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毒殺された悪役令嬢は過去に戻り、今度は全員の破滅を設計する  作者: スナハコ
蛇足

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49/49

49.三年と一日前

 暗い。


 何も見えない。体の感覚がない。声を出そうとしたが、喉が動かなかった。


 ここがどこなのか、わからない。自分が誰なのかも、わからなくなりかけている。


 ただ一つだけ——何かを、しなければならなかったという感覚が残っていた。


 誰かを。


 誰かの名前を呼ぼうとして——思い出せなかった。


 指先すら動かせない闇の中で、最後に浮かんだのは壁際で俯く少女の横顔だった。


 忘れてはいけない。なぜか、そう思った。理由さえも、もう思い出せないのに、それだけが確かだった。


 その輪郭さえ、すぐに溶けて消えた。



      *



 母が死んだ。


 八歳の冬だった。馬車の事故だと聞かされた。それが事故ではなく、宰相の妻を狙った襲撃だったと知ったのは、もう少し後のことだ。


 葬儀の日、空は不謹慎なほど晴れていた。棺を運ぶ馬車の車輪が石畳に軋みを上げ、参列者たちの衣擦れが乾いた空気に吸い込まれていく。


 クラウスは、父の隣に立っていた。


 宰相グレゴール・フォン・ジークムントは微動だにしなかった。鋼の柱のように直立し、一滴の涙も見せない。唇は一文字に引き結ばれ、鷹のような目が棺だけを見つめていた。


 まだ八歳の子供には、その意味がわからなかった。父が冷酷なのだと思った。母を愛していなかったのだと。


 理解したのは、もう少し後だ。


 泣けなかったのだ。宰相として弱みを見せた瞬間に敵が動く。母を殺した者たちが、次は息子に手を伸ばすかもしれない。だから泣かなかった。泣くわけにいかなかった。


 あの日、八歳のクラウスは一つの結論を出した。


(泣いても、母は戻らない)


 怒っても、悲しんでも、何も変わらない。ならば感情は不要だ。冷静であれば正しい手を打てる。正しい手を打てれば、誰も失わずに済む。


 それからの十六年間を、クラウスはその結論の上に建てた。


 感情を切り捨てた分だけ、仕事は完璧にこなせた。書類を読み、数字を分析し、政敵の意図を先回りする。それで十分だった。


 趣味は紅茶だけだった。茶葉の産地、湯の温度、蒸らしの秒数。合理的に管理できる趣味だと自分には説明していた。母が好きだった飲み物だという理由は、記憶の奥に仕舞い込んでいた。


 空虚だった。


 けれど空虚であることにすら気づかなかった。心という器が空虚であることを、不便だと思ったことがなかった。



      *



 ハーゼンベルク公爵令嬢の名前は、宮廷の社交名簿で見たことがある程度だった。


 エレノーラ・フォン・ハーゼンベルク。十七歳。ハーゼンベルク公爵家の一人娘で、第二王子アレクシスの婚約者。


 婚約の意図は公にされていなかったが、推測はつく。


 当時、王家の威信は揺れていた。現王は偉大だったが、その息子たちは違う。


 第一王子は内向的で滅多に社交の場に出ない。第二王子は野心こそあれど、賢さが足りなかった。誰も口にはしないが、それが宮廷の評価だった。


 だからこそ、今のうちに公爵家との連帯を固めておきたい。公爵家の一人娘を王族のもとに嫁がせるのは、そのための布石だろう。ハーゼンベルクの姓は、二人の間に生まれた次男にでも継がせるつもりかもしれない。


 いずれも推測の域を出ないが、宮廷の政治力学による婚約であったのは間違いないだろう。


 初めてその姿を認識したのは、春の夜会だったと思う。


 大広間の壁際に、一人の令嬢が立っていた。深い赤みがかった茶髪を控えめに結い上げ、地味な色のドレスを纏い、グラスの縁に視線を落としている。周囲の華やかな社交から切り離されたように、居場所を探しあぐねるように。


