棲くう者と喚ぶ者
彼女は蒼い館の前にいた。
時に呼ばれ、黄昏の者に惹き寄せられて。また、声がする。憎しい脚が、無意識に動く。
―しゃりんしゃりん。
――ちり…ん、りん、じゃり、りん。
音が鈍る。深く深く、耳の奥底を抉るような、漆黒の響き。
『宵卯の姫さま、どちらまで。』
彼女を呼ぶ声は、枯れかけたバリトン。力を込めて脚を留め、耀は振り返る。
『暁子の君、か?』
漆黒の霧から現われたのは、獅子。右耳を削がれた異形の頭。
『左様、茜にございます。このような処へ、何の御用で。』
獅子―茜は深くこうべを垂れると、その朱色の瞳で耀を覗き込む。
当然といえよう、この館へは余程のことが無い限り近づいてはならない。
例え、地鎮めの一族であっても、だ。
『呼ばれてる、というのか…引き摺られる感覚があるのですよ。丁度良かった、茜殿、何かお心当たりはございませぬか?』
耀の問い掛けに、茜はグルルと一唸りすると、困ったように口を割った。
『仰せの通り、呼ぶ声が煩くなっております。おそらくは…子を呼び寄せる母親の思念かと。』
『子を母が喚ぶ、と?何故?』
苦虫を噛み潰したような顔をした彼女に、獅子は答える。
『眠りに就いてくれぬのです。子を想うあまり狂ったまま逝き、そのまま…地縛霊が如き執念が眠りを妨げる。』
『では、子を手元に置かぬ限り喚び続けるのですか。そいつは。なんて忌々しいことを…死者はひとりだと言うに。』
そう、死者はいつも一人。
傍に置きたい、傍に居たいと強く願うものであっても。その者とは、永遠に逢うことはない。
ましてや、我が子など…自殺であれば、炎獄に永久に閉じ込められる。もし、子が喚ぶ声に負けたならば?…なんて浅はかな事を…。
怒りに、体が震える。
『茜殿。その魂を眠らせることは出来ぬのですか。館の主人たる、貴殿ならば…』
『残念ながら、宵卯の姫様。私は目覚めの朝・暁を司る者です。眠りを司る、夕亥か…もしくは、宵の姫様。貴女様にしか出来ぬことでございます。』
『私か、結…。?茜殿、結はいづこに?』
ふと耀は、いつも茜の足元にまとわりついている結が居ないことに気付く。
幼女の姿をした、可愛らしい黒き死者。
『それが…』
――ごうごうと、ただ。
音が反響しては消えてゆく。
『アァァ…ウウ、ゥ…どうシテ、ドウシテアノ子がイナイの。ワタシが、コロシたノニっ…!!アノ子はワタしのモノっ、渡サナイワタサナイっ!!』
結は、ただただ狂った霊魂を、静かに見つめている。群青の夕空色の瞳で。冷たく、つめたく。
『…結?』
この静寂そのものである筈の館で、滅多に聞くことの無いアルトの声。
結は無表情のまま、驚いた声音で振り返る。
『耀ねぇさま?どぉして此処に?』
結には、心の感情が無い。
声で表面の感情は窺い知れるが、心が死んでいるため表情が無い。
耀はそれを哀しげに一瞥すると、口を開く。
『なかなか戻らないと、茜が心配していたぞ。』
結は不思議そうに首を傾げると、また目線を件の霊魂に戻す。
―醜い色だな。耀は思う。
魂に実態はないが、オーラのような色合いがある。
固まりかけた血と腐った肉の混ざったような茶色、悲しみが怒りへ転じていく様の紫、憎しみが爆ぜる瞬間の紅…件の者の色は、大体この色で構成されていた。
禍々しい感情の、入り混じった色は。増幅するしか、術を持たない。
『耀ねぇさま。夕亥は、見えない壁に阻まれて、これ以上近付けないのです。』
