8.聖女の第二の涙
深紅のドレスに袖を通しながら、エレノーラは鏡の中の自分を見つめた。
本来、今日の茶会には白いドレスで出席するつもりだった。前世の自分がそうしたように。だが今世の自分は、その「白」が何を意味するかを知っている。
(さあ、始めましょう)
昨夜のマリアの報告が耳に残っている。
「セレスティア様付きの侍女が、白い液体の入った小瓶を隠し持っているのを確認しました」
「茶会の給仕中に、エレノーラ様のドレスへ振りかける手筈だそうです」
前世では見事に成功した罠だった。
白いドレスに白い液体——後から乾いて浮かび上がる黄色い染み。染みに気づいたエレノーラが犯人を問い詰めれば、聖女が涙声でこう訴えるのだ。「エレノーラ様に、私がやったと言いがかりをつけられたんです」と。
あのときは弁明すらさせてもらえなかった。
もう二度と、同じ手は食わない。
*
王妃主催の昼の茶会。庭園に並ぶ白いテーブルクロスと薔薇の装飾。貴族の令嬢たちが優雅に集う中、エレノーラは深紅のドレスで現れた。
「あら、エレノーラ様。今日は随分と大胆なお色ですのね」
社交辞令の裏に好奇の目。エレノーラは涼やかに微笑んだ。
「ええ。白は少し飽きてしまいまして。今季は深い色が流行りだと聞きましたの」
会場の隅に、あらかじめ頼んでおいた二人の令嬢がいる。彼女たちには「不審な動きをする侍女がいたら教えてほしい」とだけ伝えてある。花瓶事件で名を上げたエレノーラの頼みを、二人は快く引き受けてくれた。
(前世の私には味方がいなかった。でも今は違う)
茶会が始まり、歓談の時間に入る。セレスティアは王妃の近くで楚々と微笑んでいた。完璧な聖女の佇まい。だがその視線が一瞬、エレノーラのドレスに止まるのを見逃さなかった。
——深紅。
聖女の微笑みが、ほんの一瞬だけ固まった。
*
それは茶会が半ばに差しかかった頃だった。
給仕の侍女が一人、エレノーラの背後を通り過ぎようとした。その手に、不自然に握りしめられた布——の中に何かがある。
侍女の手が震えていた。
白い液体は、白いドレスなら目立たない。だが深紅のドレスに振りかければ、白い飛沫が誰の目にも明らかに映る。
侍女は立ち止まった。動けない。計画通りの色ではないのだ。
「あら」
エレノーラがゆっくりと振り返った。侍女と目が合う。
「どうかなさいまして? 随分とお顔の色が悪いようですけれど」
侍女の顔が真っ白になった。手の中の布を咄嗟に隠そうとして——テーブルクロスに引っかかり、小瓶が転がり出た。
白い液体が、白いテーブルクロスの上に広がっていく。
会場が、しん、と静まった。
「まあ……これは何かしら」
近くにいた令嬢の一人が声を上げた。エレノーラが事前に頼んでおいた証人だ。
「こちらの侍女が、小瓶を隠し持っていたようですわ。中身は——何かの染料でしょうか」
侍女は震えながら膝をついた。
「ち、違います、これはただの——」
「ただの?」
エレノーラは穏やかに問いかけた。その声には怒りも軽蔑もない。ただ静かな確認。
「ただの何ですか? 給仕中に染料を持ち歩く理由を、教えていただけますか」
侍女は唇を噛み、何も答えられなかった。
ざわめきが広がる。視線が集まる先は——セレスティアだった。
聖女は一瞬だけ蒼白になった。だがすぐに目を潤ませ、小さく首を振る。
「わ、私は何も知りません……。あの侍女が勝手に……まさかそんなことを考えていたなんて……」
涙が頬を伝う。前世なら、この涙に全員が同情しただろう。
だが今は違った。
花瓶事件の記憶がまだ新しい。聖女の涙に、以前ほど令嬢たちの表情が動かない。「また」という空気が、さざ波のように広がっていく。
セレスティアもそれを感じ取ったのだろう。涙を拭う手が、わずかに震えていた。
*
茶会が終わり、エレノーラは庭園の小道を一人で歩いていた。
深紅のドレスの裾が石畳を掃く。
(これで二回目。あなたの手口はもう通じない)
足を止め、空を見上げる。青い空に白い雲が流れていた。
前世では今頃、白いドレスに身に覚えのない染みをつけられ、弁明もできず孤立を深めていた時期だ。貴族たちの冷笑、聖女の慈愛に満ちた嘘、王子の断罪——全てが一つずつ積み重なって、最後の処刑台へと続いていた。
もうあの道は歩かない。
「エレノーラ様」
振り返ると、マリアが控えめに立っていた。
「お見事でした。あの侍女、既に城の衛兵に引き渡されております」
「そう。……マリア」
「はい」
「ありがとう。あなたの情報がなければ、今日はうまくいかなかった」
マリアは一瞬目を見開き、それからそっと微笑んだ。
「もったいないお言葉です。——それと、もう一つご報告が」
「何?」
「セレスティア様が、茶会の後、大変お怒りだったそうです。部屋に戻ってから花瓶を投げ割ったと」
エレノーラは小さく笑った。
「あら、花瓶がお好きなのね、あの方は」
笑いながらも、背筋が冷えるのを感じていた。
聖女はもう、エレノーラを「格下の相手」とは見ていないだろう。次に仕掛けてくる罠は、小瓶や花瓶では済まない。
(次は——もっと本気で来る)
深紅のドレスの裾を翻し、エレノーラは屋敷へと歩き出した。
風が変わり始めている。それは追い風か、向かい風か——まだ、わからない。