 気に留めなかった。宮廷には似たような令嬢がいくらでもいる。結局は、宮廷という巨大な生物の一組織に過ぎない存在。


 そのはずだった。なのに——なぜか、記憶に残った。壁際で俯く横顔が、頭の片隅に引っかかった。


 聖女セレスティアが宮廷に現れたのは、ちょうどその時のことだ。


 金色の巻き髪。翡翠の瞳。天使のような微笑み。春の夜会、バルコニーで第二王子と「運命的に出会い」、宮廷中が沸いた。


 宮廷は一つの政治社会でありながら、こういったゴシップには滅法弱い。運命的に出会った王子と聖女、それに嫉妬する婚約者——物語の配役はあっという間に決まった。


 聖女の涙が嘘だということは、観察すれば明らかだった。涙の量が一定すぎる。声の震えに周期がある。だが、それを指摘する立場にない。聖女の欺瞞を暴くのは、宰相補佐官の管轄ではなかった。


 第二王子は聖女に傾倒していた。だが、政治的理由を無視して公爵令嬢との婚約を反故にすることはないだろう——誰もがそう考えていた。それほど愚かな人間ではないと。きっと時が経てば立場を自覚し、行動を改める。だからそれまでは、このゴシップを楽しもうと。


 事態が変わったのは、大茶会の後だ。


 花瓶事件。ハーゼンベルク令嬢が花瓶を割ったという聖女の告発。弁明の機会すら与えられなかった。廊下で泣き崩れる令嬢の姿を、回廊の向こう側から見た。


 足が止まった。


(——なぜ、誰も聞かないのだ)


 告発の内容には状況証拠すらない。聖女の涙だけを根拠に、公爵令嬢の弁明を封じるのは手続き上の瑕疵だ。


 聖女が絶対の正義で、公爵令嬢が絶対の悪。宮廷にはそういう空気が出来上がりつつあった。この流れに疑問を覚えなかったかといえば、嘘になる。


 だが疑問は疑問で止まるべきだった。関わる理由がない。自分の業務ではない。


 帰り道、宰相府の廊下で足が止まった。


(あの令嬢の目は、怯えてはいなかった)


 泣いていた。確かに泣いていた。だが琥珀色の瞳の奥に見えたのは恐怖ではなかった。


 悔しさだった。弁明の機会すら与えられなかった屈辱。


 あの目は、諦めていなかった。


(関係ない)


 そう結論を出して、書類に向かった。翌日も、翌々日も。いつも通りの日々。完璧な業務遂行。


 なのに——時折、壁際の令嬢の横顔が浮かんだ。消そうとしても消えなかった。書類の数字の向こうに、琥珀色がちらついた。


 大茶会の三日後、私は初めて大神殿の文書庫を訪れた。


 理由は明確に言語化できなかった。宰相補佐官として神殿の古文書を確認する必要があった——そういう建前を用意した。だが本当は、別のものを探していた。


 何かできることがあるはずだ。制度の枠内で。政治の道具で。あの令嬢の転落を、止める方法が。



      *



 月日が流れるほどに、事態は悪化した。


 聖女の攻撃は巧妙さを増した。令嬢の孤立は深まり、第二王子は聖女にのめり込み、宮廷は一方的な裁きを繰り返した。


 クラウスは動いた。


 個別聴取を上申した。却下された。


 宰相府を通じて再上申した。政治的介入の限界だと退けられた。


 地下牢面会を申請した。不許可。


 侍女を通じた接触を試みた。聖女側に阻まれた。


 全ての手段が塞がれていった。制度の枠内でできることを、全てやった。全てやって——全て、届かなかった。


(なぜ、ここまでするのだ)