ぽってりとした小さな唇から溜息が漏れる。
それもそのはずだろう。
夕亥は幼子の霊魂。肉体が無い分だけ障気にやられやすく、自己防衛の呪がなければ、間違いなくこやつに呑み込まれているだろう。
耀は、もう一歩を踏み出す。
―ばりっ。
『…っ。なんて狂気だ…』
鋭い痛み。腐敗臭。
電流が張り巡らされているような、弱き心の自己防衛。
―――がしゃがっ、しゃ、じりん。
既に鈴の音は、鈴ではなく鉛の塊をぶつけ合わせたような厭な音を発している。質が悪い。
『結、言霊封じ…できるか?』
『耀ねぇさま…まさか?』
結の声音が揺らいでいる。
無理もない。このような者ならば下手をすれば、霊魂を消滅させてしまうかもしれない。
『…死者の心は死んだときのまま動かない。正気に戻るとは到底思えないが…やるしかないだろ。』
まるで人が変わってしまったかのように、耀は冷たく言い放つ。
――死後の救いの場があれば好いのに、そう思えど、与えられない。
…生前のこの者は、沢山我慢を積み重ね、狂うほどに子を愛した。なれど、離縁したはずの子の父に取られそうになり、思いが爆ぜた。
そして…子を殺めた。否、殺めようとした子が刄を奪おうとし、その反動で己の心月圧に一突き。それが、最期だった。
哀れなものだ。なれど、もう…
止めようが無い。
“瑠璃?瑠璃。こっちへおいで。さあ…”
『はは、うえ…。』
幻影に縛られ、結は耳鳴りと頭痛を堪え、じっと時が過ぎるのを待っていた。
それは、永遠にも似た憂い。
鼻につく、香の匂い。艶やかな紅の唇。下弦の月。
『もう、お止めください…わたしは貴女のお人形じゃない、使い駒じゃない…』
それは過去の呪縛。
もう、幼い彼女には耐えられなかった。
“さあ、ホラ。どうしたっていうの?こっちへいらっしゃいな。
私の可愛いお人形…可愛い可愛い青銅の子。”
――光がほとばしる。血のように鮮やかな、艶やかな紅。
静寂が拡がる。
言霊封じは、成功したのだ。…制御を誤り、消滅させたこと以外は。
『ふぇ…耀ねぇさまっ…』
結の美しい紺碧の瞳から、涙が零れ落ちる。
『結…。』
酷だっただろう。
だが、今更何も出来はしない。間違いはしていないのだ、禁忌の言霊を無限に吐きださんとす者は、消されるしかない。
猶予を与えんとした耀は、常に“あまい”と言われるのだから。一族の掟は、冷酷にして正当。ゆえに、耀は異端なる者。
それでも…耀は結を慰めるように抱き締めた。
『戻られましたか。宵の姫。』
『…』
耀は黙りこくったまま、糸の切れた人形のように動かない結を横たえる。
『夕亥の能力を、ここからでも感じましたよ。』
茜は、さも当たり前のように言の葉を紡いでゆく。
凍ったままの耀の瞳を覗き込み、ニイと笑みを浮かべつつ。
『早う地鎮めの星司の名に相応しい方になられることを、お待ち申し上げております。宵の君。』
紅い瞳を優しく向けながら、茜は云った。
――その声には、温かさの欠片すら感じられなかった。
†星司耀
(宵に属する卯年生の姫)
地鎮めの一族・星司家の跡取り娘。
†茜
(暁に属する子年生の異形の獅子)
蒼い館のあるじにして、死者の霊魂の監視者。
†結
(夕に属する亥年生の幼子)
茜の侍女の役割をする、呪使い。
ホラーっぽくしようと思ったのに。静か過ぎる。フツーだ。
07/03/14
以前、HPに掲載していたものです。
あらゆる哀しみを少しでも感じ取って頂ければ、幸いです。