16 イチゴへ口づけ
「やっぱり化生の証言は、いまいちあてにならない」
ハンドルを握る銀之介は、むっつりとしていた。そして不信感を吐露する。
行きと同じく気まずそうに助手席に座っていた鈴緒は、その言葉に首をひねった。
「どうして、あてにできない?」
「言ってることが、銘々てんでバラバラですよ?」
ちらりと隣を見て、銀之介は弱々しく笑う。
だが鈴緒は、そうだろうか、と再び首をかしげた。
「あのピエロさんは、外国のお人形ね?」
そして出し抜けの問いに、銀之介は虚を衝かれた顔になる。鋭い眼差しも丸くした。
いつもの癖で眼鏡を押し上げつつ、数拍の後、こくりとうなずく。
「ええ。国富の奥さんの幼少時代に購入された、舶来品だとか」
「そしてヤマノモノさんは、日本の蛇」
「十中八九、そうでしょうね」
「だから『異なる者』も、そういうことだ」
言葉足らずな鈴緒の結論を、銀之介が補った。
「つまり、外国の化生が紛れ込んでいると?」
「ピエロさんが懐かしむ、それしかないと思う」
真面目くさった顔で、鈴緒は何度もうなずいた。
だがその仮説に、銀之介は控えめに微笑み、反論した。
「妖精が紛れ込んだところで、ここまで騒ぎ立てるでしょうか? 鎖国時代じゃあるまいし」
「分からないよ? いっぱい、いっぱい、妖精がやって来たかもしれない」
両手で大きく円を描き、大群ぶりを表現した。
「あー、そりゃ困る」
一所懸命な所作の鈴緒に、銀之介はとうとう大きく吹いた。
そしてハンドルを切り、獣道に近い小路へ入る。
行きと異なる道筋に、鈴緒はやや顔をひそめた。
「道を迷った? ここ、違うよ」
「合ってますよ。金次郎さんへの報告は後にして、気晴らしに行きましょう」
ニヤリ、と銀之介は笑う。
そんな顔にだまされないぞ、と鈴緒は緩む頬を締め直した。
道へ覆いかぶさる枝葉を弾き飛ばしながら、車は進む。
薄暗い道程に、鈴緒は疑わしげな表情を浮かべる。肩も強張らせていた。
「人さらい、ちがうか?」
「何をいまさら」
だがそれも、雑木林の間から見えた光景によって一転する。
小路を抜けた先には、小さな浜辺があった。
木々に隠されたそこは、ちょっとした秘密基地のようだった。
まろやかな弧を描く砂浜に、透明度の高い水が引き寄せられては、また遠ざかっていく。穏やかな波だった。
「この獣道を通らなきゃ来れないんで、観光客も滅多に訪れないんですよ」
車を降りた銀之介は、どこか誇らしげだった。
跳ねるように助手席から降りた鈴緒も、ペリドットの瞳に海面の光を反射させ、全身から喜びを発散する。
輝く笑顔で、くるりと銀之介へ振り返った。
「素敵! きれいね! そして、とても懐かしいです」
「懐かしいですか」
「はい。来たことあるかもしれない」
「小さな頃に、ここで遊んだのかもしれませんよ」
ふっと目を細め、銀之介も笑う。
たちまち、鈴緒は赤くなった。
自分の浮かれっぷりを思い返すと、なお恥ずかしくなり、焦ったように顔をそむける。
赤い横顔へ、銀之介は問いかける。
「気分転換に、と思ったんですが……迷惑でしたか?」
少し自信なさげな声に、ふるふると頭を振る。そのたびに、栗色の髪が左右へ散った。
黙りこくった鈴緒を、銀之介も黙して待ってくれた。
頬に注がれる彼の視線を避けつつ、彼女はようやく絞り出すように、ぽつりと尋ねた。
「どうして、優しいの?」
「うん?」
「あたしに優しい。どうして?」
「やりたくてやってるだけですから、気にしないで下さい」
答えはあっさりかつ、あっけらかんと返された。
欲しい答えは、そうじゃなかった。
かと言って、自分の求める答えを、声高に叫ぶこともできない。
もどかしさを抱え、鈴緒は視線を砂浜に落とす。いじいじと、小さな砂山をつま先で蹴った。島の子どもが作って、そのまま放置したものだろうか。