 自問は何度もした。一度も言葉を交わしたことのない令嬢のために、なぜ宰相補佐官としての立場を危うくするのか。合理的な理由がない。


 答えは出なかった。


 出なかったが——覚え書きだけは残した。事実のみを、角ばった字で。


 最後の一行を書く時、ペンが止まった。文書庫で何度も調べた古文書の内容が、頭の中に完璧に残っていた。起動条件。代償。全てを理解していた。


 ペンを置いた。


 置いて——もう一度、取り上げた。


『通常手段では間に合わぬ。最終手段を要す』



      *



 封印区域への立ち入りには、本来、陛下の許可が要る。


 宰相府の定期点検名目で申請を通した。父の名を使った。父に話は通していない。それ以外に方法がなかった。


 王城の西翼から地下へ降りる石段には、松明が等間隔に灯されているだけだった。自分の靴音しか聞こえない。当然だ。こんな時刻にここへ来る人間はいない。


 封印区域の扉を開けた。


 水晶の時計台が、暗い部屋の中央に佇んでいた。高さは人の腰ほど。透明な結晶の内部に精巧な歯車と針が見える。文字盤に数字はなく、古代文字が円環状に刻まれている。針は止まっていた。


 美しかった。これが世界の時を巻き戻す力を持つなど、見た目からは想像もつかない。


 台座の前に膝をついた。


(代償は理解している)


 最も軽い場合——記憶の喪失。起動したことすら忘れる。


 最も重い場合——記憶と人格の完全な消失。同じ体のまま別人として目覚める。起動以前の自分は、二度と戻らない。


 どうなるかは、わからない。


 右手を水晶の表面にかざした。


(一度も、言葉を交わしたことがない)


 壁際で俯いていた少女。花瓶の冤罪で泣いていた少女。地下牢の闇の向こうで、今まさに命を奪われようとしている少女。


 名前を呼んだことはない。声を聞いたこともない。あの琥珀色の瞳に映ったことすら——一度もなかったはずだ。


(なぜだ)


 封じてきた感情は、答えなかった。


 代わりに——母の顔が浮かんだ。


(政治の陰で、声も上げられずに消えた人)


 馬車の「事故」で殺された母。政治の道具として奪われた命。あの時、父は正しい手を打って犯人を失脚させた。けれど母は戻らなかった。正しい手を打っても取り戻せないものがある。


(見殺しにする人間は、母を殺した者たちと変わらないのではないか)


 それが答えだった。合理的ではなかった。論理ではなかった。八歳の子供が棺の前で流さなかった涙の行き先だった。


(宮廷の力学? 私は組織の歯車である前に、一人の——)


