1 真っ赤なワンピースと黄色い霧
その定期船の行き先は、玉依島という小さな島だった。
主産業は農業、漁業、そして観光業。風光明媚と言えば聞こえは良いが、要するに田舎の小島。
だから定期船に乗っている顔ぶれも、農業を営む朴訥とした島民や、本土の学校に通う学生ばかり。
牧歌的な群衆の中で、彼女は少し、いや非常に浮いていた。
赤い生地に黒の水玉を散らしたワンピースに、革のジャケットとブーツ。そして飴玉みたいな球形のピアス。小柄な体を包んでいるものは、攻撃的な色味と造形のものだった。
装いに反して、彼女の顔立ちや表情は幼い。ミルクのような白い肌に、顎の位置で切り揃えられた栗色の髪。そしてくりくりと丸い緑の瞳。コーカソイドの血が混じった少女は、さながら人形だ。
動くお人形は、物珍しそうな乗客の視線を一切無視して、携帯ゲームに熱中していた。小さな口をすぼめ、素早くボタンを連打している。リズミカルに押す仕草には、慣れきったものがある。
事実、少女は慣れっこだ。自分に注がれる、不躾な眼差しに。
そうこうしている内に、周囲の景色が変わる。四方を水面に囲まれていた船の先に、ポツリと小さな点が見えた。
点はどんどん大きくなり、港になる。玉依島の港には、漁船がいくつも停泊していた。
漁船の間を縫って、定期船は横付けされた。乗客は、示し合わせたように列を作り、足並みそろえて下船する。
少女も列の、最後尾に並んだ。チェック柄のトランクを片手に、港を見渡している。乗船していた人々の中で、彼女が一番の荷物持ちだ。
それもそのはず。少女は今日、この島へ移住するのだ。大半の荷物は、既に新居へ輸送済み。何点かの着替えと、そして携帯ゲーム機が旅のお供であった。
客を見送る操舵手は、その中に混じった奇抜な少女に、一瞬面喰う。
「あ、えー、アイ、えっと……サ、サンキュー?」
続いて舌を絡ませた彼へ、少女はにっこり笑った。途端に、造り物めいた雰囲気が消える。
「大丈夫です。あたし、日本語分かります」
「あ、そうでしたか……上手ですね。ハハ」
自分より何回りも年下の少女に励まされ、操舵手は赤い顔で半端に笑う。
困った時に笑う癖は、日本人の父親を見ているので何となく理解している。少女も曖昧に笑い返し、さっさと港へ降り立った。
その拍子に、首からぶら下げた、無骨なペンダントがふらりと揺れた。
新天地である玉依島は、しみったれているようでもあり、情緒満点であるようにも思えた。
「うん、とても日本的」
漁師から魚を貰っている猫や、呑気に井戸端会議をする女性たちを眺め、少女はそう結論付ける。
絵に描いたような、日本の田舎である。石造りの建物に囲まれていた彼女にとっては、とても新鮮だ。
「日向 鈴緒さんですね」
頷く彼女を、不意に呼ぶ声がした。低い、男性のものだ。
声の方向へ振り返り、鈴緒はちょっと目を大きくした。彼女が長年暮らしていたロンドンでも目立ちそうな、長身の男性が立っていた。
黒い短髪に眼鏡をかけ、びしりとスーツを着こなした男は、港の風情からは浮いている。
むしろ、ビジネス街を颯爽と歩いていそうだ。
ついでに、どこか既視感のある顔だった。知り合いに似ているのだろうか。
男は鈴緒が戸惑う様子に気付いたらしく、小さく笑いながら距離をゆっくり詰める。
「旭 銀之介です。金次郎さんの秘書をしております」
既視感の出所は分からず仕舞いだが、名前にはハッキリと聞き覚えがあった。祖父の金次郎が電話口で、「迎えに寄越す」と言っていた人物の名だ。
「あたしのお迎えに、来てくれましたか?」
見上げれば、先ほどよりも濃い笑みが返って来る。少し受け口気味な顎といい、全体的にガッシリとした体型の男だが、笑うと存外優しい顔である。
鈴緒も人懐っこい彼の笑顔と、聞き覚えのある名前に、警戒心を解いた。ペコリ、と頭を下げる。
