19 一時休戦、と開戦
霧の向こうから、繰生も現われた。こちらは緑色の、「玉依中学」と書かれたジャージを着ている。恐ろしいまでに、その着古された上下のジャージが似合っていた。
牧音の舎弟である彼が、異界にいたところで不思議はない。
しかし繰生の方は、鈴緒を見下ろし、のんきな顔を仰天させていた。
「あれ? ザシキワラシを捕まえたんじゃなかったの?」
「見間違えた。こいつと、ザシキワラシのシルエットが似てるから悪いんだ」
腕組みする牧音は、舌打ちしかねない勢いで鈴緒を睥睨する。
二人によると、隣家に宿っていたザシキワラシが逃げたため、異界まで追いかけて来たらしい。
へたりこんだまま、鈴緒は呆けた面をさらしてその説明を聞く。
彼女の間抜け顔に気勢を削がれたのか、牧音は面倒臭そうに手を振った。
「あっちに行きゃ、鏡に通じる道がある。どうせうっかり迷い込んだクチだろ? あんたは帰れ、さっさと帰れ」
凛々しい眉毛を更に寄せて、しっしと鈴緒をあしらう。
「牧音ちゃん。犬じゃないんだから」
繰生もなだめつつ、鈴緒へ帰還をうながす。
「早く帰った方がいいと、僕も思うよ。現世の状況は分からないけど、金次郎さんたちが心配してるだろうしさ」
「あんたの子分のロリコン野郎も、メソメソしてんじゃない?」
ふん、と鼻息荒く牧音も吐き捨てる。
酷い言われようであるが、あながち間違いでもないため、反論は控えた。
代わりに、ふとした疑問が口をつく。
「あの、ザシキワラシ、とは何ですか?」
「はぁっ?」
大きな猫目を更にひん剥いて、牧音が驚く。次いで、すうと息を吸いこんだ。
息は、怒声となって吐き出される。
「あんた、マジで馬鹿かァッ! 日本の化生で、一、二を争って有名だろうがよぉ! 守り人の座にあぐらかいて、勉強してないってか? 困ったら、ロリコンに訊きゃいいってか? もしくはじい様に泣きつくワケか? ちょっとは自分で調べろよぉ! この、都会育ちのモヤシ野郎!」
怒涛のマシンガン罵声だ。
しかし口調こそ荒いものの、今の台詞は至極正論。非は鈴緒にある。
そして何より、異界においては牧音の罵倒の方が、安全だ。
むしろ、まだ正気のまま生きているのだと、ほっとする。
「ごめんなさい、勉強を怠けてるです」
教室で目が合う時よりも素直かつ、気負いなく彼女に謝ることができた。
「まあ、反省してるなら、いいんだけど?」
思う存分言ってスッキリしたのか、牧音は案外すぐ沈静化した。以前に繰生が言っていた通り、怒りを溜めずに放出して、あっさり忘れる性質らしい。
さっさと気分を切り替えた彼女は、よどみない口調で鈴緒へ講釈を垂れる。
「じゃあ特別に、今回だけ教えてやるよ。ザシキワラシは、ガキの姿した福の神。あんたの国にも、家に住み着く妖精がいるでしょ?」
「ブラウニーですか?」
「それ。それと似たようなもん。まあ見た目は、オカッパ頭でちょうど、あんたみたいな背格好なんだけど……ほんと、紛らわしい」
最後は恨めしげにぼやき、牧音は艶やかな黒髪をかきあげた。そして、繰生へ目配せする。繰生も素早くうなずき返す。
「逃げ出して、もう結構時間が経ってるね」
「チビなくせに、足が速いな。今度は川向こうを探すよ」
「うん、分かった」
言葉少なに意思疎通する二人を、ぼんやりと見送りかけて。
先ほどの化け物を思い出した。
青ざめて震えながら、今にも走り出そうとする牧音のジャージを、咄嗟に引っ張った。
掴まれた牧音は、心底うっとうしそうに彼女を見下ろす。
「何? 帰りは向こうだって、言っただろ?」
「ちがっ、こっ、ここ、危ない! とても危険、追わらるる!」
相手が牧音な上に焦っていたため、いつも以上に日本語が混乱していた。
「……何が言いたいか、全然分からないんだけど。あんた、マジで日本語勉強した方がいいんじゃない?」
哀れみの混じった表情でそう言って、牧音は鈴緒の腕も振り払う。
ぞんざいに扱われつつ、鈴緒も食い下がった。
「でもっ、本当なんです! 怖いです!」
「あー、あー、うるさいんだよぉ! 異界が危険なことぐらい、知ってるに決まってるだろうがよ!」
真っ直ぐな髪をかき回し、及び腰で訴える鈴緒に反論する牧音。
こんな時、仲裁するのが繰生の役目である。
少女二人を交互に見ながら、人の好い顔を呆れ顔に変えた。続いて二人の間へ、割って入ろうとする。
その彼の頭に、小さな何かが落ちてきた。
つまみあげたそれは、葉っぱだった。
形こそよくある広葉樹のそれだが、色はやはり紫色。
おまけに、人の顔を思わせる薄気味悪い模様があった。
その模様が揺れた。ニヤリ、と笑いかけてきたような気がした。
「うへぇ! 気持ち悪いなぁ」
口論そっちのけでうめき、繰生は慌てて落ち葉を捨てる。
だがその間にも、葉はパラパラと周囲に降り注ぐ。まるで、誰かが木に登って揺らしているように。
「ん? なに、落葉?」
牧音もかすかな異変に気付いて、鈴緒と同時に上を見た。
そして、二人してあんぐりと固まる。
虎模様の巨大蜘蛛が、長い脚で器用に樹木へ絡みついていた。
「いい加減にしてよ……逃げたと思えたのに……」
「はぁっ? ツチグモに目つけられてたのかよ、あんた!」
鈴緒の震える声に、牧音が噛みつく。
「人間に化けては騙して食らいつく、とんでもない悪食なんだよ! なんて野郎を連れて来たんだよ、出来損ないロンドン野郎!」
ツチグモとは何ですか、と再び問いかける前に、繰生を盾にしながら牧音がまくし立ててくれた。
ガサガサと木から降りてくるツチグモに腰を抜かしながらも、鈴緒は少し感謝していた。
それにしても、出来損ないロンドンとは何なのか。




