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毒殺された悪役令嬢は過去に戻り、今度は全員の破滅を設計する  作者: スナハコ
第5章

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48.未来を選ぶ

 紅茶の香りで、目が覚めた。


 ダージリンのセカンドフラッシュ。甘く華やかな、夏摘みの香り。カーテンの隙間から朝の光が差し込み、寝室の空気をゆっくりと温めている。


 エレノーラは目を開けた。窓の外で鳥が鳴いている。穏やかな朝。


 婚約から三ヶ月が過ぎていた。


「おはようございます」


 執務室との境の扉が開いて、クラウスがティーカップを手に入ってきた。銀灰色の髪。銀縁の眼鏡。白いシャツの袖を腕まで巻き上げ、もう片方の手にペンを挟んでいる。


 仕事をしながら淹れたのだと一目でわかった。


「おはようございます。今日はずいぶん早いですわね」


「三時間前から起きています。昨夜の報告書が気になって」


「また一人で抱え込んでいる」


 眉を寄せた。


 クラウスの足が止まった。


「……お言葉ですが、昨日の財務報告を一人で片付けたのはどなたですか」


「あれは効率を考えて――」


「あなたこそ抱え込んでいます」


 紺色の瞳が眼鏡の奥で光った。淡々とした声の中に「言わせてもらいました」が滲んでいる。


 見つめ合った。三秒。


 エレノーラが先に折れた。


「……わかりました。報告書が残った場合は翌日に二人で片付ける。これでよろしいですか?」


「結構です。私も深夜作業は事前に共有します」


「合意ですわね」


「合意です」


 小さな喧嘩。小さな仲直り。


 以前の自分には想像もできなかった日常だった。


 カップを受け取る。指先がかすかに触れた。もう心臓が破裂しそうになることはない。けれど指先に小さな温もりが残ることに、毎朝気づく。


 一口飲んだ。完璧な温度、完璧な濃さ。嵐の前夜に二人で紅茶を飲んだ日と、同じ味。


「美味しいですわ」


「それは良かった」


 素っ気ない返事。けれどカップを傾ける横顔がわずかに和らぐのを、見逃さなかった。


      *


 午前中は政務だった。


 向かい合った二つの机。書類の山。ペンの音。窓から指す光が、部屋を温かく照らしている。


「ルドルフ殿下からの書簡です。北方領の税制改革案についてご意見を賜りたいと」


「殿下も本気ですわね」


「第一王子としての責務を自覚されたのでしょう。父上も高く評価しています」


 宰相グレゴールの名に、エレノーラは苦笑した。


「宰相閣下といえば――先日またお手紙が」


「内容は」


「『孫はまだか』の一言でした」


 クラウスのペンが止まった。眼鏡を押し上げる指が強張っている。


「……父上には私から話します」


「放っておきましょう。ユリウス様に先を越されるかもしれませんし」


「ユリウスはまだ独身です」


「騎士団長になってから、随分と人気のようですわよ」


 クラウスの眉が微かに動いた。興味がない振りをして、しっかり聞いている。


(相変わらず不器用)


 愛おしかった。


      *


 昼過ぎ、扉がノックされた。


「エレノーラ様、クラウス様。お茶の時間ですよ」


 マリアだった。侍女長の正装に身を包み、背筋を伸ばしている。あの控えめな侍女の面影はまだあるけれど、目に落ち着きと自信が宿っていた。


「ありがとう。すぐに参りますわ」


「お庭のテラスにご用意してあります。新しい焼き菓子も」


 マリアが一礼して去っていく。その背中を見送りながら、思った。


 あの子が弟の治療費のために聖女に買収される未来は、もう来ない。弟はとうに快復し、マリアは侍女長として公爵邸を支えている。


 前世で毒を盛った手が、今は焼き菓子を運んでくる。


 テラスへ向かう回廊を並んで歩く。


「お父様からもお手紙が来ましたわ」


「公爵からも孫の催促ですか」


「違いますわ。領地の収穫が過去最高だったそうです。嬉しそうな文面でした」


「重畳です」


 父は元気だった。領地に戻り、不器用なりに領民のために働いている。時折届く手紙は相変わらず短いけれど、最後に必ず「体に気をつけなさい」の一文がある。以前はなかったその一行が、何より嬉しかった。



