47.婚約
薔薇の香りが、風に乗って頬を撫でた。
王宮の中庭庭園。蔓薔薇が満開を迎え、大理石の通路に花弁が散り敷いている。白絹の天蓋の下に百を超える椅子が並べられていた。
招待状には「国王陛下主催の園遊会」とだけあった。だがエレノーラは知っていた。昨夜、マリアが泣きながらドレスを選んでいた時点で、全て察していた。
(あの子、「お嬢様に一番似合うものを」って言いながら三時間も悩んでたし)
鏡の中の自分を見る。淡い象牙色のドレス。深い赤みがかった茶髪を編み上げ、小さな真珠の髪飾りを一つだけ。華やかすぎず、地味すぎない。自分らしい装いだった。
「お嬢様、ご準備はよろしいですか」
マリアの声が、わずかに裏返っていた。
「マリア。あなたの方が緊張していませんこと?」
「し、していません! 全くしていません!」
目が赤い。もう泣いている。まだ何も始まっていないのに。
「ハンカチは持ちましたか」
「三枚持ちました」
「足りないかもしれませんわね」
「……五枚にします」
*
庭園に足を踏み入れた瞬間、視線の波が押し寄せた。
貴族たちが椅子から振り返る。囁きが薔薇の香りに混じって広がっていく。通路の奥――庭園の中央に設けられた壇上に、王座が一つ。国王ヴィルヘルム三世が穏やかな微笑みで座していた。
その傍らに、ルドルフ第一王子が立っている。白い軍礼服に身を包み、静かな目でこちらを見ていた。
そして――壇の前に。
クラウス・フォン・ジークムントが立っていた。
銀灰色の髪。銀縁の眼鏡。黒を基調とした正装に、胸元に銀の鎖飾りが一筋だけ。この男らしい、装飾をそぎ落とした身なりだった。
(――やっぱり、かっこいい)
心臓が跳ねた。わかっていたのに。何が起こるか全部知っていたのに。
通路を歩く。一歩ごとに、花弁が靴の下で柔らかく潰れる。百を超える視線が注がれている。けれどエレノーラの目には、壇の前に立つ一人の男しか映っていなかった。
クラウスが眼鏡を押し上げた。
それから――もう一度、押し上げた。
(二回、二回だ)
あの男が眼鏡を続けて触るのは、動揺している時だけだ。代評議会でも一度も崩れなかった男が――今、指先だけで動揺を露呈している。
不思議と、心が凪いだ。この人が緊張しているのなら、自分は笑っていよう。
*
壇の前に立った。
クラウスと向き合う。手を伸ばせた届く距離。いつもの執務室よりも少し遠くて、けれどあのバルコニーの夜よりもずっと近い。
国王が立ち上がった。
「本日、この場にて――宰相補佐官クラウス・フォン・ジークムントより、ハーゼンベルク公爵令嬢エレノーラ・フォン・ハーゼンベルクへ、婚約の申し入れがあった。余はこれを認め、証人となる」
庭園が静まった。薔薇の葉擦れの音だけが、かすかに響いている。
クラウスが一歩、前に出た。
懐から小さな箱を取り出す。その手が――ほんのわずかだが、震えていた。あの冷徹な宰相補佐官の手が。
(ああ。この人は、ちゃんと怖いんだ。ちゃんと――人間なんだ)
箱が開いた。
中にあったのは、銀の指輪だった。華美な装飾はない。細い銀の環に、小さな青い石が一つだけ嵌め込まれている。余命なものを削ぎ落とした、設計図のように精密な――。
(この人らしい)
胸が詰まった。
クラウスが口を開いた。
紺色の瞳がまっすぐにエレノーラを見ている。眼鏡のレンズに午後の光が映り込んで、その奥の目がいつもより深く見えた。
「エレノーラ・フォン・ハーゼンベルク」
低い声だった。代評議会の壇上よりも静かで、バルコニーの夜より確かな声。
「私と――未来を、共に設計してくれませんか」
設計。
求愛でも誓いでも甘い言葉でもない。設計。この男は――この男だけは、最後の最後まで、こうなのだ。
今までの自分がやってきたのは「復讐の設計」だった。敵を詰ませるための盤面を組み、因果を重ねる設計。
今、この人が差し出しているのは――未来の設計。二人でこれから先を、共に作っていくための。
堪えきれなかった
吹き出した。
百の貴族の前で、国王陛下の御前で――公爵令嬢が笑った。目元に涙を滲ませながら、口元を手で押さえて。
「あなたらしい求婚ですわね」
声が震えた。涙ではなく、こみ上げる愛おしさで。
クラウスの眉がわずかに上がった。想定外の反応に戸惑う顔。
「……笑われるとは想定外でした」
「だって――設計ですのよ? 求婚に設計という言葉を使う方がどこにいますの」
「ここにいます」
真剣な顔だった。
深く息を吸った。涙を瞬きで押し返した。
クラウスが小さく咳払いをした。耳の先が赤い。
「答えを」
短い声。紺色の瞳が揺れていた。
百の視線が注がれている。薔薇の花弁が風に舞っている。
けれどエレノーラには、この人の声しか聞こえなかった。
「――はい」
令嬢の仮面ではなかった。復讐者の声でもなかった。ただの十七歳の、本心の声。
「喜んで、設計いたしますわ」
*
指輪が、左手の薬指に嵌められた。
クラウスの指先がまだ微かに震えていた。銀の環が肌に触れた瞬間、冷たくて――すぐに体温が移った。
小さな青い石が午後の陽を受けて、静かに輝いている。
顔を上げた。ヒイロの瞳がすぐ近くにあった。その奥に――泣いているような、笑っているような、名前のつかない表情が浮かんでいた。
「――ありがとうございます」
ほとんど囁きだった。
(それはこっちの台詞)
胸の奥が熱い。
拍手が起きた。
最初の一つは静かだった。壇上のルドルフが白い手袋の手を合わせている。穏やかな目が細められていた。
「よくやったぞ、クラウス! エレノーラ嬢!」
ユリウスだった。客席の端から身を乗り出し、騎士にあるまじき大声で。隣の貴族が椅子ごと揺れていた。
グレゴールが静かに拍手していた。含み笑いではない。息子を見つめる父の顔。唇が動いた。「よくやった」と。
マリアはもう駄目だった。五枚のハンカチが足りなかったらしい。声を殺そうとして全く殺せていない。
客席の中ほどに――ハーゼンベルク公爵の姿があった。
父は拍手していた。ゆっくりと、噛みしめるように。この不器用な父は人前で泣くような人ではない。けれど唇を強く噛んでいた。顎が震えていた。赤くなった目を、一度だけ空に向けた。
(お父様――)
拍手が広がっていく。庭園全体を包む。薔薇の香りと陽光と、百の手が打ち合わされる音。
その真ん中で、エレノーラはクラウスの手を握った。温かかった。もう震えていなかった。
「クラウス様」
「はい」
「よい設計にいたしましょう」
クラウスが――笑った。口元をわずかに緩めるだけの、この人だけの笑い方。眼鏡の奥の瞳が、見たことのないほど柔らかく光っていた。
「ええ。最高の設計を」
花弁が舞っていた。拍手が鳴り止まない。
けれどエレノーラには、握られた手の温もりと、隣の人の息遣いしか聞こえなかった。
前世で冷たい床の上で死んだ少女が――今、この手を握っている。
頬を伝う涙を、拭わなかった。拭う必要がなかった。
これは――約束通りの、嬉し涙だったから。




