48.未来を選ぶ
紅茶の香りで、目が覚めた。
ダージリンのセカンドフラッシュ。甘く華やかな、夏摘みの香り。カーテンの隙間から朝の光が差し込み、寝室の空気をゆっくりと温めている。
エレノーラは目を開けた。窓の外で鳥が鳴いている。穏やかな朝。
婚約から三ヶ月が過ぎていた。
「おはようございます」
執務室との境の扉が開いて、クラウスがティーカップを手に入ってきた。銀灰色の髪。銀縁の眼鏡。白いシャツの袖を腕まで巻き上げ、もう片方の手にペンを挟んでいる。
仕事をしながら淹れたのだと一目でわかった。
「おはようございます。今日はずいぶん早いですわね」
「三時間前から起きています。昨夜の報告書が気になって」
「また一人で抱え込んでいる」
眉を寄せた。
クラウスの足が止まった。
「……お言葉ですが、昨日の財務報告を一人で片付けたのはどなたですか」
「あれは効率を考えて――」
「あなたこそ抱え込んでいます」
紺色の瞳が眼鏡の奥で光った。淡々とした声の中に「言わせてもらいました」が滲んでいる。
見つめ合った。三秒。
エレノーラが先に折れた。
「……わかりました。報告書が残った場合は翌日に二人で片付ける。これでよろしいですか?」
「結構です。私も深夜作業は事前に共有します」
「合意ですわね」
「合意です」
小さな喧嘩。小さな仲直り。
以前の自分には想像もできなかった日常だった。
カップを受け取る。指先がかすかに触れた。もう心臓が破裂しそうになることはない。けれど指先に小さな温もりが残ることに、毎朝気づく。
一口飲んだ。完璧な温度、完璧な濃さ。嵐の前夜に二人で紅茶を飲んだ日と、同じ味。
「美味しいですわ」
「それは良かった」
素っ気ない返事。けれどカップを傾ける横顔がわずかに和らぐのを、見逃さなかった。
*
午前中は政務だった。
向かい合った二つの机。書類の山。ペンの音。窓から指す光が、部屋を温かく照らしている。
「ルドルフ殿下からの書簡です。北方領の税制改革案についてご意見を賜りたいと」
「殿下も本気ですわね」
「第一王子としての責務を自覚されたのでしょう。父上も高く評価しています」
宰相グレゴールの名に、エレノーラは苦笑した。
「宰相閣下といえば――先日またお手紙が」
「内容は」
「『孫はまだか』の一言でした」
クラウスのペンが止まった。眼鏡を押し上げる指が強張っている。
「……父上には私から話します」
「放っておきましょう。ユリウス様に先を越されるかもしれませんし」
「ユリウスはまだ独身です」
「騎士団長になってから、随分と人気のようですわよ」
クラウスの眉が微かに動いた。興味がない振りをして、しっかり聞いている。
(相変わらず不器用)
愛おしかった。
*
昼過ぎ、扉がノックされた。
「エレノーラ様、クラウス様。お茶の時間ですよ」
マリアだった。侍女長の正装に身を包み、背筋を伸ばしている。あの控えめな侍女の面影はまだあるけれど、目に落ち着きと自信が宿っていた。
「ありがとう。すぐに参りますわ」
「お庭のテラスにご用意してあります。新しい焼き菓子も」
マリアが一礼して去っていく。その背中を見送りながら、思った。
あの子が弟の治療費のために聖女に買収される未来は、もう来ない。弟はとうに快復し、マリアは侍女長として公爵邸を支えている。
前世で毒を盛った手が、今は焼き菓子を運んでくる。
テラスへ向かう回廊を並んで歩く。
「お父様からもお手紙が来ましたわ」
「公爵からも孫の催促ですか」
「違いますわ。領地の収穫が過去最高だったそうです。嬉しそうな文面でした」
「重畳です」
父は元気だった。領地に戻り、不器用なりに領民のために働いている。時折届く手紙は相変わらず短いけれど、最後に必ず「体に気をつけなさい」の一文がある。以前はなかったその一行が、何より嬉しかった。
*
午後の紅茶を終え、執務室に戻った。
夕方の光が窓から斜めに差し込んでいる。橙色の光が書棚の背表紙を染め、クラウスの銀灰色の髪を金色に縁取っていた。
窓辺に立った。
眼下に王都の街並みが広がっている。石畳の通りを人々が行き交い、市場の喧騒が遠くに聞こえる。王宮の尖塔が夕日を受けて輝いていた。
この景色を、前に見た。
死に戻った朝。同じ窓から同じ景色を見た。まだ何も壊れていない世界。あの時は、この景色の中に敵の影を探していた。
今は——ただ、美しいと思える。
待った。
いつも来るのだ。こういう穏やかな瞬間に、前世の記憶が不意に蘇る。喉が焼ける感覚。冷たい床。誰にも助けてもらえなかった絶望。あの悪夢が視界を塗り潰し、足元を崩す——。
来なかった。
待っても、来なかった。
喉の痛みも、冷たさも、絶望も。記憶は消えていない。消えることはない。けれど——もう、不意打ちのようには襲ってこなかった。
過去が、過去になっていた。
背後で、ペンを置く音がした。
「クラウス様」
「はい」
振り返った。
夕日に照らされた執務室に、銀灰色の髪の男が座っていた。眼鏡に橙色の光が映り込んでいる。紺色の瞳が、静かにこちらを見ていた。
「生きています」
声が震えた。大評議会でも百人の貴族の前でも震えなかった声が。
「わたくし、今、ちゃんと生きています」
自分でも驚くほど、その言葉が胸の底から湧き上がってきた。
前世で死んだ日、最後に思ったのは——何一つ自分の意志で選べなかった、ということだった。
今は違う。
この人を選んだ。この未来を選んだ。毎朝の紅茶を。小さな喧嘩を。隣を歩く足音を。全部、自分の意志で——選んだ。
クラウスが立ち上がった。静かな足取りで歩み寄り、目の前に立った。
紺色の瞳が、夕日の光を受けて深く輝いていた。
「ええ」
低い声。短い声。けれどその一語に全てが込められていた。バルコニーで「おかえりなさい」と言った時と同じ深さで。婚約の日に「最高の設計を」と笑った時と同じ温もりで。
「これからも、ずっと」
手が伸びて、エレノーラの手を取った。左手の薬指の銀の指輪が、夕日を受けて小さく光った。
温かかった。
握り返した。
窓の外で夕日が王都を橙色に染めている。鳥が群れをなして空を横切り、どこかの鐘楼が夕刻の鐘を鳴らしている。
穏やかな日だった。特別なことは何もない。紅茶を飲んで、仕事をして、小さな喧嘩をして、仲直りをして——隣にこの人がいる。それだけの日。
それだけの日が、二度の人生をかけて手に入れたものだった。
あの日死んだ私が手に入れたのは、復讐ではなく、未来でした。
(おわり)




