10 ある朝の風景
日向家の本家の朝食は、基本的に日本食だ。
お麩の入ったアオサの味噌汁に、だし巻き卵。塩漬けした秋鮭に、茄子の煮びたしという、実に質素な内容である。
だが鈴緒は、いつも大満足している。母の作る朝食といえば、煮豆にパン、そしてパサパサのソーセージであった。母本人は大好きだが、朝食に関しては赤点だ。
本日も目を輝かせ、祖父の秘書が作ったご飯に舌鼓を打つ。
そしてクスリ、と困った笑みになる。
「ご飯おいしいけど、銀之介さんは、いい人か分からないね」
「幼い時分からちょいとばかり、変わり者じゃからのう」
向かいで鮭の身をほぐしていた金次郎も、ホッホと笑う。
「お人形の洋服作りが好きじゃったり、お菓子作りが好きじゃったり……その割に血の気も多かったから、趣味をからかわれては、喧嘩ばかりしてのう」
「うん、分かる」
その片鱗は、先のヤマノモノとの対談で味わっていた。鈴緒もしみじみと、うなずく。
そして問題の青年は、この茶の間にいなかった。彼の分の朝食は、中途半端に手を付けられた状態で残されている。
「銀之介さん、遅いね」
お茶を飲んで、鈴緒が廊下へ目を向ける。
銀之介は応接室にて、来訪者の対応をしているはずだ。しかし厄介な問題を持ち込まれたのか、なかなか戻ってこない。
不安そうな鈴緒を、金次郎も似たような表情で眺める。
「ワシも、少し様子を見て来ようかのう」
金次郎が座卓から立ち上がろうとした時だった。引き戸が半分ばかり開かれる。
「すみません、遅くなりました」
銀之介が、眼鏡を押し上げながら顔をのぞかせた。そして、金次郎へ手招きする。腰を浮かせていた彼は、立ち上がっておどけた表情を作る。
「なんじゃ? ひょっとして、ワシ宛の恋文でもあるのか?」
「んなわけないでしょう。串間さんの奥さんから、化生関連でのご相談があります」
鈴緒を一瞥して、銀之介は声を潜めた。
「息子さんが、どうやら化生に取り憑かれたようで」
「おや。そりゃ一大事だな」
口調は深刻だが、金次郎に慌てた様子はない。緑茶を一口すする。
「うむ、腹ごしらえもばっち来いじゃ。それでは、ワシが出向くとしよう。銀之介は、鈴緒をきちんと送ってやるように」
「はい、心得ました」
了解し合う二人へ、鈴緒が立ち上がって割り込む。
「あたしも守り人です。クシマさん、のお話聞きます」
「おやおや。お前は学校があるじゃろう?」
わざとらしく驚いた金次郎へ、鈴緒は胸の前で手を重ねて訴える。
「学校大事。でも、よそ者を見つけるのも、大事! 手伝います」
彼女の脳裏に引っかかるのは、ヤマノモノが警告した『異なる者』の存在。未だにその存在はおろか、痕跡すら掴めていない。
しかし金次郎は、鷹揚に微笑む。
「そう焦るんじゃない。まだワシも健在なんじゃ、お前は学業を優先させなさい」
「でも、心配よ」
「大丈夫。油断はせぬ、怪我人も出さぬ」
「ん……」
鈴緒はその言葉に渋々うなずいたものの、不満たっぷりの顔だ。それをなだめるように、金次郎は彼女の頭を一つ撫でて、そそくさと応接間へ向かった。
銀之介も苦笑を浮かべ、自分の席に座る。そして、独り言を呟くような口調で、静かに語る。
「串間さんの息子さんは、悪夢にうなされたり、ふらりと姿を消したりしているそうです。幸い、暴れることはないらしいので、安心して下さい」
「うん」
「それに金次郎さんは、ああ見えて歴戦の猛者ですから。ただのハゲじじいだと思ったら、大間違いですよ」
「あたし、ハゲなんて思ってないよ」
思わず笑って見つめれば、彼もニヤリと笑っていた。
銀之介の言葉に、少しだけ心が軽くなった。鈴緒も座り直し、朝食の残りを食べた。
二人が食べ終わったところで、学校へ向かう。銀之介の運転する車で。
先日の痴漢遭遇事件後、金次郎は車での送迎を義務付けた。運転手は銀之介だったり、時々金次郎だったりしている。
どうやら銀之介が、宣言通りに性犯罪関連の資料を、金次郎へ提出したらしい。
鈴緒は「刺激が強いので、駄目です」とのことで、その中身を見せてもらえなかったが。
だが、金次郎が送迎を強要したり、鈴緒に防犯グッズを持たせた辺りから、どういった刺激物であったかの予想は出来る。
過保護だ、と呆れる反面、素直に有り難いとも思えた。
行きはともかくとして、一人で帰る夕方の山道は、薄気味悪いのだ。
「それにね、変なのも見えるの。気のせいかもだけど」
