17 落ちるはアリスのごとく
暗い穴を、ずんずん落ちて行く。
穴の入口も出口も、もはや分からない。
それでも、己を捕まえようとする何かの感触だけは確かに存在し、四方八方から彼女を襲う。鈴緒は赤い糸を織り込み、網を作って自分を守った。傍から見れば、それは赤い繭のようだった。
何重にも重ねたシトリ糸の中で、見えない脅威と、そしていつか来る終着点の衝撃に怯える。
自分を捕まえんとする脅威は、徐々に遠ざかった。
だが、穴の終わりは見えなかった。
繭にくるまったまま、いつしか鈴緒の意識は途切れがちになっていた。現実逃避をするように。
そして、うたた寝の中で夢を見た。
夢の中で、自分は小さな子供だった。今でも平均よりはずっと小さいが、おねしょをしても、駄々をこねても許されるぐらいに小さい。
幼子の自分は、あの秘密基地めいた砂浜で号泣していた。
落とし穴に落とされたのだ。
作り主は、島の子どもたちだった。幼い鈴緒と同世代あるいは少々年長の彼らは、見た目そのものが異分子である彼女を容赦なく攻撃した。数の暴力である。
「帰れよ、外人! 気持ちわるいんだよー!」
「知ってるか? おまえの目な、大人になったら見えなくなるんだぜ。変な色してるもんな」
「外人のくせに、日本語しゃべってんじゃねえよ」
罵声と共に、彼らは幼い顔へ悪意を塗りたくる。穴の底で縮こまる鈴緒目がけ、水鉄砲の水も容赦なく吹きかけていた。
「やめて、やめてぇ」
人形を抱きしめながら、鈴緒は両手で顔をかばう。そして力なく、懇願し続けた。
弱々しい姿がまた、彼らの嗜虐心を煽り立てるのだろう。
一層狂気じみた笑い声を上げて、彼らは砂浜へしゃがみこんだ。
「おい、砂団子ぶつけようぜ!」
「誰が一番当てれるか、勝負だな!」
「動くんじゃねえぞ、外人!」
鋭い命令に、喉を引くつかせて鈴緒は固まった。
だが砂団子を振りかぶったところで、少年たちは何かに気付いたらしい。
一斉に、遠くを見た。
「うわ、やべ」
「逃げろ、外人の手下が来た!」
上ずった声だけ残し、逃げ出す。
鈴緒へ向かって吹きつけていた水鉄砲や、落とし穴用に使ったスコップも放り出して。
穴の中にいる鈴緒にとって、外界の動向は分からない。泣き腫らした赤い目で、逃げる悪ガキたちを呆然と見送った。
人気も物音もなくなった落とし穴を、ヒョロリとした影がのぞきこんだ。
釣り目気味の少年は、ぶっきらぼうに細い腕を伸ばす。
「おい、早く出てこいよ」
「おにいちゃん!」
ぶわり、と再び涙をこぼしながら、鈴緒はその腕にしがみついた。
「うわ、汚えな! 鼻水つけんなよ、ばか!」
少年は顔をしかめながらも、鈴緒を引っ張り上げてくれた。そして砂浜へ立たせ、ワンピースに付いた砂をはたき落す。
されるがまま、鈴緒はただただ泣き続ける。
「ごめんね、おにいちゃん、ごめんね」
「おれはお前のお兄ちゃんじゃねえ。名前で呼べよ」
しゃくり上げる鈴緒へ、少年はずっと仏頂面だった。
だがその、年不相応に鋭い眼差しが、しばし驚きで丸くなる。
「そいつの服、破けてる」
「え? あっ、うぁ!」
少年に指さされ、鈴緒はようやく、抱きしめていた人形へ目を落とす。驚きのあまり、涙は束の間引っ込んだ。
お気に入りの人形のドレスは砂だらけの上、袖の縫い目が裂けていた。落とし穴へ落とされた際に、破れたのだろうか。
「だいじなドレス……おじいちゃんが、かってくれた……」
再び、鈴緒の緑の瞳が潤み出す。だが涙がころげ落ちる前に、舌打ちの音がした。
音の出所は、少年だった。
「それぐらい直してやるよ」
「ほんとう?」
「たぶんだけどな。母ちゃんの見てたから、たぶんできる」
やや乱暴に、少年は彼女の頭を撫でた。そして、小さくはにかむ。
「直してやるから、さっさと泣きやめ」
「うんっ」
小さな両手で目じりを拭い、鈴緒も大きくうなずいた。
意地っ張りな少年は、粗野な言葉の端っこに、いつも優しさを宿していた。
幼い鈴緒は、少年が時々見せてくれる笑顔にいつも、温かい気持ちを覚えていた。
きっと、初恋だったのだろう。
「ばかはあたしだ。全部、忘れていた」
淡い思いにたゆたいながら、呟きと共に目を覚ます。
その拍子に、夢の残滓が頬を伝った。
さり気なく彼は、ずっと意思表示をしてくれていたのだ。
自分のことを忘れていた鈴緒へ、心を砕いてくれていた。命を賭けてまで。
見ず知らずであるはずの彼女の両親のことも、よく知っていた。
お守り石の由来を知らない、と言った時には、悲しげな顔も見せていた。
懺悔の痛みと共に、柔らかな感情がじわりじわりと内に広がる。
これが郷愁だろうか、と鈴緒はぼんやり考えた。
だが、いつまでも物思いにふけっているわけにもいかない。
辺りを見渡して現状を把握し、げんなりとする。
意識を失ったためか、糸は消失していた。代わりに彼女の体は、もぞもぞと動く紫の草むらに投げ出されていた。
まごうことなく、異界まで落とされたらしい。夢でも現実でも、今日は落ちてばかりだ。この際、転落死をしなかっただけ、よしとしよう。
己の中でそう結論付けながら、どうしたものか、と立ち上がる。
今回は鏡を用いての、異界渡りをしていない。
穴から落ちてきた場合には、どのように帰るべきなのか。
「霧のかたまりに、くぐって、逃げるかな」
辺りを漂う人面蝶から小走りで逃げつつ、かつて銀之介よりもたらされた情報を思い返す。
彼の顔を思い出し、涙がじわりとこみ上げる。
しかし。
「鈴緒さん」
その心細さが呼び起こしたのか、聞き慣れた低い声が、化け物だらけの世界に響いた。