「これからどうぞ、よろしくお願いします」
「恐縮です」
かしこまって礼を述べれば、銀之介も深々と頭を下げた。彼のその仕草で、「おそらくいい人」から、「きっといい人」へと印象が変わる。
「ここでお辞儀合戦をしていては、金次郎さんが待ちくたびれてしまいます」
苦笑を一つ、銀之介は鈴緒のトランクを軽々と持ち、駐車場へと向かう。鈴緒も小走りで、彼を追いかけた。
祖父の金次郎について、鈴緒はあまり覚えていない。幼い頃は頻繁に顔を合わせていたらしいのだが、記憶力があまり良い方ではないため、薄らぼんやりとした思い出しか持ち合わせていない。
そんな祖父と暮らすことに、無論躊躇はあった。
「相変わらず、鈴緒さんのご両親はお忙しいですね」
悪路も山道もへっちゃらであろう、装甲車のような車に乗り込みながら、銀之介はまた苦笑いを浮かべた。
鈴緒も全く同感であるため、同じく口元だけで笑う。
「ヨーロッパを行ったり来たりで、今度は東南アジアです。ついて行くのに疲れました」
「心中お察しします。お母さんは、イギリスの方でしたね?」
「はい。ロンドンの人です。紅茶は美味しいけど、ご飯はへたっぴでした。銀之介さんは、詳しいですね?」
「金次郎さんから、毎日孫自慢をされていたもので」
「オゥ……」
慣れた手つきでハンドルを切る銀之介へ、鈴緒は顔を引きつらせる。
身内を褒める文化圏で育ったとはいえ、半分は日本人。知らぬところで褒め殺しにされていたとなれば、なんともむず痒い。照れ隠しに、ゴツゴツとした半透明のペンダントをいじる。
煙水晶のようなそれは、陽光を時折反射して、ちらりと光っている。
銀之介の視線が眼鏡越しに、そのペンダントへ注がれた。
鈴緒も視線に気づき、ああ、と首元を見やる。
「これは、お守り石です。小さな頃から、悪いものを避けるために付けてます」
「やはりイギリスには、妖精がいるんでしょうか?」
「あたしは見てないです。お母さんは、『バカは見えるはずなのに』と言ってました」
ふるふると首を振れば、銀之介は吹き出した。
それでも車の道筋にブレはなく、開けた道を進み、狭い山道をすいすいと走り抜ける。
日本人の外見年齢は当てにならないが、彼はどう見ても二十代である。前半あるいは半ば、ぐらいだろうか。
「おじいちゃんの秘書は、長いのですか?」
ふと気になった疑問を口にすれば、銀之介は小さく首を振った。
「いえ、秘書としては三年目ですね。ただ金次郎さんの元で、以前から勉強はしておりました」
「デッチボーコーですか?」
「また古いものをご存知ですね」
「テレビで観ました」
「それ、時代劇ですよ。日本にもう、侍はいませんよ?」
ニヤリと笑われ、鈴緒は頬をむくらせる。
「知ってます! ……ニンジャはいます、ね?」
おずおずと確認すれば、声を上げて大笑いされた。
ますますふくれ、鈴緒はそっぽを向く。
そこで周囲に、霧が漂っていることに気付く。
十六年の半生のほとんどをロンドンで過ごしたとはいえ、霧と出くわすことは珍しい。
「霧の街ロンドン」という名称は、石炭を燃焼させた際のスモッグが、由来となっているのだ。現代では、そんなスモッグともほぼ無縁である。
加えて車の周りをたゆたう霧は、黄色がかっていた。
「不思議です。黄色いです」
窓に額をくっつけて呟く鈴緒に、銀之介は笑みを消した。
「あまりそれを、ご覧にならない方が良いですよ」
「どうしてです?」
「黄色い霧は、危険なんです」
湖面のような静かな声音に、鈴緒は窓から額を離す。
「……公害、ですか?」
「だと思って下さい」
「こんなに田舎なのに」
「田舎の方が、案外環境問題に疎いのですよ」
「なるほどです」
うなずきながら、窓を撫でていた両手もそっと持ち上げた。