらず金次郎の声は遠い。そしてオウムのように、何度も鈴緒の名前を呼んでいた。
何かあったのか、と不安を覚えつつ、鈴緒は長い廊下を彷徨う。幸いにして、鈴緒の部屋から玄関までは、道なりに進めば良かった。その間にキョトキョトと左右を伺うも、人気も物音もしない。銀之介の姿もなかった。
空気も、どことなく先ほどよりも冷たかった。
「おじいちゃん、外ですかー?」
声をかけつつ玄関へ出て、鈴緒はビクリとのけぞった。
道中に「危険」と教えられた黄色い霧が、四方に充満していたのだ。そして恐ろしいことに、祖父の声は霧の向こうから聞こえている。
「おじいちゃん! 戻ろう! 危ないです!」
無意識にお守り石を握りしめ、鈴緒は声を張り上げる。
「おぉーい、鈴緒やー」
だが金次郎には聞こえていないのか。先ほどまでと変わらぬ呼びかけが、返って来るだけだった。
鈴緒はためらったが、霧から顔をそむけて大きく息を吸い、黄色の世界へ飛び込んだ。
目も出来る限り細め、お守り石を握りながら、金次郎の声を頼りに進む。霧中の視界は悪く、数十センチ先もおぼろげだ。
彼女は途中で気付いた。霧の中にいるのに、湿り気がないのだ。髪も化学繊維のワンピースも、全く濡れていない。
かすかな疑問を覚えると同時に、霧の向こうに人影が見えた。そして一歩踏み出せば、霧の外へと抜けた。
途端に手の中が熱くなる。手を広げ、握っていたお守り石を見つめ、鈴緒は目を見開いた。
半透明のお守り石が、真っ赤に光っていたのだ。慌てて手を引っ込めると同時に。
パキン、と音を立てて、お守り石が砕け散った。
物心ついた頃から、肌身離さず持っていたペンダントのあっけない最期に、鈴緒は呆然とした。
「どうして」
超常的な壊れ方に驚くと同時に、悲しかった。そして、言い知れぬ不安も覚えた。顔をしかめて、石の破片を拾う。
しゃがんだ彼女の元へ、ゆらりと誰かが近づいて来た。反射的に、鈴緒は顔を上げる。
「おじい、ちゃん?」
自分が向き合っている者は、祖父ではなかった。いや、人間ですらなかった。
「おぉーい、鈴緒やーい」
「ヒッ」
金次郎の声真似をしているのは、人型をした白い生き物だった。ヌルリと光沢があり、そこかしこに苔も生えている。
爬虫類のような目と、大きく裂けた口だけが、その顔面から見て取れた。眉や鼻、耳は見当たらない。
「あ、あなた誰ですか!」
「おぉーい、鈴緒やーい」
半ば金切声で鈴緒が詰問するも、白い生き物はこれの繰り返しだった。だが、鈴緒が距離を取れば、ぬるぬると体を揺らして肉薄してくる。
「来ないで下さい!」
必死に涙をこぼすまい、と歯を食いしばりながら、鈴緒は手を振った。その手をよけながら、生き物は相変わらず体を揺らしていた。
黄色い霧に体を半分埋めて、鈴緒も距離を保つ。だが、それ以外に何をすべきなのか、この生き物が何なのかも、全く分からなかった。
震える華奢な体を、霧の中から伸びた長い腕が、がっしりと掴んだ。
鈴緒の頭が真っ白になり、考えるより早く悲鳴がほとばしる。
「イヤアアアッ あっち行って!」
「鈴緒さん、落ち着いて!」
彼女をなだめる腕の持ち主は、銀之介だった。右手で彼女の身体を支え、左手でスーツの内ポケットをまさぐっている。
「銀之介さんっ」
かすれ声を上げる彼女へ一瞬だけ笑いかけ、銀之介はすぐさま白い生き物と対峙した。
「ヤマノモノが、こちらに何の用ですか」
低く攻撃的な声音に、生き物は声真似を止めた。代わりに大きく揺れ動き、尖った歯の間から真っ赤な長い舌をちらつかせる。先端が二股になっており、まるで蛇のようだ。
チロチロと動く舌だけで、鈴緒は卒倒しそうになったのだが、銀之介は怯まなかった。ますます、顔を剣呑なものにする。
「答えなさい」
口調こそ丁寧であるものの、その声音は恫喝に近かった。
しかし尋問に応じたのは、耳をつんざくような奇声だった。銀之介にしがみつきながら、鈴緒はまくし立てる。
「何ですか! あれは何ですか!」
「ヤマノモノと呼ばれている、山の守り神……ここでは、化生と呼ばれていますね」
玉砂利を踏んでにわかに後退しつつ、銀之介は小さく息を吐いた。
「滅多に人里へ、降りて来ないはずなのですが。何があったのでしょうか?」
どことなくうんざりした口調に、鈴緒は軽く苛立ちを覚える。
「どうして落ち着いてるか! 化生、迷信だろ?」
うーん、と銀之介は数秒間うめいた。
「実はそうでもないんです。この島では、割とありふれた現象でして」
「何それッ?」
「もちろん見えない方は、全く見えませんよ」
「あたし、見えてる!」
ギャンギャンわめく鈴緒にも、銀之介は慣れた様子でうなずいた。
