5.予定通りの横領
深夜、エレノーラは寝台を抜け出した。
侍女のマリアが寝息を立てているのを確認し、音を立てずにドアを開ける。
廊下に出る。灯りは最低限。壁の燭台が、等間隔に影を落としている。
(軍事予算の帳簿。場所は王宮東棟の第三資料室。鍵は——かかっていない)
前世で知っている。
アレクシスの側近が帳簿を改竄した後、鍵を戻し忘れるのだ。今夜だけ。明日の朝には気づかれて施錠される。
今夜しかない。
*
東棟は、昼間でも人が少ない。
夜は尚更だった。
エレノーラの足音が石畳に小さく響く。
ドレスの裾を片手で持ち上げ、もう片方の手で壁を辿る。月明かりが窓から差し込み、廊下を青白く染めていた。
(前世の私は、この帳簿の存在すら知らなかった)
アレクシスの横領が発覚したのは、エレノーラが毒殺される半年前だった。
だが、そのときには証拠は全て処分されていて——告発したのは別の派閥で——結局、揉み消された。
(でも今は違う。まだ証拠が生きている。改竄されたばかりの、生々しい帳簿がある)
第三資料室の前に立つ。
取っ手に手をかけた。
——回る。
心臓が跳ねた。本当に開いた。記憶通りだ。
中に滑り込み、扉を静かに閉じる。
*
資料室は埃の匂いがした。
棚が壁一面に並び、革表紙の帳簿がぎっしりと詰まっている。月明かりだけでは暗い。エレノーラは持参した小さなランタンに火を灯した。
(軍事予算の帳簿。今年度分。棚番号は——)
指が背表紙を辿る。
年度、部門、分類。規則正しく並んだ帳簿の中から、一冊を引き抜いた。
開く。
数字の羅列。歳出と歳入の項目が延々と続く。
エレノーラの指が、あるページで止まった。
(——あった)
軍馬の購入費。記載額は実際の相場の三倍。
糧食の調達費。同じ業者に対する支払いが二重になっている。
兵舎の修繕費。完了報告は出ているが、前世の記憶では修繕された事実はない。
全て、アレクシスの側近——ドルトン子爵が管理する項目だった。
(雑ね。こんなにわかりやすい不正、見る人が見れば一発じゃない)
だが「見る人」がいなかった。アレクシスは第二王子。帳簿の監査は形骸化している。誰も逆らわない。逆らえば消される。
エレノーラは鞄から白紙の帳簿を取り出し、該当箇所を書き写し始めた。
ページ番号、項目、金額、日付。
一字も間違えないように。震える指先を叱りつけながら、ペンを走らせる。
(この証拠は、まだ使わない)
今出せば、揉み消される。アレクシスの権力はまだ健在だ。
(使うのは——あの男が、最も弱くなった瞬間)
最後の数字を書き終え、帳簿を元の位置に戻した。
背表紙の角度まで、隣の帳簿と揃える。誰かが触った痕跡を残してはいけない。
ランタンの火を消す。
写しを鞄に入れ、資料室を出た。
*
扉を閉めた瞬間、足が止まった。
廊下に、人影があった。
月明かりの中に立つ長身の影。銀灰色の髪が青白く光っている。眼鏡のレンズが、こちらを向いていた。
「——」
息が止まった。
「こんな時間に、資料室ですか」
クラウス・フォン・ジークムント。
宰相補佐官は、まるで昼間の廊下で偶然すれ違ったかのような口調だった。
「……少し、調べ物を」
声が震えなかったのは奇跡だった。
「勉強熱心でいらっしゃる」
エレノーラは令嬢の微笑みを貼り付けた。心臓が壊れそうなほど鳴っている。
「奇遇ですね」
クラウスが一歩、近づいた。
「私も同じ資料室に用がありました」
その言葉の意味を、エレノーラは瞬時に理解した。
(この男も——帳簿を見に来た?)
クラウスの視線が、エレノーラの鞄に一瞬だけ落ちた。
ほんの一瞬。だが、見た。確実に見た。
「夜の東棟は冷えます。お風邪を召されませんよう」
クラウスが微笑んだ。
穏やかで、丁寧で、完璧な笑顔。
——目だけが、笑っていなかった。
「ご忠告、痛み入りますわ」
エレノーラは会釈し、歩き出した。背中にクラウスの視線を感じる。振り返ってはいけない。振り返れば、何かが崩れる。
角を曲がるまで、足音を一定に保った。
*
自室に戻り、鞄を開ける。
帳簿の写しを確認する。文字は読める。数字も正確だ。
机の引き出しの二重底に、写しを隠した。
花瓶事件の記録の隣に。
寝台に腰を下ろし、両手で顔を覆う。
(クラウス・フォン・ジークムント)
前世にはいなかった男。
何を考えているのかわからない男。
アレクシスの不正に——おそらく、気づいている男。
(あの目。あの微笑み。全部わかっていて、泳がせている目だった)
問題は、何のために。
誰のために。
エレノーラは毛布を引き上げ、目を閉じた。
眠れるわけがなかった。
(この男、どこまで気づいている?)
返事のない問いが、暗闇の中で何度も反響した。
——そして同じ頃。
第三資料室の扉を開けたクラウスは、帳簿の背表紙に残った微かなずれを見て、静かに眼鏡を押し上げた。




