6.貴女、嘘をついていますね
宮廷の東棟を抜けた先に、小さな庭園がある。
噴水の音だけが響く、人気のない場所。
そこに、銀灰色の髪をした男が立っていた。
「お待たせしましたか?」
「いいえ。私が早すぎただけです」
クラウス・フォン・ジークムント。宰相補佐官。
あの資料室での遭遇から三日。彼からの茶会の誘いは、予想外だった。
(罠か、探りか、それとも——)
白い丸テーブルに、繊細な茶器が並んでいる。
椅子を引く仕草が自然すぎて、断る間もなく座らされた。
「本日は良い茶葉が手に入りましたので」
クラウスは眼鏡の奥で穏やかに笑い、自ら茶器に手を伸ばした。
宰相補佐官が自分で紅茶を淹れる。それだけで異質な光景だった。
湯の温度を確かめるように、一瞬だけ手の甲を近づける。
茶葉を量る手つきに迷いがない。蒸らす時間を、彼は目を閉じて計っていた。
「——どうぞ」
差し出されたカップから、花のような香りが立ち上る。
口をつけた瞬間、エレノーラは目を見開いた。
「……おいしい」
令嬢言葉が、剥がれ落ちた。
渋みがない。甘みだけが舌の上に広がり、後味に蜂蜜のような余韻が残る。宮廷の茶会で出される紅茶とは、まるで別物だった。
「あ——美味しゅうございますわ、と申しますか」
「最初の感想のほうが嬉しいですね」
クラウスが静かに笑った。
その笑い方が嫌味でないことに、少しだけ動揺する。
「茶葉はアルテミア産のものです。北部の高地でしか採れない。蒸らしは二分半、湯温は八十度。それだけで雑味が消える」
「まるで学者の講義ですわね」
「趣味に関しては饒舌になる性質でして」
穏やかだった。
噴水の水音と、茶器が触れ合う微かな音。風が庭園の花を揺らし、白い花弁が一枚、テーブルの上に落ちた。
こんな時間を過ごすのは、いつ以来だろう。
前の人生では、こんな穏やかな午後は一度もなかった。
「——エレノーラ嬢」
声の色が、変わった。
「はい」
「あなたはここ数週間で、まるで別人になった」
カップを持つ手が、止まる。
クラウスの紺色の瞳が、まっすぐにこちらを見ていた。眼鏡越しの視線に、温度がない。
「以前のあなたは目を伏せて話す方だった」
その通りだ。前の人生のエレノーラは——いや、死に戻る前の自分は、誰の目も見られなかった。
「今のあなたは、私の目を真っ直ぐ見ている」
(気づいていた。この人は、最初から)
「成長しただけですわ」
声が震えないよう、カップをそっとソーサーに置いた。
微笑みを作る。令嬢の仮面を、しっかりと。
「人は変わりますもの。私も少しは大人になったということです」
沈黙が、三秒。
「——嘘が下手ですね」
クラウスが微笑んだ。
責めるでもなく、嘲るでもなく。ただ事実を述べるように。
心臓が、跳ねた。
(この人は危険だ)
死に戻りのことを知られてはならない。未来の知識で動いていることも。それが露見すれば、すべてが崩れる。
なのに——
「嘘と断じられるのは心外ですわ」
「では、言い換えましょう。あなたは本当のことを言っていない」
「同じことではありませんか」
「いいえ。嘘をつくのと、真実を隠すのは違う」
クラウスが紅茶を一口含み、カップを置いた。
その所作は完璧に優雅で、だからこそ次の言葉の鋭さが際立った。
「あなたは嘘をついているのではない。何かを、必死に守っている」
息が、詰まった。
見抜かれている。表面ではなく、もっと深いところまで。
恐怖が背筋を這い上がる。
けれど同時に、不思議な感覚があった。
見てくれている、という安堵。この宮廷で、仮面の下を覗こうとしてくれる人がいるということへの。
(怖い。でも——逃げたくはない)
「……クラウス様は、意地の悪い方ですのね」
「よく言われます」
「褒めておりませんわ」
「私は褒め言葉として受け取りました」
噴水の水音が、沈黙を埋めた。
風が吹いて、エレノーラの髪を揺らす。
「ひとつ、お願いをしてもよろしいですか」
クラウスが、真剣な目で言った。
紺色の瞳に、冷徹さとは違う光がある。
「あなたに興味があります」
心臓が、もう一度跳ねた。今度は先ほどより強く。
「もう少し——観察させていただいても?」
観察。
その言葉を選ぶところが、この人らしい。好意とも打算とも取れる、絶妙な距離。
「お断りしたら?」
「遠くから観察します」
「……それは断れていないのでは」
クラウスが、小さく笑った。
初めて見る、計算のない笑み。
「ええ、存じておりますわ——あなたがそういう方だということは」
エレノーラはカップを手に取り、冷めかけた紅茶を飲んだ。
まだ美味しかった。冷めてなお味が崩れないのは、淹れた人間の腕だ。
「ですから、お好きになさいませ。ただし」
まっすぐに、紺色の瞳を見つめ返した。
「私も、あなたを観察させていただきますわ」
クラウスの眉が、僅かに上がった。
そして——
「興味深い」
その一言に、どれほどの意味が込められていたのか。
この時のエレノーラには、まだわからなかった。
庭園を後にする足取りが、少しだけ軽い。
同時に、胸の奥が騒がしい。
(観察、ですって。——まったく、厄介な人に目をつけられたものだわ)
けれど口元には、隠しきれない笑みが浮かんでいた。




