次は私の番
次は私の番
「またお前かよ」
玄関を開けた瞬間、俺はため息をついた。
女が立っていた。
長い黒髪。整った顔。黙っていれば、かなり綺麗な部類に入ると思う。
黙っていれば、だ。
「おはよう」
「帰れ」
ドアを閉める。
閉まらなかった。
隙間に靴が挟まっている。
「痛い」
「じゃあ足どけろよ」
「嫌」
「警察呼ぶぞ」
「呼べば?」
女は笑った。
いつからだっただろう。
こいつが俺につきまとうようになったのは。
大学からの帰り道。
コンビニ。
駅。
映画館。
気づけばいつも近くにいた。
最初は偶然だと思っていた。
二度目も。
三度目から、偶然ではないと分かった。
それでも無視していた。
だが、ある夜。
こいつは俺の部屋に入ってきた。
何をするつもりだったのかは知らない。
知りたくもない。
飛びかかってきたこいつの腕を掴み、そのまま床に押さえつけた。
「離して!」
「お前が襲ってきたんだろ!」
「好きなの!」
「知らねえよ!」
幸い、俺の方が力は強かった。
それからも何度か同じようなことがあった。
そのたびに俺が取り押さえた。
警察に相談したこともある。
逃げたこともある。
それでも、こいつは現れた。
そして決まって笑う。
「いつか私が勝つから」
「勝ち負けじゃねえんだよ」
そう思っていた。
少なくとも。
あの日までは。
*
朝、目が覚める。
何かがおかしい。
最初に気づいたのは髪だった。
長い。
「……は?」
声を出した。
高い。
飛び起きる。
胸元。
身体。
手。
「…………は?」
鏡まで走った。
知らない女がいた。
いや。
違う。
面影はある。
俺だ。
だけど――女になっている。
「はああああああ!?」
スマホが鳴り続けていた。
ニュース速報。
SNS。
動画サイト。
どこを見ても同じ話題だった。
世界中で同時に、人間の性別が反転した。
男は女へ。
女は男へ。
原因不明。
戻る方法も不明。
政府機関も医療機関も混乱しているらしい。
「……夢だろ」
頬をつねる。
痛い。
「マジかよ……」
その日は一歩も外へ出なかった。
翌日も。
三日目。
少しだけ、この身体にも慣れ始めた。
そんな朝だった。
ピンポーン。
インターホンが鳴った。
嫌な予感がした。
画面を見る。
「…………」
いた。
見覚えのある顔。
いや。
以前とは違う。
肩幅が広い。
背も高い。
黒髪の男。
だけど、表情だけは何も変わっていなかった。
にこっ。
『おはよ』
全身から血の気が引いた。
『いるんでしょ?』
俺は玄関から離れた。
ガチャ。
ドアノブが回る。
鍵はかかっている。
『ねえ。すごいよね、今回のこと』
ガチャ。ガチャ。
『前はさ、私が飛びかかっても、最後には君に腕を押さえられてたじゃん』
声は低くなっている。
なのに喋り方は、あいつのままだった。
『悔しかったなぁ』
静かになった。
次の瞬間。
ドンッ!
扉が揺れた。
「……!」
『でも今は』
ドンッ!
『君が女の子で』
ドンッ!!