「はい。日向家はその立場上、見える方が多いようですね」
「ひどいっ! 何であたし呼んだか!」
「鈴緒さん落ち着いて。日本語がおぼつかないですよ」
「おぼつかない、仕方ない!」
怒りに任せて銀之介をポカポカ殴れば、先ほどの奇声が飛んでくる。不愉快なその音波に、鈴緒の頭も瞬く間に凍えた。
見れば生き物は身を低くして、こちらへ飛びかからんとしている。
殺気立つ生き物の姿勢に、銀之介も軽口を潜めた。
「まずいですね。鈴緒さんを本当に狙っています……それに、気でも触れたようだ」
その見解に、鈴緒はますます震えた。
「あたし、食べられる……?」
「その通りでございます」
絶望的な回答だった。そして白い化生が跳躍する。
鈴緒は無我夢中で、銀之介にしがみつく。
銀之介は彼女を庇いつつ、左手を突き出した。
その手に握られていたものは、長方形の紙だった。いわゆるお札、あるいは護符である。
突き出されたそれが触れるや否や、化生は再び叫び、そして地面にもんどり打った。
苦しむその様に、鈴緒はかすかに安堵を覚える。
銀之介はヤマノモノなる化生をにらみながら、先ほどのものと同じ護符を、内ポケットから数枚取り出した。
「これをかざしながら、霧を突っ切って逃げて下さい。霧の向こう側へ出れば、安全です」
「安全?」
カタカタと震える手でなんとか護符を受け取りながら、鈴緒はそれだけ尋ねた。
うっすら汗ばむ銀之介は、小さくうなずく。
「霧よりこちら側は、人間の領分。そして向こう側は、化生の領分なんです。元の庭へ戻ることが出来れば、鈴緒さんは助かります」
「え?」
銀之介の言葉に、鈴緒は引っ掛かりを覚えた。
「銀之介さんも、一緒に戻る、でしょ?」
穏やかな顔を見上げれば、首を真横に振られた。その顔は、真っ白になっている。
続いてかすかな水音に気付いた。ピチョン、と地面に落ちる雫の音だ。
音の出所を探し、足元を見て、彼女は喉の奥を鳴らした。
二人の周囲に、血の海が広がっている。
「さすがにもう、走る気力はなくて」
苦しげに笑う銀之介の左脇腹が、不自然にえぐれていた。赤黒く染まったそこから、絶え間なく血が流れ落ちている。
ヤマノモノに食われたのだ。
ぐらりと傾いた体を、鈴緒は必死に支える。
「やだ! やだやだやだ!」
「すみ、ません。油断しました」
しかし小柄な鈴緒に、長身の彼を支え切れるわけもない。
ズルズルと二人は崩れ落ちる。
「銀之介さん、一緒に逃げる!」
「我儘、言っちゃだめ、です」
銀之介の言葉が、途切れ途切れになる。視点も定まらずに、表情もうつろになっていく。
それでも彼は霧の中へと、鈴緒の身体を押しやる。
「早く、今のうちに」
「やだぁ! あたし、助けて、銀之介さん、怪我してっ……」
ポロポロと涙をこぼす鈴緒に、銀之介はゆっくりと首を振った。
そしてにっかりと笑う。
「違います。俺が、やりたくて、やったんです」
言い終えるとかすかに息を吐き、銀之介の身体から全ての力が消え失せた。
砂利をまき散らし、地面へ倒れ込んだ彼を、鈴緒は言葉もなく見下ろす。
数メートル先で、相変わらずヤマノモノはうごめいている。激しくのたうち回っていた白い体も、徐々に落ち着きを取り戻していた。
逃げなければいけない、と鈴緒にも分かっていた。
だけど銀之介の身体を置いて、逃げられるわけがない。そうすれば、一生彼と会えなくなる。
鈴緒は両手で彼を引っ張る。だが非力な彼女の力では、腹立たしいぐらいにゆっくりと、引きずることしか出来なかった。
「やだ……助けて、助けてぇ!」
涙で顔をぐちゃぐちゃに濡らし、喘ぎ喘ぎ、鈴緒は誰へともなく呼びかけた。
「助けて!」
銀之介の物言わぬ身体を引っ張りながら、ひときわ大きく慟哭した。
それを合図に、起き上がったヤマノモノが再び突進して来た。
だが今度は、二人に触れることすら叶わなかった。
見えない壁が、ヤマノモノを阻む。ガラス戸にぶつかる野鳥のように、ヤマノモノは弾き飛ばされ、無様に地面を転がった。
ぽかん、と鈴緒はその光景を見ている。すると彼女の周囲で、風が起こった。
涼やかで清らかな、一陣の風だった。
風は、黄色い霧を二つに割った。『旧約聖書』の有名な一場面を、鈴緒は連想した。
霧の晴れた道筋に現れたのは、残念ながら預言者ではなかった。
代わりにもっと珍奇で、可愛らしいものだった。
鮮やかな花柄の着物をまとった、三毛猫だ。それもそつなく、二足歩行で歩いている。
猫の瞳は、この玉依島を包む海よりも、澄んだ青色だった。
「アオネコ、さま?」
ぽつり、と無意識にこぼれ出た鈴緒の言葉に、三毛猫はニャアと鳴いた。
「よく分かったな、偉い偉い」
しかも喋った。