 右手の掌で、水晶の表面を切った。


 血が水晶に触れた瞬間、歯車が動き始めた。逆回転。時計の針がゆっくりと巻き戻っていく。


 視界が白くなった。体の感覚が指先から消えていく。記憶が崩れていくのがわかった。


 母の顔が消えた。葬儀の日の青空が消えた。父の背中が消えた。紅茶の香りが消えた。湯の沸く音が消えた。自分の筆跡が消えた。自分の名前が消えた。


 人生の断片が、一つずつ剥がれ落ちていく。


 クラウス・フォン・ジークムントを構成する何かが、静かに崩れていく。


 最後まで残ったのは、壁際で俯く少女の輪郭だった。


 それも——



      *



 目が覚めた。


 封印区域の石の床に倒れていた。なぜここにいるのか、わからなかった。


 頭痛がする。記憶を探ったが、昨夜のことが曖昧だった。いつもの執務を終えて——そこから先が、霧がかかったように掴めない。


 立ち上がった。体は動く。怪我はない。封印区域を出て石段を上り、自室に戻った。


 翌朝から、日常に戻った。


 書類を処理し、数字を分析し、紅茶を淹れた。完璧な宰相補佐官の日々。何も変わらない。


 ——変わらないはずだった。


 だが時折、説明のつかない感覚に襲われた。


 執務室で帳簿を開いていると、不意に胸の奥が軋む。何かを忘れている。何か大切なことを——見落としている。


 右手に視線を落とすと、掌に薄い傷痕があった。いつ負ったのか記憶にない。紙で切ったにしては深すぎる。


 以前の空虚は、水の入っていない器だった。軽くて、持ちやすくて、何の支障もない。


 今の空虚は違った。水が入っていた痕跡だけが残っている。何が入っていたのかわからないのに、失ったことだけはわかる。


 その違いに名前をつけることは、できなかった。



      *



 春の夜会。大広間の百本のシャンデリアの下で、壁にもたれて紅茶を飲んでいた。いつもの位置。いつもの姿勢。社交の渦を外側から観察する、いつもの夜。


 琥珀色のドレスが視界を横切った。


 足が止まった——いや、足は動いていない。目が、止まったのだ。


 ハーゼンベルク公爵令嬢。名簿上の情報は知っている。だが聞いていた情報とは何もかもが違った。


 壁際にいない。社交の中央を歩いている。令嬢たちに声をかけ、微笑みを交わし、会話を弾ませている。以前は目も合わせなかったはずの相手と、まるで旧知のように。


(おかしい)


 数日で人間は変わらない。変わったとすれば、何かがあった。何か根本的なことが。


 バルコニーの扉の前で聖女セレスティアが困惑するのを、グラスの縁越しに眺めていた。


 琥珀色のドレスの令嬢が、一瞬だけ唇の端を上げるのを見た。


 あれは楽しいから笑ったのではない。計画通りに事が運んだ時の、達成の笑みだ。


 そして——あの横顔。


 心臓が跳ねた。


 分析者としての興奮ではなかった。もっと深い場所で、もっと原始的な何かが反応していた。既視感。名前のつけられない親近感。この人を知っている、という——


 知らないはずだった。一度も言葉を交わしたことがない。


 グラスの中の紅茶が、いつの間にか冷めていた。


 どれくらいの間、あの横顔を目で追っていたのか。自分でもわからなかった。



      *



 それからの日々を、どう表現すればいいのだろう。


 茶会で初めて言葉を交わした。あの令嬢の受け答えは不自然なほど的確だった。社交辞令の型がない。相手の反応と性質を見て、最も効果的な返答を選んでいる。


 普通の十七歳には不可能な精度だった。


「嘘が下手ですね」


 気がついたら、口にしていた。もっと婉曲に、もっと慎重に言うべきだった。だがこの令嬢の前では、言葉が勝手に本音を纏ってしまう。原因はわからなかった。


 深夜の東棟。第三資料室の前で鉢合わせた夜——鞄を抱えた少女の姿を見た瞬間、胸の奥にあった空虚が埋まる感覚がした。


 帳簿の不正を追っている人間がもう一人いた。ただそれだけのことだ。合理的に処理すればいい。


 なのに帰り道、資料室の帳簿に残された微かなずれを指でなぞりながら、口元が緩んでいることに気づいた。


 夕暮れの回廊で秘密を打ち明けられた時——死に戻りの記憶、殺された前世、三年後の未来を知っていること。


「辻褄が合います」


 信じた、のではなかった。


 ようやく腑に落ちたのだ。この令嬢の周囲で起きていた不自然さの全てに。行動の精度に。感情の乱れ方に。


 そして——自分の胸の奥にあった、説明のつかない引力にも。


 名前はつけなかった。つけることを避けた。


「興味深い」


 その言葉で蓋をした。何度も。何度も。


 月夜のバルコニーで口が滑った。


「あなたが『予定通りです』と微笑むたびに——その目が泣いているからです」


 言ってから、耳が熱くなるのを感じた。月明かりだけでよかった。たぶん——見えなかっただろう。たぶん。


 仮面舞踏会の夜。密室の扉を開けた瞬間のことは——全部覚えている。


 怯えた琥珀色の瞳。距離を詰める男の影。扉の向こうから聞こえた、かすかな息を呑む音。


 あの瞬間、思考が消えた。合理的な判断が白紙になった。計算より先に体が動き、分析より先に声が出た。


「動くな」


 初めて、感情が思考を追い越した瞬間だった。


 恐ろしかった。自分が。冷徹なはずの宰相補佐官が、一人の令嬢のために全てを投げ出せることが。


「あなたのせいで、わからなくなった」


 書庫で母の命日にそう言った時、自分の声に驚いた。あれは分析でも報告でもなかった。初めて漏れた、生の感情だった。


 不要だと決めたものが、不要ではなかったのかもしれない。封じていたのではなく——出会っていなかっただけだった。感情の相手に。


 毒矢の日もそうだった。


 東庭園で茂みが動いた瞬間、体が勝手にエレノーラを庇っていた。左腕に走った痛みは一瞬遅れてきた。倒れながら彼女の顔を見上げた。蒼白で、唇が震えていて、琥珀色の瞳に涙が溜まっていた。