「変なの、ですか」
ハンドルに手を添えて前を見据えたまま、銀之介は声だけを、助手席の鈴緒へ投げかけた。
シートベルトを締めた彼女も、流れる景色を眺めながらうなずく。
「家と家の間。木と木の間。そういうところに、ぼんやりと、時々見えます」
温度のない声音で、鈴緒はささやいた。
現に今も、見えていた。
黄色い霧をまとった半透明の人モドキが、木陰からこちらを伺っていた。凝視した途端、それらは雲散霧消してしまう。中には恨みがましい顔で、鈴緒をにらみ返す者もいたが。
かすかに震える彼女に、銀之介は合点が行ったと大きくうなずく。
「お守り石を、身に着けていませんからね。以前より、よく見えてしまうのでしょう」
「お守り石、そんなすごかったのか? ただの石じゃない?」
何気ない彼の答えに、鈴緒は仰天する。
彼女にとってのお守り石は、物心ついた頃からの惰性でぶら下げていたものだった。肌身離さぬように両親から言いつけられていたし、何より鈴緒自身にも愛着は湧いていた。あまり由来については、深く考えていなかったのだ。そして、その真価についても。
鈴緒のその単純さに呆れたのか、銀之介は少し悲しげな顔になる。
「あのお守り石は、金次郎さんが作ったものだと思いますよ。化生に脅かされている島の方へ、よく似たものを渡していますから」
「待って、銀之介さん!」
ゆっくりとした説明に、鈴緒の慌てた声が被さる。
「おじいちゃんが、作ってくれたですか?」
「ええ、そうでしょうね」
一瞬だけ鈴緒を見つめ、こくりとうなずく。
即答に、彼女は先ほどよりも大きく震えた。
「おじいちゃんのプレゼント、気付かぬ間に、木端ミジンコにしてました……」
「仕方ないですよ、ヤマノモノが相手だったんですから。むしろ、今まで割れなかったことが奇跡ですよ。ロンドンみたいな都会じゃ、化生もいなんでしょうね」
笑顔でそう励ましつつも、鈴緒が未だ沈んでいることに気付いたらしい。
銀之介は少しばかり自虐的な笑みに変わって、再び口を開いた。
「俺も小さな頃は石を持っていましたが、好きな子にねだられて、あげちゃいましたし」
「いいの、それ?」
「いえ。親や金次郎さんに、しこたま怒られました」
全く悪びれていない彼に、鈴緒もつられて笑う。
「罰当たりだ」
「罰当たりですよね。今まで無事だったのが、俺の方こそ奇跡ですよ。あ、一回死んだっけ」
あっけらかんとした銀之介に、丸ごと毒気を抜かれてしまう。
鈴緒は気の抜けた笑みを浮かべつつ、少し身を乗り出した。鮮やかな緑の目には、好奇心の炎が灯っていた。
「好きな子って、誰ですか? 島にいますか?」
「内緒です。もう十何年も前の話ですから、向こうもきっと、覚えてませんよ」
「住所も、電話番号も知らないの?」
「それも内緒」
気恥ずかしいのか、銀之介はうっすら赤面しながら苦笑している。どうやら初恋らしい。
鈴緒は日ごろのお返しとばかりに、ニヤニヤしている。
そのニヤニヤを横目に見て、銀之介は珍しく大きなため息をついた。
「そういうところは、金次郎さんに似ていますね」
「そういうところは、どういうところ?」
分かりきっているのに、鈴緒はあえて首をひねる。銀之介も少し、げんなりしている。
「少しばかり、下世話なところ。好奇心は猫をも殺しますよ」
「大丈夫。あたしの神様、猫だから」
誇らしげに背筋を伸ばした鈴緒に、銀之介は降参とばかりに小さく笑った。
ここでようやく、車は玉依高校の裏門に差し掛かる。
ただでさえ悪目立ちしている鈴緒は、自動車送迎を受け入れる代わりに、裏門への停車を譲らなかった。こちらならばまず、登下校する生徒と行き当たらない。
「はい、到着ですよ」
「ありがと」
後部座席のカバンを取ってくれた銀之介へ礼を述べ、鈴緒は外へ飛び降りる。悪路もへっちゃらのこの車は、少しばかり車高が高いのだ。
灰色の装甲車もどきの窓から顔を出し、銀之介はにっこり笑う。
「それでは、また後で」
「え?」
いつもと違う別れの言葉に、鈴緒は丸い目をまたたいた。
しかしそれを問う暇も与えず、車は走り去った。
ここでぼんやりと考えても仕方がないし、考えるほどのことでもないかもしれない。単なる彼の気まぐれである可能性も、大だ。
鈴緒はさっさと正門へ回り、昇降口をくぐり抜けた。
今日の午後は、島内の博物館への校外学習だ。