存外派手に飛び散った砂を眺めていると、背後の気配が近くなった。
「やっぱり最近、変ですよ。あ、ホームシックですか?」
「違いま──ヒャウァッ!」
からかう声音に反論しようとして、裏返った声が出た。
つつ、と銀之介に背中を撫でられたのだ。
粟立つ背中へ腕を回し、鈴緒はキッと銀之介を見上げる。
「ヘンタイ!」
「だって鈴緒さんが、こっち向いてくれないから」
飄々とした言い訳に、鈴緒は小さな体で目一杯地団駄を踏む。
「肩叩けばいいだろ! どうして撫でると思い至る!」
「叩いても無視するくせに」
突然声に、湿っぽさが混じった。
一瞬、鈴緒は言葉を見失う。そしてしかめっ面で、やけっぱちに言い返す。
「しないもん」
出来ないからいつも、狼狽しているというのに。
「それなら、また笑ってくれますか?」
問いかけと同時に、体の脇に降ろしていた両手を取られる。かすかに抵抗するが、大きな手でギュッと握られた。少しかさついた感触が、くすぐったい。
慌ててにらみつけるも、愉快そうな目で見下ろされるだけだった。
無言の攻防の末、鈴緒は諦めた。
ふう、と肩をすくめる。
「怒ったり、悲しんだり、じゃありません。頭がグルグルしてるの、あなたに」
「俺に?」
「だって、何考えてるのか分からない」
イチゴミルク色の頬を膨らませ、恨みがましく銀之介を見上げる。
銀之介は一瞬呆れ顔を浮かべたが、すぐにキュッと口元を引き締める。
「見た通りですよ、俺は」
そう呟くと、両手で包み込んだ鈴緒の手を持ち上げ、かすかに身をかがめた。
何をするつもりなのか、うつむいた彼の表情からはっきりと分かった。
だが脳は理解出来ていても、彼女に止める猶予はなかった。
控え目な音を立て、薄い唇が手の甲へ落とされた。
イチゴミルクどころの騒ぎではない。イチゴジャム色になった鈴緒は、叫んだ。
「ばか!」
上ずった怒鳴り声に、銀之介も顔を上げる。
眼鏡をかけた強面は、いつもの笑顔を引っ込めていた。
代わりに、怖いぐらい真剣な表情で、一時もそらすことなく鈴緒を見下ろす。
「何を考えているのか分からない、と言われたから示しました」
猛禽類を連想させるその顔立ちに、鈴緒は甘ったるい眩暈を覚える。
「でも、こんな……っだって、うぁ、やらしい!」
手を振り払い、頭も振って、彼女は銀之介から後退した。
左足が大きく後方へ踏み込んだ時、その地盤が崩れた。
つられて体も、後ろへとのけぞる。
鈴緒の視界は、かすかに目を見開いた銀之介から、いわし雲の並ぶ青空、そして一面の砂へとめまぐるしく変わった。
要するに、落とし穴に落ちたのだ。尻もちをついて。おそらくこれも、島の子どもの仕業であろう。
深さ・広さ共に申し分なく、子供たちの熱意にいっそ感服してしまった。
「大丈夫ですか?」
穴の縁にしゃがみこみ、やや青ざめた銀之介が声を荒げる。
当事者である鈴緒は、口の中に砂が入った以外、大きな損害を被っていなかった。少しばかり、お尻が痛いぐらいだ。
ぺっぺと砂を吐きながら、銀之介へ軽く手を振る。
その手が、中途半端にかざした状態で止まる。
「鈴緒さん? どこか怪我しましたか?」
銀之介もいぶかしむが、その声も通り抜けて行った。
強い既視感に、彼女の華奢な体は包まれていた。胸の奥をぐいと押さえつけられたような切なさも、同時に襲いかかる。
薄暗い穴の底から見上げる光景を、どこかで見た記憶がある。
どこだったのだろう。いつのことなのだろう。
ぼんやりと考えていると、視界まで霞みだした。
いや、これは霧だ。
異界へと誘う黄色い霧が、落とし穴の底から湧き上がっていた。
「早く!」
穴へ飛び込まん勢いで、銀之介が腕を伸ばす。
鈴緒も事態を飲み込み、立ち上がろうとするが、遅かった。
その足を、かざしたままの手を、見えない何かが掴む。
「銀之──」
名前を呼ぶ暇すら与えられずに、鈴緒は霧の中に引きずり込まれた。




