9.銀灰色の共犯者
三日後の夕刻。橙色の陽光が回廊の石柱に長い影を落としていた。
使いの者が届けた一通の手紙。差出人の名はなく、ただ「第三回廊、日没前に」とだけ書かれていた。筆跡には見覚えがあった。
あの端正で迷いのない文字。
クラウスだ。
(——何を、聞かれるのかしら)
心臓が嫌な音を立てている。茶会事件の直後。このタイミングで呼び出す意味を、エレノーラは理解していた。
*
第三回廊は城の東棟にある。人通りは少なく、窓から差し込む西日が石壁を赤く染めていた。
クラウスは柱に背を預けて立っていた。いつもの銀灰色の髪が夕陽に透ける。眼鏡の奥の目は——読めない。
「お呼び立てして申し訳ありません。少しお時間をいただきたく」
「いいえ、構いませんわ」
エレノーラは令嬢の微笑みを貼りつけた。だが足が止まる距離は、いつもより少し遠い。
沈黙が落ちた。
クラウスは腕を組んだまま、しばらくエレノーラを見つめていた。観察するような、値踏みするような——いや、違う。確かめるような目だった。
「茶会でのこと、お見事でした」
「まあ、ありがとうございます」
「——あなたは聖女の行動を、事前に知っていた」
微笑みが凍りそうになるのを、必死で堪えた。
「違いますか」
静かな声。責めているのではない。ただ事実を確認している。エレノーラは前世で覚えている。この男は嘘を見抜く。下手な誤魔化しは通じない。
「……何を根拠にそうおっしゃるのですか」
「花瓶の件では証人を事前に用意していた。今回はドレスの色を変え、共犯の侍女の動線上に証人を配置していた。全て事後対応ではなく、事前準備です」
一つずつ、淡々と並べる。
「偶然が重なったにしては、あまりにも正確だ。あなたは——知っていたとしか思えない」
エレノーラは沈黙した。風が回廊を吹き抜ける。夕陽が少しだけ傾いた。
「私が知りたいのは方法ではない」
クラウスが一歩、近づいた。
「目的です。あなたは何のために、ここまでのことをしている」
*
長い間があった。
エレノーラの頭の中で、選択肢が回転していた。
全てを話す? 死に戻りのこと。前世で殺されたこと。この世界の全てが二度目であること。
——駄目だ。それは狂人の戯言にしか聞こえない。
だが何も話さなければ、この男の信頼は得られない。そしてクラウス・フォン・ジークムントという人間が味方につくかつかないかで、この先の難易度は天と地ほど変わる。
(賭けに出る。全てではない。でも——嘘は、つかない)
エレノーラはゆっくりと令嬢の仮面を外した。
微笑みを消し、真っ直ぐにクラウスを見上げた。
「……私は」
声が震えた。それは演技ではなかった。
「私は、自分が殺される未来を知っています」
空気が変わった。
クラウスの瞳が——眼鏡の奥で、微かに揺れた。
この男の表情が動くのを、エレノーラは初めて見た。驚きではない。怒りでもない。もっと深い場所にある何か。名前のつけられない感情。
「……続けてください」
「聖女は善意の皮を被った策略家です。彼女の計画が全て成功すれば、私は全てを失い、最後には命も失います。だから——先手を打っているんです」
「それを、どうやって知った」
「それは——答えられません」
エレノーラは視線を逸らさなかった。
「信じていただけなくても構いません。ただ、これだけは嘘ではないと——」
「嘘ではないことは、わかっています」
クラウスが遮った。
エレノーラは息を呑んだ。
「あなたは嘘をつくとき、右手の薬指が微かに動く。今は——動いていない」
そんなところまで見ていたのか。この男は。
再び沈黙が降りた。夕陽がさらに傾き、回廊の影が長く伸びていた。二人の間を風が通り抜ける。
クラウスは眼鏡を押し上げ、小さく息を吐いた。
それは——この男が見せた、初めてのため息だった。
「あなたを死なせる未来は、承認できません」
静かな声だった。感情を押し殺しているようでいて、その奥に鋼のような意志がある。
「——え」
「宰相補佐官として、この国の秩序に関わる陰謀を看過することはできない。それが一つ目の理由です」
「……二つ目は」
聞いてから、聞くべきではなかったと思った。
クラウスは答えなかった。ただ夕陽に目を細めて、小さく——本当に小さく口の端を上げた。
「紅茶を淹れましょう。長い話になりそうだ」
*
帰り道、エレノーラは自分の手が震えているのに気づいた。
こんな言葉をかけてくれた人は、前の人生にはいなかった。誰もが聖女の涙を信じ、エレノーラを切り捨てた。父も、婚約者も、友人だと思っていた人たちも。
たった一人の味方もいないまま、死んだ。
それなのに。
この人は——理由すら聞かずに、信じると言ったのだ。
(泣くな。まだ何も終わっていない。泣くのは全部終わってからだ)
目元を袖で拭い、前を向く。
二人の共犯関係が、今日始まった。
けれど——エレノーラは全てを話したわけではない。死に戻りのこと。前世の記憶。毒が回る瞬間の痛み。
まだ、話せない。
いつか話せる日が来るのだろうか。この手の震えが止まるくらいに、この人を——信じられる日が。
回廊の向こうで、夕陽が沈んでいく。影と光の境界線が、ゆっくりと消えていった。