      *



 午後の紅茶を終え、執務室に戻った。


 夕方の光が窓から斜めに差し込んでいる。橙色の光が書棚の背表紙を染め、クラウスの銀灰色の髪を金色に縁取っていた。


 窓辺に立った。


 眼下に王都の街並みが広がっている。石畳の通りを人々が行き交い、市場の喧騒が遠くに聞こえる。王宮の尖塔が夕日を受けて輝いていた。


 この景色を、前に見た。


 死に戻った朝。同じ窓から同じ景色を見た。まだ何も壊れていない世界。あの時は、この景色の中に敵の影を探していた。


 今は——ただ、美しいと思える。


 待った。


 いつも来るのだ。こういう穏やかな瞬間に、前世の記憶が不意に蘇る。喉が焼ける感覚。冷たい床。誰にも助けてもらえなかった絶望。あの悪夢が視界を塗り潰し、足元を崩す——。


 来なかった。


 待っても、来なかった。


 喉の痛みも、冷たさも、絶望も。記憶は消えていない。消えることはない。けれど——もう、不意打ちのようには襲ってこなかった。


 過去が、過去になっていた。


 背後で、ペンを置く音がした。


「クラウス様」


「はい」


 振り返った。


 夕日に照らされた執務室に、銀灰色の髪の男が座っていた。眼鏡に橙色の光が映り込んでいる。紺色の瞳が、静かにこちらを見ていた。


「生きています」


 声が震えた。大評議会でも百人の貴族の前でも震えなかった声が。


「わたくし、今、ちゃんと生きています」


 自分でも驚くほど、その言葉が胸の底から湧き上がってきた。


 前世で死んだ日、最後に思ったのは——何一つ自分の意志で選べなかった、ということだった。


 今は違う。


 この人を選んだ。この未来を選んだ。毎朝の紅茶を。小さな喧嘩を。隣を歩く足音を。全部、自分の意志で——選んだ。


 クラウスが立ち上がった。静かな足取りで歩み寄り、目の前に立った。


 紺色の瞳が、夕日の光を受けて深く輝いていた。


「ええ」


 低い声。短い声。けれどその一語に全てが込められていた。バルコニーで「おかえりなさい」と言った時と同じ深さで。婚約の日に「最高の設計を」と笑った時と同じ温もりで。


「これからも、ずっと」


 手が伸びて、エレノーラの手を取った。左手の薬指の銀の指輪が、夕日を受けて小さく光った。


 温かかった。


 握り返した。


 窓の外で夕日が王都を橙色に染めている。鳥が群れをなして空を横切り、どこかの鐘楼が夕刻の鐘を鳴らしている。


 穏やかな日だった。特別なことは何もない。紅茶を飲んで、仕事をして、小さな喧嘩をして、仲直りをして——隣にこの人がいる。それだけの日。



 それだけの日が、二度の人生をかけて手に入れたものだった。



 あの日死んだ私が手に入れたのは、復讐ではなく、未来でした。



(おわり)

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― 新着の感想 ―
サスペンス感アリでハラハラドキドキムカムカでとても面白かったです。素敵な作品ありがとうございました♪
連載完結お疲れ様でした。百に満たない話数でありながら、とても読み応えのある作品で、楽しく拝読いたしました。素敵なお話を世に産み出していただき、ありがとうござます。 エレノーラ嬢の念願叶いハッピーエンド…
完結おめでとうございます。二人ともよく頑張りましたね~。作者様共々お疲れ様でした。細かい設定が多々疑問に感じましたが、起承転承転承転承転結となかなかに山あり谷ありで楽しませていただきました。ありがとう…
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