『私が男なんだよね』
「やめろ!」
返事はなかった。
代わりに笑い声が聞こえた。
『ねえ』
一拍。
『もう一回、勝負しよ?』
*
勝負になんてならなかった。
今までなら振りほどけた腕が、びくともしなかった。
押し返せた身体が、押し返せない。
逃げようとしても追いつかれる。
何度拒絶しても、相手は止まらなかった。
やがて部屋が静かになった。
俺は――いや。
今の俺は女だった。
膝を抱えたまま、泣いていた。
「何で……」
声が震える。
「何でこんなことするの……?」
男は俺を見ていた。
「嫌だって……言ったじゃん……」
「……欲しかったから」
「そんなの……」
涙が止まらない。
「そんなの理由にならないよ……」
「うん」
「初めてだったのに……」
自分の声が、自分のものじゃないみたいだった。
「こんなのおかしいよ……。こんなの……私が選んだんじゃない……」
「……」
「性別が変わったからって……力が逆になったからって……何してもいいわけじゃないでしょ!」
男は黙っている。
「本当、最低」
すると。
男は笑った。
「……はは」
「何がおかしいの?」
「最低、か」
口元を歪める。
「ようやく言ってくれた」
「は?」
「前は君の方が強かった。何度やっても俺を止められた」
「だからって!」
「うん。だからって許されない」
あまりにも簡単に認める。
それが怖かった。
「でもさ」
男が笑う。
「俺、君に許してもらうために来たんじゃないんだ」
「……」
「嫌われてもいい。最低だと思われてもいい」
「来ないで……」
足が止まった。
男は嬉しそうだった。
「やっと君が、俺を怖がる側になったね」
「違う……」
「何が?」
「あなたは私を愛してるんじゃない!」
初めて大声が出た。
「ただ執着してるだけ! 私がどう思うかなんてどうでもいいんでしょ!」
男の笑顔が消える。
「愛してる」
「それを愛って言わないで!」
「愛してるよ」
「やめて!」
また近づいてくる。
「やめろ!」
その言葉さえ届かなかった。
*
どれくらい時間が経ったのだろう。
泣く力すらなくなっていた。
ただ天井を見ていた。
「……これでも」
掠れた声が出る。
「これでもまだ、愛してるって言うの?」
返事はない。
「私を愛してるんじゃない」
目を閉じた。
「私の意思なんて、どうでもいいんでしょ……」
そのときだった。
身体に妙な感覚が走った。
「……え?」
男も自分の手を見ている。
身体が変わる。
数秒だった。
声。
手。
髪。
身体。
全部が――戻っていく。
「……戻った」
俺は自分の声を聞いた。
男の声。
そして目の前には。
女。
元のあいつがいた。
俺はゆっくり立ち上がる。
女が後ずさった。
「……待って」
一歩。
「待ってよ」
さらに一歩。
さっきまでの余裕が消えている。
「や、やめて……」
その言葉で。
俺は止まった。
「…………」
「え?」
俺は拳を握った。
「今、お前が言ったんだぞ」
女を見る。
「『やめて』って」
「……」
「俺も言ったよな」
「……」
「何度も」
女は何も言わない。
俺は腕を掴んだ。
簡単だった。
少し力を入れるだけで、女の身体は動かなくなる。
さっきまでとは正反対だ。
「怖いか?」
「……うん」
「そうか」
手を離した。
女が目を見開く。
「じゃあ覚えとけ」
スマホを取る。
「それがさっきまで、俺が感じてたものだ」
画面を操作しようとする。
「次は俺の番だ」
警察。
救急。
何でもいい。
今度こそ終わらせる。
「ふふ」
背後から笑い声がした。
「そうかな?」
「……?」
突然。
膝から力が抜けた。
「っ……!」
床に手をつく。
立てない。
「何……」
指先まで痺れていく。
「何を……した……」
女が目の前まで歩いてくる。
そしてしゃがんだ。
笑っている。
「薬❤️」
「お前……」
「残念だったね」
「いつ……」
女は首を傾げた。
「世界は私に力をくれた」
嬉しそうに言う。
「まるで恋のキューピットみたいにね。ふふ」
「……狂ってる」
「だけどね」
女が顔を近づける。
「あなた、勘違いしてるわ」
「……何を」
「薬は初めから持ってた」
息が止まった。
「つまり……」
女は笑った。
「世界が変わらなくても、私はいつかあなたを捕まえるつもりだったってこと❤️」
「……!」
「男になったからできたんじゃないの」
女の指先が俺の頬へ伸びる。
「世界が一度だけ、簡単な方法をくれただけ」
手を払おうとする。
動かない。
「じゃあ」
女が笑う。
「今度は女の私のまま――」
視界が暗くなっていく。
最後に見えたのは。
最初から何一つ変わっていなかった。
あいつの笑顔だった。
*
「――っ!」
飛び起きた。
「はあ……はあ……!」
心臓が痛いほど鳴っている。
辺りを見る。
自分の部屋。
朝。
窓から日が差している。
身体を見る。
男だ。
いつもの身体。
「……夢?」
声も戻っている。
いや。
戻ったんじゃない。
最初から変わってなんていなかった。
「……はは」
乾いた笑いが漏れた。
「何だよ……」
額の汗を拭う。
「全く……タチの悪い夢だ」
スマホを取ろうとした。
「あれ?」
腕が動かない。
「……?」
もう一度動かす。
動かない。
そのとき。
静かな部屋に。
小さな音が響いた。
カチャ。
金属の擦れる音。
「…………」
終