「あなたが無事なら、問題ありません」


 本心だった。痛みよりも、この人が無傷であることの方がずっと重要だった。


 薄れていく意識の中で、はっきりと理解した。


(これは——興味ではなかった)


 最初から。夜会で琥珀色のドレスに目を奪われた瞬間から。深夜の資料室で鉢合わせた夜から。「嘘が下手ですね」と口が滑った瞬間から。


 全部、これだった。


 感情を取り戻したのではない。この人が、感情を教えてくれたのだ。


 視界が暗くなる。腕が熱い。どこかでエレノーラの声が聞こえる。名前を呼ばれている。


 暗闇が——



      *



 意識が浮かび上がる。


 暗闘の底から、ゆっくりと。左腕が熱を持っている。包帯の感触。清潔な布の匂い。


 遠くで鳥が鳴いている。窓から差し込む光がまぶたの裏を白く染めている。


 目を開けた。


 最初に見えたのは——琥珀色だった。


 深い赤みがかった茶髪が枕の横に広がっている。椅子に座ったままベッドの縁に突っ伏して眠り込んでいる小さな姿。片手は力なく投げ出され、もう片方の手が——クラウスの右手を握っていた。


 包帯を巻き直そうとして、そのまま眠ってしまったのだろう。枕元に薬瓶と替えの包帯が置いてある。


 握られた右手に視線を落とした。


 掌の傷痕。いつ負ったのか記憶にない、古い傷。


 その傷を覆うように、小さな手が重なっている。


 不意に——暗闇の感覚が蘇った。


 何も見えない。何も覚えていない。誰かを探していた。名前も思い出せない誰かを。闇の中で手を伸ばして、何にも触れられなくて——


(ああ)


 その暗闇が何だったのか、理由もなく理解した。


 記憶にはない。思い出すことは二度とないだろう。けれど——体のどこかが覚えている。この右手の傷痕が覚えている。


 かつて一度、暗闇の中で目覚めた。誰もいなかった。何も覚えていなかった。空虚だけが残っていた。


 今は——


 エレノーラが微かに身じろぎした。眠りの浅い表情が少しだけ歪む。握った手は離れない。


 クラウスは動かなかった。握られた手をそのままに、天井を見上げた。朝の光が白い天井に反射して、柔らかな模様を作っている。左腕が熱い。けれど右手は温かかった。


(——探していた人は、ここにいた)


 記憶にない前世の自分が、心の中で語りかけた。


(よく辿り着いた)


 エレノーラの睫毛が震えた。薄く目が開く。寝起きの琥珀色が、ぼんやりとクラウスを捉える。


 一瞬の空白。


 それから——目が見開かれた。


「クラウス様——! お目覚め——いつから——お体は——」


 慌てて身を起こし、額に手を当て、包帯を確認し、薬瓶に手を伸ばし——全てが同時で、何一つ完了しない。


 看病が下手だった。


 クラウスは笑った。


 口元だけの、小さな笑み。声にならない、息が漏れるだけの。


 けれどそれは、初めて——自然に浮かんだ笑みだった。


「おはようございます」


 エレノーラの手が止まった。琥珀色の瞳が潤む。泣きそうな顔で——けれど、笑った。


「おはようございます。——おかえりなさい」


 朝の光が窓から差し込み、二人の上に降り注いでいた。


 もう暗闇の中で目覚めることはない。


 探していた人が、ここにいるのだから。


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