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星のひかり  作者: 五十鈴スミレ
後日談
95/101

感謝しています、父さん

婚約の日の夜。

ジルとフェルナンドのお話。



「少し、飲まないか」


 夜も深まる時分。

 めずらしく晩酌の誘いをかけてきたのは、養父ちちだった。


「どうかしたんですか?」


 そう尋ねてしまったのも無理はないと思う。

 養父はたしなむ程度に酒を飲む。晩酌をするというそのこと自体はめずらしくもなんともない。

 けれど彼は、僕と積極的に関わろうとはしてこなかった。

 こんなふうに気楽に誘ってくることなんて、今まで一度もなかったというのに。


「婚約祝い、といったところだろうか」

「……それなら、いただきます」


 微笑みながらの彼の言葉に、了承する以外の選択肢を奪われてしまった。

 今日、僕はエステルに求婚し、受け入れられた。

 誕生日にプロポーズした場合は、そのままその会場が婚約発表の場となるものだ。

 僕とエステルとの婚約は、パーティーの出席者全員が証人となって結ばれた。

 それを祝ってくれるというなら、おとなしく受け入れるしかない。


 一人がけのソファに座った養父の斜め向かいへと腰を下ろす。

 使用人に持ってこさせたのは年代物のウイスキー。

 冷やされたグラスに氷を入れ、互いのグラスにウイスキーを注ぎ入れる。


「まずは、婚約おめでとう」


 養父はそう言って、グラスをこちらへとかたむける。


「ありがとうございます」


 そのグラスに自分のグラスを軽く当てると、チンッと澄んだ音が鳴った。

 彼がどんな思いで祝いの言葉を口にしているのか、推し量ることはできない。

 それでも、悪意からではないだろうと思えるくらいには、彼の人となりを知っている。


「私としては、ようやく、という思いのほうが強い」


 話しかけるというよりも、独り言のように、養父はこぼした。

 婚約のことを言及しているのだと、すぐに気づいた。

 彼は何を言いたいんだろうか。

 僕に何を聞かせるつもりなんだろうか。


「お前は昔からエステル嬢しか見ていなかったからな」

「そうですね」


 今さら否定するようなことでもない。

 僕がうなずくと、養父はおかしそうに笑った。

 彼の和らいだ表情を見る機会はそう多くはない。

 二人きりのときでは初めてかもしれないと、僕は驚き、反応に困った。

 間を持たせるためにグラスをあおる。

 アルコールがのどを焼く感覚に、思わず眉をひそめそうになる。

 成人してから数えきれないほど酒の席には立ったし、アルコールに弱いわけではない。

 それでもなんとなく、強い酒のもたらす熱が、僕は得意ではなかった。


「彼女が幼いころは心配にもなったものだった。今ではいい思い出でもあるが」


 グラスに視線を落としながら語る養父は、優しい目をしていた。

 深い緑の瞳は、まるで愛しい我が子を映しているかのように、やわらかく和んでいる。


「一つ、いいですか?」

「なんだ?」


 僕が声をかけると、彼は顔を上げた。


「ずっと、気になっていたことがあるんです。けれど答えなんてわかりきっているだろうと、勝手に決めつけていました。そんな僕に、エステルは勇気をくれた。だから、教えてほしいんです」


 こんなときでも、僕の脳裏に浮かぶのはエステルだった。


『わたしだけを見ないでください』


 そう、まっすぐに僕を見ながら、必死に言い募った彼女。

 僕を愛してくれているだけでなく、僕の幸福を当人よりも考えてくれていた。

 ともすればエステルだけに向けてしまう関心を、他にも向けるようにと。

 二人だけの世界で完結してしまっては、僕も、エステルも、決して幸福とは言えない。

 そうはならないために、僕はエステル以外のものも、大切にしなければいけない。

 たとえば、養父との関係を。


 どうして今聞こうと思ったのか。なんとなくとしか言いようがない。

 ただ、今の彼なら、答えてくれるだろうと思ったから。

 保身のためにごまかすこともなく、僕のことを思って嘘をつくこともなく。

 それはもしかしたら、いつ聞いてもいい質問だったのかもしれない。

 勝手に壁を作っていたのは、僕のほうだ。


「どうして、僕だったんですか」


 あの孤児院に限定しなければ、優秀な子どもは他にもいくらでもいただろう。

 数ある候補の中から、どうして僕を選んだのか。

 そこに何か、優秀な子という以外の理由はあったのか。


「……そうだな」


 養父は考え込むようにしながら、グラスに口をつける。

 それからグラスをテーブルに置き、こちらに目を向けた。


「初めは、優秀な子だと聞いたから、というだけだった。あそこは、子ども一人一人を大切にしている孤児院だ。だから、孤児院でしあわせに暮らしている子なら、無理に養子にするつもりはなかった。お前と初めに顔を合わせたときは、ただ少し話をするだけのつもりだったんだ」


 僕を映している瞳は、時おり懐かしむように細められた。

 その時のことを思い出しているのだと、言われずとも伝わってきた。


「けれどお前と顔を合わせたとき、お前の目を見たときにね。寂しそうな目をしている、と思ったんだよ。まるでどこにも身の置き場がないとでもいうような、そんな不安そうな目だと。だから私はその場でお前を誘った。お前の居場所になれればいいと、そう思って」


 それは不快なほどに暑い、夏の日のことだった。

 背の高い養父と、年を感じさせない養母。

 僕に微笑みながら養父が告げた言葉を、僕は今でも覚えている。


『私の子にならないか』


 その日、僕は二人と家族になった。

 その日からもう、十四年も家族を続けている。


「私たちはお前の居場所となれただろうか」


 どこか不安そうに、養父は僕を見た。


「僕の家はイーツミルグです」


 考えることもなく、するりとその言葉は口をついて出てきた。

 あの時の決断を間違いだと思ったことは、一度もない。

 少なくとも今は、寂しそうな目はしていないはずだ。

 エステルがいるから。エステルが、僕と世界とを結んでくれているから。

 そこにはきっと、家族との絆も含まれているんだろう。

 目の前の彼との間に、確かなつながりを感じるのは、エステルのおかげだ。


「あなたの家を無事に継ぐことができて、よかったと思っています。それでは、答えになりませんか?」

「いや、充分だ」


 彼はそう言って微笑んだ。

 十四年前、一人だった僕に向けられたものと同じ。

 優しくあたたかで、慈しみのこもった微笑み。


「あなたが僕を望んでくれなければ、僕はエステルには出会えなかったでしょう。感謝しています、……父さん」


 ほとんど口にしたことのない呼称で、彼を呼んだ。

 彼は驚いたように目を見開き、それからうれしそうに表情をゆるめた。


「お前が私の息子になってくれたことを幸福に思うよ」


 それは本心からの言葉だったんだろう。

 やわらかな表情と声音が、そう教えてくれる。

 僕はきちんと微笑み返せていただろうか。

 あまり自信はないけれど、大丈夫だ。

 時間はいくらでもある。

 これから少しずつ、歩み寄っていければいい。



 僕は間違いなく、愛されているんだから。







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